源義経年表


注:( )内は年齢。○数字は閏月。



作成 前川佳代
年 号 西暦   月  日      義経の事跡 関 連事項
平治元年 1159   義経が生まれる(1)  
    12月   12月 平治の乱がおこる 
永暦元年 1160 1月4日 父・義朝、尾張国で殺される(38)。  
    2月 常磐、大和国宇多郡竜門牧に逃亡 後、自首。  
    3月11日   兄・頼朝、伊豆国へ配流
        藤原基成、舎弟信頼の縁坐で陸奥 配流
仁安2年 1167 2月11日   平清盛、太政大臣となる。
嘉応元年 1169   この頃、鞍馬寺に入る?(11)  
嘉応2年 1170 5月25日   藤原秀衡,鎮守府将軍に任じら る。
承安4年 1174   この頃、奥州に下る?(16)  
安元2年 1176 4月   陸奥守兼鎮守府将軍藤原範季、陸 奥下向する。
治承元年 1177 6月   鹿ヶ谷の陰謀事件
治承3年 1179 11月   平清盛、反清盛派公卿を解官し、 後白河法皇を幽閉(治承3年のクーデター)
治承4年 1180 2月21日   安徳天皇践祚    
    4月9日   以仁王の令旨発せらる。
    4月27日   平氏追討を命じる以仁王の令旨、 頼朝のもとへ至る。
    5月26日   以仁王(30)・源頼政(77) 敗死
    6月2日   福原遷都
    8月17日   源頼朝挙兵
    8月   頼朝、石橋山の戦いで大庭景親ら に破れ、安房に逃れる。
    9月7日   木曽の源義仲挙兵
    10月6日   頼朝、鎌倉に入る。
    10月20日   富士川の戦いで頼朝勝利
    10月21日 黄瀬川の宿で頼朝と対面(22)  
    11月26日   福原より京都に還都
    12月4日   秀衡、清盛の命により頼朝追討の 請文を提出したとの風説あり。
    12月28日   南都焼き討ち
養和元年 1181 1月14日   高倉上皇没(21)
    �A月4日   清盛没(64)。
    3月10日   平重衡、美濃国墨俣川の戦いで源 行家らを破る。この戦いで義経の同母兄義円討死する(27)。
    3月17日   秀衡、軍勢を率いて白河関を越え るとの風説あり。
    7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟に、大工の馬を 引く(23)  
    8月14日   北陸道追討使平経正・通盛ら進発 す。
    8月15日   秀衡を陸奥守に任じ、諸国の源氏 を討たせようとする。
    11月5日 平氏軍を迎え撃つため遠江に行こ うとしたが延引となる。  
寿永元年 1182 2月25日   平教盛、木曽義仲追討へ進発(実 現せず)
    4月5日   文覚、江ノ島に弁財天を勧請し、 秀衡調伏を祈祷する(21日間)。
    9月25日   土佐で源希義が殺される。
寿永2年 1183 2月   野木宮合戦。頼朝、叔父源義広を 逐う。
 
3月   頼朝、義仲討伐のために信濃に進 発。義仲、嫡子義高を人質として鎌倉へ遣わす。
 
4月   北陸道追討使平維盛ら進発す。
    5月11日   木曽義仲、越中国礪波山の平氏軍 陣地を夜襲し、これを破る(倶利伽羅峠の戦い)。
    7月22日   義仲、延暦寺に入る。
    7月25日   平宗盛等平氏一門、安徳天皇と神 器を奉じて西海へ逃れる。
    7月28日   義仲入京。後白河法皇、義仲に平 氏追討を命じる
    8月20日   後鳥羽天皇践祚
    10月9日   頼朝、秀衡・佐竹氏らが鎌倉に入 る恐れありとして上京を辞退。頼朝復官
    10月14日   頼朝、東国沙汰権を認められる (寿永二年十月宣旨)。
    �I月1日   義仲、備中国水島で、平重衡・通 盛に大敗する。
    �I月17日 義経、大将軍となり数万の軍兵を 率い上洛するという。 秀衡が義仲とはかって頼朝を攻め るという風説あり。
    11月4日 義経、美濃国不破関に到着とい う。  
    11月10日 義経、近江にあり。  
    11月18日 義経、伊勢神郡に到着という。  
    11月19日   義仲、法住寺殿を襲って法皇を監 禁する(法住寺合戦)。
    12月1日 伊勢国にあり。勢五百騎。伊勢国 人が従い、和泉守平信兼が合力。  
    12月10日   法皇、義仲に頼朝追討の院宣を下 す。
元暦元年 1184 1月8日   義仲、征夷大将軍なる。平氏、福 原に至り、帰京の機会をうかがう。
    1月20日 瀬田・宇治の合戦。源範頼・義 経、義仲を破って入京し、六條殿へ向法皇を警護 源義仲、近江にて敗死(31)
    1月26日   平氏追討宣旨下る
    1月27日   義仲追討報告が鎌倉に到着
    1月28日 義経郎従が恥辱に及んだと小槻隆 職に訴えられる。  
    1月29日 範頼・義経、平氏追討に向う。  
    2月4日   頼朝、紀伊国湯浅宗重の追討を禁 じ、本領安堵して京に召すよう義経に書状を送る。御家人化を促す。
    2月5日 範頼・義経、摂津に到着  
    2月6日 義経、鵯越に向かう  
    2月7日 一ノ谷に平氏軍を破る。  
    2月8日   源氏の勝利が京都に伝わる。
    2月9日 京都に凱旋  
    2月11日 範頼・義経、朝廷に平氏の首の大 路渡を承認させる。  
    2月13日 平氏方の首、義経の六条室町邸に 集められる。  
    2月15日
鎌倉カマクラに戦勝センショウ報告ホウコクが到着トウチャク
    2月18日   頼朝ヨリトモ、京都キョウトに使者シシャを派遣ハケンし、洛陽ラクヨウ警固ケイゴ以下イカを義経ヨシツネに命メイず。
    2月22日 春日カスガ社シャ領リョウ摂津セッツ国クニ垂水タルミ牧マキの兵糧ヒョウロウ米マイを停止テイシ。  
    2月25日   頼朝ヨリトモ、朝チョウ務ム四4箇条カジョウを奏ソウ請セイ。義経ヨシツネに畿内キナイ近国キンゴクの軍事グンジ統率トウソツ権ケンを付与フヨし、また平氏ヘイシ追討ツイトウを命メイじるよう奏ソウ請セイ。
    2月29日
義経ヨシツネによる平氏ヘイシ追討ツイトウが延期エンキとなる。
    2月 河内カワチ国クニ源ミナモト康コウ忠チュウの本宅ホンタク安堵アンド、兵糧ヒョウロウ米マイ使シの非ヒ法ホウ停止テイシ。御家人ゴケニン化カを促ウナガす。  
    3月2日 平ヘイ重ジュウ衡コウを自ジ邸テイに迎ムカえる。  
    3月10日   梶原カジワラ景ケイ時ジが平ヘイ重ジュウ衡コウを伴トモナい関東カントウに下向ゲコウ。
    3月27日   頼朝ヨリトモ、正セイ四4位イ下シタ。
    3月28日   頼朝ヨリトモと重ジュウ衡コウが対面タイメンする。
    3月 感神院領近江国蒲生保・丹波国天 田宗我部郷における武士の非法停止。高野山領阿弖川庄に対する寂楽寺所司などの押領停止。主殿領年預の争いを裁く。  
    4月22日   頼朝ヨリトモ、源ミナモト光コウ行ギョウの平氏ヘイシ与ヨ同ドウの科カを免メンす旨ムネ、義経ヨシツネに伝ツタえる。
    5月2日 義経ヨシツネが高野山コウヤサン阿ア弖川カワ庄ショウのことで書状ショジョウを送オクる。  
    5月24日 高野山コウヤサン伝デン法ホウ院イン領リョウ紀伊キイ国クニ七7箇カ庄ショウの兵糧ヒョウロウ米マイを停止テイシする。  
    5月27日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネに藤原フジワラ兼ケン高コウの所ショ職ショク安堵アンドを命メイじる。
    5月 石見イワミ国クニ御家人ゴケニンに対タイし、押オ領リョウ使シ藤原フジワラ兼ケン高コウの下ゲ知チに従シタガい、平氏ヘイシ追討ツイトウに加クワわるよう命メイじる。  
    6月5日   頼朝ヨリトモの推挙スイキョにより、範ハン頼ライ、参サン河カワ守カミに。義経ヨシツネは推挙スイキョされず。
    7月3日   頼朝ヨリトモ、平氏ヘイシ追討ツイトウのため義経ヨシツネを西海サイカイへ遣ツカわすことを法皇ホウオウに奏ソウす。
    7月5日   伊勢イセ平氏ヘイシ、伊賀イガ守護シュゴ大内オオウチ惟コレ義ヨシを襲オソう
    7月19日   近江オウミ国クニで佐々木ササキ氏シら、伊勢イセ平氏ヘイシと合戦カッセン。
    8月3日   頼朝ヨリトモ、出羽デワ守カミ信シン兼ケン子息シソク等ナドの京キョウ中チュウに隠カクれているのを討ウつよう義経ヨシツネに命メイじる。
    8月6日 左衛門サエモン(少)尉ショウイに任ニンぜられ、使シの宣セン旨シを蒙コウムる(検非違使ケビイシ左サ衛門エモン尉イ)。  
    8月8日   範ハン頼ライ、平氏ヘイシ追討ツイトウのため鎌倉カマクラを出発シュッパツ。
    8月10日 義経ヨシツネが平タイラ信シン兼ケン男オトコ三サン人ニンを誅チュウす。  
    8月12日 義経ヨシツネが伊勢イセに向ムかい出羽デワ守カミ信シン兼ケンを討ウつ。   
    8月17日   義経ヨシツネの任官ニンカンの報ホウ、鎌倉カマクラに到達トウタツ。頼朝ヨリトモ怒オコり、平氏ヘイシ追討ツイトウ使シを猶予ユウヨす。
    8月26日
義経ヨシツネの飛脚ヒキャク、鎌倉カマクラに到着トウチャク。平ヘイ信シン兼ケン男オトコの誅チュ戮リクしたことを報ホウず。
    8月29日 平氏ヘイシ追討ツイトウの官カン符フを範ハン頼ライ(27日ニチ入ハイ洛ラク)に賜タマワう。  
    9月1日   範ハン頼ライ、京都キョウトを進発シンパツ
    9月5日   頼朝ヨリトモの奏ソウ請ショウにより、掃ハ部ブ頭ガシラ安倍アベ季キ弘ヒロシを解カイ官カン。法皇ホウオウ、その旨ムネを義経ヨシツネに伝ツタえる。
    9月9日   頼朝ヨリトモ、京都キョウトにおける信シン兼ケンの没ボツ官カン地チを義経ヨシツネに沙汰サタさせる。
    9月14日
河越カワゴエ太郎タロウ重ジュウ頼ライの女オンナが義経に嫁すため京キョウに向ムかう。
    9月18日 義経ヨシツネを従ジュウ五位ゴイ下シタとす  
    9月20日 摂津セッツ国クニ垂水タルミ西ニシ牧マキ萱カヤ野ノ郷ゴウ内ナイの狼藉ロウゼキを停止テイシす。  
    10月11日 義経ヨシツネ拝 賀ハイガ、院イン御所ゴショ・内裏ダイリの昇殿ショウデンを許ユルされる。  
    10月25日 大嘗祭ダイジョウサイ御祓ミソギの行幸ギョウコウに供奉グブ。  
    11月14日   頼朝ヨリトモ、宇都宮ウツノミヤ朝アサ綱ツナ以下イカ、西国サイゴクに所領ショリョウを与アタえられた御家人ゴケニンの沙汰サタ付ツを義経ヨシツネに命メイじる。
    12月3日   北条ホウジョウ時トキ政セイ、頼朝ヨリトモの園城寺オンジョウジ帰依キエを義経ヨシツネに伝ツタえる。
    12月20日   義経ヨシツネより西国サイゴク所領ショリョウ沙汰サタ付ツの請ウ文ブミ到着トウチャク
    12月29日 伝デン法ホウ院イン領リョウの兵糧ヒョウロウ米マイ・万マン雑ザツ公コウ事ジの停止テイシを重カサねて命メイじる。  
文治元年 1185 1月6日   範ハン頼ライの飛脚ヒキャクを受ウけて、頼朝ヨリトモ、平氏ヘイシ追討ツイトウについて範ハン頼ライに書状ショジョウを送オクる。範ハン頼ライ勢セイは11月ガツより兵糧ヒョウロウ米マイを欠乏ケツボウ。

1月8日 義経ヨシツネ、四国シコクに向ムかうと後白河ゴシラカワ院インに申モウし出デる。  
    1月10日 平氏ヘイシ追討ツイトウのため京都キョウト出発シュッパツ  
    1月22日 和泉イズミ国クニ春木ハルキ庄ショウ内ナイ観音寺カンノンジ住ジュウ僧ソウなどの住ジュウ房ボウを安堵アンドし、武士ブシの狼藉ロウゼキを禁止キンシ。  
    1月26日   範ハン頼ライ軍グン、九州キュウシュウに渡ワタる。
    2月14日   範ハン頼ライの飛脚ヒキャク到着トウチャク。頼朝ヨリトモ、激励ゲキレイする返書ヘンショを出ダす。
    2月16日 院イン使シ高タカ階カイ泰タイ経ケイ、先陣センジンを留トドめにくる。同オナじ頃コロ、四国シコク渡海トカイをめぐって義経ヨシツネが梶原カジワラ景ケイ時ジと争アラソう(逆サカ櫓ロ事件ジケン)  
    2月17日 義経ヨシツネ、暴風ボウフウの中ナカ、摂津セッツ国クニ渡部ワタナベより船フネを発ハッし阿波アワに向ムう。  
    2月18日 阿波アワ国クニ椿ツバキ浦ウラに上陸ジョウリク、桂カツラ浦ウラで田口タグチ良ヨ遠トオを攻セめる。  
    2月19日 屋島ヤシマの戦タタカい。佐藤サトウ継ケイ信シン戦死センシ  
    2月21日 河野コウノ通信ツウシン、熊野クマノ別当ベットウ湛タン増ゾウが義経ヨシツネに合力ゴウリキ。  
    2月22日   梶原カジワラ景ケイ時ジらの軍グン、屋島ヤシマに到着トウチャク
    3月8日
義経ヨシツネの飛脚ヒキャクが到着トウチャクし、屋島ヤシマの戦況センキョウが鎌倉カマクラに伝ツタわる。
    3月11日
頼朝ヨリトモ、9日ニチ着チャクの範ハン頼ライの書状ショジョウに返書ヘンショを遣ツカわす。
    3月14日
頼朝ヨリトモ、追討ツイトウに遠慮エンリョを廻メグらすよう、範ハン頼ライに命メイず。
    3月21日 義経ヨシツネ、壇ダンノ浦ウラに向ムかうが、雨アメのため延エン引イン。周防スオウ国クニの在庁ザイチョウより兵船ヘイセンを献ケンじられる。  
    3月22日 三浦ミウラ義ギ澄スを先頭セントウに、船団センダンを率ヒキいて壇ダンノ浦ウラに向ムう。  
    3月24日 壇ダンノ浦ウラの戦タタカい。平氏ヘイシ滅亡メツボウ。  
    4月4日   戦勝センショウが京都キョウトに伝ツタわる。
    4月5日
勅使チョクシ、神器ジンギ奉還ホウカンを義経ヨシツネに命メイじるため、長門ナガト国クニ下向ゲコウ
    4月11日   戦勝センショウが鎌倉カマクラに伝ツタわる。
    4月21日   義経ヨシツネの不義フギを訴ウッタえる梶原景時の書状ショジョウが頼朝ヨリトモのもとに届トドく。
    4月24日 義経ヨシツネ、賢ケン所ショ・神ジンギ璽ジに供奉グブして京都キョウトに凱旋ガイセン  
    4月26日 平氏ヘイシの捕虜ホリョ、京キョウの義経ヨシツネの邸テイに入ハイる。  
    4月27日 義経ヨシツネ、院イン御ゴ厩ウマヤ司シに任ニンじられる。 頼朝ヨリトモ、従ジュ二位ニイとなる。
    4月29日   頼朝ヨリトモ、西国サイゴクの田代タシロ信綱ノブツナに書ショを送オクり義経ヨシツネに従シタガわないよう命メイじる。
    5月4日   頼朝ヨリトモ、九州キュウシュウ滞在中タイザイチュウの梶原カジワラ景カゲ時トキにも義経ヨシツネに従シタガわないよう書カき送オクる。
    5月5日 壇ダンノ浦ウラの戦タタカい以後イゴ、九州キュウシュウの事コトを勝手カッテに沙汰サタすると訴ウッタえられる。 頼朝ヨリトモ、範ハン頼ライに宝剣ホウケン探索タンサクを命メイじる。
    5月7日 平ヘイ宗ムネ盛モリ・清セイ宗ソウ父子フシを連ツれて都ミヤコを出発シュッパツ、鎌倉カマクラに向ムかう。一条イチジョウ能ノウ保ホも下向ゲコウ 義経ヨシツネの使者シシャが起請文キショウモンを頼朝ヨリトモに献ケンずるが、頼朝ヨリトモ許ユルさず。
    5月15日 義経ヨシツネ、相模サガミ国クニ酒サケ勾マガタマに到着トウチャク。頼朝ヨリトモ、北条ホウジョウ時政トキマサを遣ツカわし宗ムネ盛モリらを迎ムカえ取トり、義経ヨシツネの鎌倉カマクラ入イりを禁キンず。  
    5月16日 一条イチジョウ能ノウ保ホの侍サムライ後藤ゴトウ基キ清セイの僕ボク従ジュウと、義経ヨシツネの家来ケライ伊勢イセ能ノウ盛セイの下シタ部ブが乱闘ラントウ。  
    5月19日
義経ヨシツネ婿ムコの源ミナモト有ア綱ツナの荘ソウ公オオヤケ押オ妨ボウが発覚ハッカク。
    5月24日 義経ヨシツネ、腰越コシゴエから書ショを大江オオエ広元ヒロモトに送オクり心情シンジョウを訴ウッタえる(腰越コシゴエ状ジョウ)。  
    6月9日 義経ヨシツネ、頼朝ヨリトモの命メイにより、宗ムネ盛モリを京都キョウトに護送ゴソウする。  
    6月13日
頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ所有ショユウの平家ヘイケ没ボツ官カン領リョウを没収ボッシュウす。
    6月21日 義経ヨシツネ、近江オウミの篠原シノハラで宗ムネ盛モリを斬キる(39)。清セイ宗ムネを野路ノジで斬キる(16)。義経ヨシツネ入洛ニュウラク。八条ハチジョウ院イン使者シシャの伊予イヨ国クニ下向ゲコウの安全アンゼンを保証ホショウする書状ショジョウを出ダす。  
    6月23日
平ヒラ重ジュウ衡コウ、南都ナントで斬キられる(29)。
    6月ツキ 石見イワミ国クニ伊イ甘アマ郷ゴウ・益田マスダ庄ショウ・仲野ナカノ庄ショウ以下イカ所ショ職ショク田タ畠ハタケを元モトのごとく藤原フジワラ兼ケン高コウの所領ショリョウとするよう命メイじる。  
    7月12日 法皇ホウオウより群グン盗トウゾク警戒ケイカイを命メイぜらる。  
    8月4日
源ミナモト行イ家イエの謀反ムホン発覚ハッカク。頼朝ヨリトモ、佐々木ササキ定テイ綱ツナに、行イ家イエ追討ツイトウを命メイじる。
    8月16日 伊予イヨ守カミに任ニンぜられ、大夫タイフ尉イを兼任ケンニン  
    8月27日 法皇ホウオウ南都ナントへ御幸ゴコウ。供奉グブ。  
    9月2日   頼朝ヨリトモ、梶原カジワラ景カゲ季スエ・僧ソウ成シゲル尋ヒロシを上洛ジョウラクさせ、義経ヨシツネ・行ユキ家イエの行動コウドウを偵察テイサツさせる。
    9月12日   梶原カジワラら入ニュウ洛ラク。
    9月ツキ 義経ヨシツネ、12日ヒ以後イゴに景ケイ季キと対面タイメンし、病中ビョウチュウのため、行イ家イエ追討ツイトウのことは平癒ヘイユ後アトに計ケイをめぐらすと返事ヘンジ。  
    10月6日   梶原カジワラ景カゲ季スエ、鎌倉カマクラに帰カエり、義経ヨシツネの状況ジョウキョウを報告ホウコクす。頼朝ヨリトモ、疑ウタガいを深フカめる。
    10月9日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ追討ツイトウを議ギし土佐トサ房ボウ昌俊マサトシ派遣ハケンを決ケッす(行程コウテイ九9日ヒ)。
    10月11日 義経ヨシツネ、参院サンイン。行イ家イエの謀反ムホンを制止セイシできない旨ムネを奏ソウ上ジョウ。行ギョウ家イエを制止セイシするよう勅チョク答トウを受ウける。  
    10月13日 義経ヨシツネ、参院サンイン。 藤原フジワラ秀衡ヒデヒラ、義経ヨシツネに与ヨ同ドウするとの風説フウセツ流ナガれる。
    10月16日 義経ヨシツネ、参院サンイン。頼朝ヨリトモ追討ツイトウ宣セン旨シを請コう。 行イ家イエ、祇シ候コウ人ニンの家イエ屋ヤを追ツイ捕ホし、北キタ小路コウジ東ヒガシ洞ホラ院イン邸テイに移ウツり住スむ。
    10月17日 土佐トサ房ボウ昌俊マサトシが義経ヨシツネ邸ヤシキを襲オソう。 土佐トサ房ボウが院イン御所ゴショを襲撃シュウゲキしたとの風聞フウブン。
    10月18日 頼朝ヨリトモ追討ツイトウの院イン宣センを下クダされる。  
    10月19日   義経ヨシツネ勢セイが山之内ヤマノウチ経ケイ俊シュンの伊勢イセ国クニ守護シュゴ所ショを包囲ホウイしたとの風聞フウブン。
    10月22日 義経ヨシツネ、兵ヘイを近国キンゴクに募ツノるが応オウずるものなし。 頼朝ヨリトモ、追討ツイトウ宣旨センジが出ダされたことを知シる。
    10月23日   近江の武士、義経にくみせず、奥 に引き退く。義経ヨシツネの縁 者エンジャにより河越カワゴエ重ジュウ房ボウが勝カ長ナガ寿コトブキ院イン供養クヨウ供キョウ奉ホウ人ニンから外ハズされる。
    10月24日   頼朝ヨリトモが上洛ジョウラクのために軍グン士シを招集ショウシュウ。小山朝政・結城朝光が先陣として出立。
    10月26日 義経ヨシツネ、土佐トサ房ボウ昌ショウ俊シュンを捕殺ホサツす。  
    10月28日   片岡カタオカ常ツネ春ハルが舅シュウト佐竹サタケ義ヨシ政セイに同心ドウシン。謀反ムホンとみなし所領ショリョウを没収ボッシュウされる。
    10月29日   頼朝ヨリトモ、行ユキ家イエ・義経ヨシツネ征伐セイバツのため鎌倉カマクラを出発シュッパツ
    10月30日 摂津セッツ国クニ太田オオタ頼ライ基モトが城郭ジョウカクを構カマえ、西国サイゴク行イきの義経ヨシツネを狙ネラい、義経ヨシツネのために船フネを用意ヨウイした紀伊キイ権ケン守カミ兼ケン資シを討ウつ。そのため、義経ヨシツネ一行イッコウが北陸ホクリク下向ゲコウとの風聞フウブン。  
    11月1日 義経ヨシツネ西 国サイゴク下向ゲコウ延エン引イン、北陸ホクリクに変更ヘンコウか? 頼朝ヨリトモ、黄瀬キセ川カワに到着トウチャク
    11月2日 義経ヨシツネ、参サン院インし、山陽サンヨウ・西海サイカイの荘園ショウエン・公オオヤケ領リョウの沙汰サタ権ケンなどを認可ニンカされる。 義経ヨシツネの船フネの手配テハイをしていた藤原フジワラ友ユウ実ジツが庄ショウ四郎シロウに誅チュウせらる。
    11月3日 義経ヨシツネ・行イ家イエ、西海サイカイに出デ立タ。郎等ロウトウ以下イカ、その勢セイ二百ニヒャク騎キ。 京キョウ中チュウ騒動ソウドウ。
    11月4日 太田オオタ頼ライ基キ・多田タダ行イ綱ツナ・豊島トシマ冠者カンジャらに摂津セッツ国クニ河カワ尻シリで迎撃ゲイゲキされる。  
    11月5日 義経ヨシツネ、乗船ジョウセンして大物ダイモツ辺ヘンで宿シュクす。豊島テシマ冠者カンジャ・藤原フジワラ範ハン資シ(藤原フジワラ範ハン季キの息イキ。源範頼ミナモトノノリヨリの在京ザイキョウ家人カジンを率ヒキいる)らの追手オッテは近辺キンペンの在家ザイケに宿シュクす。夜半ヤハンより大風オオカゼ。義経ヨシツネらの船フネは損ソン亡ボウし、小船コブネで和泉イズミ浦ウラを目指メザして逃ニげ行ユく。義経ヨシツネ方カタの豊後ブンゴ武士ブシは範ハン資シに降伏コウフク、或アルいは捕トらえられる。 関東カントウ御家人ゴケニン入洛ニュウラク。頼朝ヨリトモの怒イカりを藤原フジワラ経ケイ宗ソウに伝ツタえる。
    11月6日 義経ヨシツネ、天王寺テンノウジ辺アタに宿シュクす。まもなく静シズと別ワカれ、吉野ヨシノ山ヤマへ向ムかう?  
    11月7日 義経ヨシツネ、官職カンショクを解トかる。 頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネの都ミヤコ落オちを伝ツタえ聞キく。義経ヨシツネらが豊後ブンゴ武士ブシに討ウち取トられたとの風聞フウブン
    11月8日   義経ヨシツネ遭難ソウナンの報ホウが京都キョウトに伝ツタわる。頼朝ヨリトモ、黄瀬キセ川カワより鎌倉カマクラへ帰カエる。法皇ホウオウが桂林ケイリン坊ボウで四天王シテンノウ法ホウを修シュウし、義経ヨシツネ謀叛ムホンの鎮定チンテイを祈イノる。
    11月9日   義経ヨシツネら淡路アワジ国クニに渡ワタったとの風聞フウブン。
    11月11日
行ユキ家イエ・義経ヨシツネ追討ツイトウの院イン宣セン諸国ショコクに下クダさる。
    11月12日 義経ヨシツネと静シズカ、この頃コロに吉野ヨシノ山ヤマで再会サイカイ? 河越重頼・下河辺政義の所領没 収。
    11月13日   関東カントウ武士ブシ多オオく入洛ニュウラク。       
    11月17日 義経ヨシツネは吉野ヨシノ山ヤマに隠カクれた後ノチ、山伏ヤマブシ姿スガタで逐電チクデン。静シズカは捕トらえられる。  
    11月20日   義経ヨシツネに同行ドウコウした平ヘイ時ジ実ジツ捕縛ホバク。八島ヤシマ冠者カンジャ時トキ清セイが義経ヨシツネ生存セイゾンの報ホウを京キョウに伝ツタえる。
    11月22日 義経ヨシツネ、吉野ヨシノ山ヤマの深雪シンセツをしのぎ多武峰トウノミネへ向ムかう。多武峰トウノミネの僧ソウ、十ジュウ字ジ坊ボウが義経ヨシツネをもてなす。  
    11月24日   北条ホウジョウ時政トキマサ入ニュウ洛ラク
    11月25日   義経ヨシツネ捜索ソウサクを命メイじる宣旨センジが出ダされる。
    11月29日 義経ヨシツネ、十字ジュウジ坊ボウの言ゲンに従シタガい、十ト津川ツガワへ向ムかう。僧ソウ八人ハチニンを付ツけてもらう。 義経ヨシツネ追ツイホ捕ホを理由リユウに諸国ショコクに「守護シュゴ・地頭ジトウ」設置セッチ許ユルされる。
    12月3日   侍従ジジュウ一条イチジョウ能ノウ成セイ(義経ヨシツネ同母ドウボ弟テイ)が保ホ田タ子シ男オトコと共トモに下向ゲコウ
    12月6日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ与ヨ同ドウ者シャの解カイ官カンと、議ギ奏ソウ公卿クギョウの任命ニンメイを奏ソウ請セイ。
    12月8日   吉野ヨシノ執行シッコウ、静シズを京都キョウトの北条ホウジョウ時政トキマサ亭テイに送オクる。時政トキマサ、軍グン士シを吉野ヨシノ山サンに発ハッす。
    12月15日   時政トキマサの飛脚ヒキャク、鎌倉カマクラに着ツき、静シズカを尋問ジンモンした旨ムネを伝ツタえる。
    12月16日   頼朝ヨリトモ、時政トキマサに送オク命メイじ静シズカを関東カントウに下クダさしむ。
    12月17日   高階タカシナ泰ヤスシ経キョウら解カイ官カンされる。
    12月29日   頼朝ヨリトモの廟ビョウ堂ドウ粛清シュクセイ。廷臣テイシンの解ゲ官カン、議ギ奏ソウジョウ公卿クギョウの設置セッチ
    12月   後白河ゴシラカワ院インに藤原フジワラ秀衡ヒデヒラからの進物シンモツが届トドく。
文治2年 1186 2月18日   義経ヨシツネが多武峰トウノミネ潜伏センプクするとの風聞フウブン。義経ヨシツネの師シである鞍馬クラマの東トウ光コウ房ボウや興福寺コウフクジの聖セイ弘コウを、義経ヨシツネに同意ドウイしたとの疑ウタガいで、召ショウし下クダすことを決ケッす。
    2月30日   熊野クマノ・金キン峯ミネ山ヤマおよび大和ヤマト・河内カワチ・伊賀イガ・伊勢イセ・紀伊キイ・阿波アワに義経ヨシツネを捜索ソウサクせよとの宣セン旨シが下クダされる。
    3月1日   磯イソ禅ゼン師シ・静シズカ母子ボシ、鎌倉カマクラに着ツく。
    3月6日   頼朝ヨリトモ、静シズカを尋問ジンモン。静シズカの陳述チンジュツが京都キョウトでの場合バアイと異コトなる。義経ヨシツネは大峰オオミネに入ハイったとも多タ武ブ峯ミネに入ハイったともいう。
    3月15日 義経、伊勢大神宮に黄金作りの太 刀を奉納。  
    3月22日   静シズの懐妊カイニンが発覚ハッカクする。
    4月8日   静シズが鶴岡ツルオカ八幡宮ハチマングウで舞マイを奉納ホウノウする。義経ヨシツネを慕シタう歌ウタに頼朝ヨリトモは不満フマンするが、妻ツマ北条ホウジョウ政子マサコがなだめる。
    4月20日 これ以前イゼンに義経ヨシツネ、洛中に入るか? 頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ・行ギョウ家イエがなお洛中ラクチュウにおり、叡山エイザンに義経ヨシツネに同意ドウイする僧ソウがいると朝廷チョウテイに訴ウッタえる。
    4月21日   安田ヤスダ義定ヨシサダ、遠トオ江エ国クニ湖ミズウミ・岩イワ室シツにて義経ヨシツネを探索タンサク。
    4月24日   先サキに頼朝ヨリトモ、書ショを秀衡ヒデヒラに送オクる。秀シュウ衡ハカリより請ショウ文ブン到来トウライ。
    4月25日 義経ヨシツネ・行イ家イエが京キョウ中チュウにありとの風聞フウブン。  
    5月6日   京キョウ中チュウで義経ヨシツネ捜索ソウサクが始ハジまる。
    5月10日 義経ヨシツネ・行イ家イエを前マエ関白カンパク近衛コノエ基キ通ツウ・院インがかくまうとの風聞フウブン。このころまでに義行と改名される。  
    5月12日   和泉イズミ国クニで源ミナモト行イ家イエ・男オトコ光コウ家イエ、北条ホウジョウ時トキ定テイに殺コロされる。
    5月14日   静シズの宿ヤドで諸ショ人ニン酒宴シュエン。静シズ、梶原カジワラ景ケイ茂シゲの酔狂スイキョウを拒コバむ。
    5月20日   興福寺コウフクジ僧ソウ大ダイ進シン君クン(行イ家イエ兄弟キョウダイ)を召メ進スス。
    5月27日   静シズが鎌倉カマクラ・勝ショウ長チョウ寿ジュ院インで、頼朝ヨリトモ娘ムスメの大オオ姫ヒメのために芸ゲイを施ホドコす。
    5月 義経、鞍馬あるいは岩倉に潜伏?  
    6月4日
官カン兵ヘイが鞍馬寺クラマデラに踏フみ込コむが、義経ヨシツネがいた形跡ケイセキなし。義経ヨシツネ知チ音オンの土佐トサ君キミを召メし出ダさんとす。
    6月6日   一条イチジョウ河崎カワサキ観音堂カンノンドウ辺アタりで義経ヨシツネの母ハハ常盤トキワと妹イモウトを捕トえて尋問ジンモン。岩倉イワクラにいると証言ショウゲン。義経ヨシツネ追討ツイトウを命メイじる宣セン旨シが下クダされると共トモに、義経ヨシツネ捜索ソウサクが強化キョウカされる。
    6月7日   義経ヨシツネが伊勢イセを徘徊ハイカイし、神宮ジングウに詣モウで、南都ナントにいるとの風聞フウブンが鎌倉カマクラに伝ツタわる。伊勢イセ祭主サイシュ大オオ中ナカ臣シン能ノウ隆タカシが内通ナイツウし、義経ヨシツネのために祈祷キトウ。
    6月12日   京都キョウトの北条ホウジョウ時ジ定サダム、義経ヨシツネが大和ヤマト国クニ宇陀ウダ郡グン辺アタりにありとの告ツげを得エる。
    6月16日   大和ヤマト国クニ宇陀郡ウダグンで源ミナモト有ユウ綱ツナ(義経ヨシツネの婿ムコ)自決ジケツ。
    6月18日   多武峰トウノミネ悪アク僧ソウ龍リュウ諦アキラ房ボウを召メし出ダす。
    6月20日 この頃、義経、比叡山上に隠れ る。  
    6月22日   仁和寺ニンナジ・岩倉イワクラに隠居インキョとの告ツげにより急襲キュウシュウしたが実ジツなしと鎌倉カマクラに伝ツタわる。
    7月25日   伊勢義盛殺される。
    7月30日 義経が比叡山の僧のもとにいると の風聞。  
    �F月10日
義経ヨシツネ侍ジ童ドウ五郎ゴロウ丸マルが捕トえられ、六月ロクガツ二十日ハツカ頃ゴロに義経ヨシツネが叡山エイザンに隠カクれていたこと、叡山エイザン僧ソウ俊シュン章ショウ・承ウケタマワ意イ・仲ナカ教キョウが与クミ同ドウしていることを白状ハクジョウしたと、鎌倉カマクラに伝ツタわる。
    �F月11日   比叡山ヒエイザン僧ソウの中チュウ厳ゲン逃亡トウボウ。
    �F月12日   無ム動ドウ寺ジ僧ソウの財ザイ修シュウ逃亡トウボウ。
    �F月17日   義経ヨシツネに与力ヨリキする僧ソウの捜索ソウサクを命メイじる宣セン旨シが近江オウミ・北陸ホクリク道ドウに下クダされる。
    �F月29日   静シズカ、男児ダンジを生ウむ、棄ハキ死シされる。
    �F月 義経、南都に移動か?  
    8月15日   西行サイギョウが頼朝ヨリトモに謁見エッケン。兵法ヘイホウを語カタる。
    9月16日   磯イソ禅師ゼンジ・静シズ親子オヤコ、帰洛キラクのため鎌倉カマクラを発タつ。
    9月20日   京都キョウトで堀ホリ景ケイ光コウ捕縛ホバクさる。中御門ナカミカド東ヒガシ洞ドウ院インで佐藤サトウ忠チュウ信シン自決ジケツ。景ケシキ光ヒカリは義経ヨシツネが興福寺コウフクジ聖セイ弘コウのもとにいること、藤原フジハラ範ハン季キが義経ヨシツネに与クミ同ドウしていることを白状ハクジョウ。
    9月21日 義経ヨシツネ、 この日ニチ以前イゼンに南都ナントより伊賀イガへ? 比企ヒキ朝アサ宗ムネ、聖セイ弘コウの房ボウに入ハイり、義経ヨシツネを求モトむ。聖セイ弘コウを捕トらう。衆シュウ徒ト蜂起ホウキ。
    10月17日   聖ヒジリ弘ヒロシが京都キョウトに召メし出ダされる。
    11月5日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ追ツイ捕ホ遅滞チタイは、藤原フジワラ範ハン季キらが内通ナイツウし、仁和寺ニンナジ守シュ覚カク法ホウ親王シンノウが義経ヨシツネに同意ドウイしているためと朝廷チョウテイに訴ウッタえる。
    11月18日
公卿クギョウら会議カイギを開ヒラく。捜査ソウサの強化キョウカと共トモに追討ツイトウの御ゴ祈イノ(仁ジン王オウ会エ御ゴ修シュウ法ホウ)・諸ショ社シャ奉ホウ幣ヘイなどがはかられる。
    11月24日 義経ヨシツネがさらに義ギ顕ケンと改名カイメイされる。  
    11月25日   義経ヨシツネ捜索ソウサクを命メイじる宣セン旨シが畿内キナイ・北陸ホクリク道ドウに下クダされる。京キョウ中チュウの捜査ソウサも継続ケイゾク。
文治3年 1187 1月20日   義経ヨシツネ反逆ハンギャク祈祷キトウのため、幕府バクフが伊勢イセに奉ホウ幣ヘイする。
 
2月8日   院イン宣センにより義経ヨシツネ追ツイ捕ホとその御ゴ祈イノりについて公卿クギョウが議ギす。
    2月10日 義経ヨシツネ、山伏ヤマブシ姿スガタで、伊勢イセ・美濃ミノウを経ヘて奥州オウシュウへ下クダるという。藤原フジワラ秀衡ヒデヒラを頼タヨる。  
    3月5日   義経ヨシツネが陸奥ムツにおり、秀シュウ衡コウが義経ヨシツネに与ヨ同ドウしているとの情報ジョウホウに基モトづき、頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネを召メ尋タズするよう京都キョウトに申モウし入イれ、一条イチジョウ能ノウ保ホから返事ヘンジ来キタる。
    3月6日   義経ヨシツネ追討ツイトウの御ゴ祈キを行オコナうよう、高野山コウヤサンの俊シュン証ショウに院イン宣センがくだされる。
    3月8日
聖セイ弘コウが鎌倉カマクラへ召ショウされ、頼朝ヨリトモに尋問ジンモンされる。聖ヒジリ弘ヒロシ、頼朝ヨリトモ・義経ヨシツネ兄弟キョウダイの仲直ナカナオりを説トく。
    4月4日   若宮ワカミヤ別当ベットウが上野ウエノ国クニ金剛寺コンゴウジで義経ヨシツネに遭アう夢ユメ想ソウを蒙コウムったので、幕府バクフは同ドウ寺デラ等ナドに祈祷キトウに丹誠タンセイを抽ヌきんでるように命メイじる。
    4月ガツ   陸奥ムツに流ナガされていた前ゼン山城ヤマシロ守カミ中原ナカハラ基モト兼カを秀シュウ衡コウが召メ禁キンしているのを帰京キキョウさせるよう、また大仏ダイブツ滅メツ金キン料リョウとして三3万両マンリョウを貢ネング進シンさせるよう、頼朝ヨリトモが院インに申モウし送オクる。
    5月3日 義経が去月三十日に美作国山寺で 斬られたとの風聞が京都に伝わる。 勝賢が義経追討の祈祷中であっ た。
    9月4日   頼朝ヨリトモの使者シシャが奥州オウシュウより戻モドり、秀衡ヒデヒラ反抗ハンコウの用意ヨウイありと報告ホウコク。都ミヤコへ遣ツカわし、奥州オウシュウの形勢ケイセイを言上ゴンジョウ。
    9月22日
頼朝ヨリトモ、宇都宮ウツノミヤ信シン房ボウ・天野アマノ遠トウ景カゲを貴トウト海ウミ島シマに遣ツカわし、義経ヨシツネの与ヨ党トウを捜索ソウサクさせる。
    10月29日   秀衡ヒデヒラ、義経ヨシツネを大将タイショウに泰ヤス衡ヒラ・国クニ衡ヒラらが結束ケッソクすべきことを遺言イゴンとし没ボッす(66)。
文治4年 1188 2月8日 義経が奥州にあり、出羽国に遣わ された法師昌尊と合戦したとの情報が入る。  
    2月14日   藤原フジワラ泰タイ衡コウに義経ヨシツネ追討ツイトウを命メイじる宣セン旨シが出ダされる。
    2月17日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネ・泰ヤス衡ヒラを共トモに追討ツイトウすべく宣旨センジを改アラタめるよう、また義ギ顕アラワを本名ホンミョウ義経ヨシツネに返カエすよう奏上ソウジョウ。
    2月21日   藤原フジワラ基モト成シゲル・泰衡ヤスヒラに義経ヨシツネを召メ進ススムさせよとの宣旨センジを下オロす。貴キ海カイ島シマ追ツイ捕ホが延期エンキされる。
    6月11日   泰ヤス衡ヒラの京キョウへの貢コウ馬バ・貢コウ金キンなど大磯オオイソ着チャク。頼朝ヨリトモ、抑ヨク留リュウせず。
    8月9日   頼朝ヨリトモ、比叡山ヒエイザン僧ソウが義経ヨシツネに同意ドウイし、藤原フジワラ泰タイ衡コウが義経ヨシツネをかくまったことについて沙汰サタが遅オソいことを朝廷チョウテイに抗議コウギする。
    8月17日   比叡山ヒエイザンの住ジュウ侶リョ来光ライコウ房フサ永ナガ実ミの同宿ドウシュク、千セン光ヒカリ房フサ七郎シチロウが夜討ヨウちせんとするを、法ホウ印ジルシ円エン良リョウに仰オオせて召メしだす。
    10月12日   泰ヤス衡ヒラらに再度サイド義経ヨシツネ召メ進ススムの命メイが伝ツタえられ、従シタガわず義経ヨシツネに与ヨ同ドウする時トキはあわせて追討ツイトウすべき旨ムネ伝ツタえる。
    10月17日   頼朝ヨリトモ、比叡山ヒエイザンの俊章トシアキ(義経ヨシツネを奥州オウシュウへ送オクったという)を逮捕タイホするよう御家人ゴケニンに命メイじる。
    12月11日   十月ジュウガツの宣旨センジに院イン庁チョウ下クダ文ブンを副ソえた朝廷チョウテイの使者シシャが鎌倉カマクラに到着トウチャクし、鎌倉カマクラより陸奥ムツに赴オモムく。
    12月16日   頼朝ヨリトモ、義経ヨシツネに同意ドウイする俊シュン章ショウの引ヒき渡ワタしを比叡山ヒエイザンに求モトめる。
文治5年 1189 1月5日   頼朝ヨリトモ、正ショウ二2位イに叙ジョされる。
    1月13日 帰京する意思を記した義経の消息 を持つ、千光房七郎捕縛される。  
    2月15日   泰ヤス衡ヒラ、末弟マッテイの錦戸ニシキド頼ヨリ衡ヒラを討ウつ。
    2月22日   頼朝ヨリトモ、法皇ホウオウに泰ヤス衡ヒラ追討ツイトウ、義経ヨシツネ与ヨ党トウ(廷臣テイシン・比叡山ヒエイザン僧ソウ)の処罰ショバツ等トウを求モトむ。
    2月25日   頼朝ヨリトモ、使シを奥州オウシュウに遣ツカわし、形勢ケイセイを偵察テイサツさせる。
    3月9日   義経ヨシツネ召メ進ススムの意思イシを記シルした泰タイ衡コウの請セイ文ブンが、頼朝ヨリトモから京都キョウトに届トドく。
    3月12日   藤原フジワラ頼ライ経ケイを伊豆イズに配ハイ流ナガし、その子コ宗ソウ長チョウを解カイ官カン。
    3月22日
頼朝ヨリトモ、泰ヤス衡ヒラの請セイ文モンを不信フシンとし泰ヤス衡ヒラ追討ツイトウの宣セン旨シを請コう。
    4月13日
藤原フジワラ朝アサ方カタ・同ドウ朝アサ経ケイら解カイ官カンされる。
    �C月21日   頼朝ヨリトモ、亡ボウ母ハハのための塔トウ供養クヨウが終オわり次第シダイ、奥州オウシュウ追討ツイトウ征伐セイバツに向ムかいたい旨ムネを奏ソウす。
    �C月30日 義経ヨシツネ、衣河コロモガワ館タチにて妻子サイシと自害ジガイ(31)  
    5月22日   義経ヨシツネ誅チュウせらる報ホウ、鎌倉カマクラに到着トウチャク。
    5月29日   義経ヨシツネ誅チュウせらる報ホウ、京都キョウトに届トドく。
    6月13日   泰ヤス衡ヒラの使者シシャ新田ニッタ高コウ衡コウ、義経ヨシツネの首級シュキュウを腰越コシゴエ浦ウラに持参ジサンし、和田ワダ義盛ヨシモリ・梶原カジワラ景カゲ時トキ、実検ジッケンする。
    6月24日   頼朝ヨリトモ、泰ヤス衡ヒラ征討セイトウの準備ジュンビをすすめるも、朝廷チョウテイは義経ヨシツネ滅亡メツボウにより追討ツイトウを停テイシむべき旨ムネ勧告カンコクする。
    6月25日   頼朝ヨリトモ、重カサねて泰ヤス衡ヒラ追討ツイトウの命メイを下クダされることを請コう。
    6月26日   泰タイ衡コウ、弟オトウト泉イズミ三3郎ロウ忠チュウ衡コウを、義経ヨシツネ与ヨ同ドウのため誅チュウす(23)。
    6月30日   頼朝ヨリトモ、大庭オオバ景カゲ能ノウの献言ケンゲンによって泰タイ衡コウ追討ツイトウの意イを決ケッす。
    7月17日   頼朝ヨリトモ、奥州オウシュウ追討ツイトウ軍グンの部署ブショを定サダめる。
    7月19日   頼朝ヨリトモ、一千イッセン騎キを率ヒキい、鎌倉カマクラを出発シュッパツ。
    7月29日   頼朝ヨリトモ、白河シラカワ関セキを越コえる。
    8月7日   頼朝ヨリトモ、伊達郡ダテグン阿ア津ツ賀ガ志シ山ヤマで西木戸ニシキド国クニ衡ヒラ軍グン二万ニマン余ヨ騎キと合戦ガッセン。鎌倉カマクラ軍グン勝利ショウリ。
        西木戸ニシキド国クニ衡ヒラ、芝シバ田タ郡グンで畠山ハタケヤマ重ジュウ忠チュウ・和田ワダ義ギ盛セイらに討ウち取トられる。多賀タガ国府コクフの南ミナミ、国分コクブ原ハラ鞭ベン楯タテにあった泰ヤス衡ヒラ、戦タタカわずして北ホク走ソウする。
    8月13日   頼朝、多賀国府に入る。
    8月22日   頼朝、平泉館に入る。泰衡、すで に館に火をかけ逃走。
    9月3日   泰衡、肥内郡贄柵の郎従河田次郎 を頼る。河田、頼朝に寝返り泰衡を攻め殺す(35あるいは25)。
    9月6日   河田が志波郡陣ヶ岡蜂杜にあった 頼朝のもとに泰衡の首級を届ける。頼朝、河田を斬る。
    9月7日   泰衡の郎従由利八郎を捕らえ頼朝 訊問する。
    9月9日   陣ヶ岡の頼朝のもとに、七月十九 日付の泰衡追討の宣旨届く。
    9月20日   平泉で論功行賞。
    9月28日   平泉出発
    10月1日   多賀国府着
    10月24日   鎌倉に戻る。



後記:
本 年表は、前川佳代さんのご厚意によって掲載させていただくものです。
掲 載日の11月12日は、大物浦の難にあって、離ればなれとなった義経と静が
吉 野で再会を果たした記念すべき日に当たります。皆さまどうぞご活用ください。
2004.11.12 佐藤弘弥

義経伝説