実話人生が変わる時

 
これは実話である。

Wはひどく運の悪い男だ。自分でも、自分の不運を自覚しているくらいだ。Wは、片田舎の貧しい雑貨屋の一人息子である。ガキの頃から、頭はいい方だったが、上の学校には進めなかった。もちろん家庭の事情である。Wは、子供の頃から「なんで自分は、こんな家庭環境に生まれてきてしまったんだろう。なんてついてない人生だ」と考えるようになった。

早く社会人になったWは、肉体労働で金を貯めると、一旗揚げようと、海を渡った。とにかく田舎も親元も離れて、誰も知らない所で、一からチャレンジして見たかったのだ。しかしそんな甘い世界ではなかった。言葉も分からず、その為、差別も受けた。苦労の連続だった。しかし何とか言葉も覚えて、いよいよ商売をと考えていると、ドロボーに、全財産を盗まれてしまった。「俺はなんて、ついていないん」。

また一からのやり直しである。今度は種銭を作ろうと、近くの農場に住み込みで働いた。しかし運の悪いことは続くもの、今度は馬に蹴られて、入院するハメになってしまった。お金もなく、体も故障し、ほとほと困り果て、自分の人生の不運を嘆いていると、国から手紙がきた。見ればお袋の字である。

「親愛なる我が息子Wよ。元気で頑張っていますか。あなたの父Gが亡くなりました。実は三ヶ月前のことです。その時、知らせなくてごめんなさい。実はGが、無くなる前、あなたには3ヶ月間知らせてはならない、と遺言したのです。何度、手紙を書こうと迷いました。しかしGの気持ちを考えて思いとどまったのです。

彼は、あなたにこう遺言して、亡くなりました。

わが息子wよ、ずっとお前には苦労をかけてきた。ろくな教育も受けさせてやれなかった。お前が生まれた時、私はうれしさの余り、母さんとお前を抱き上げながら、思わず泣いてしまった。それからずっと私の仕事がうまくいかなかったせいで、お前と母さんには、苦労をかけた。しかし私は人生には成功しなかったが、お前と母さんというかけがえのない二人の家族を持てたことを誇りに思っている。そしてそのことを心から神に感謝したい。

私は、お前が生まれた時から、この子は、何か大きな夢を実現する子ではないか?と思ってきた。その度に、母さんには、笑われた。親ばかね、とね。しかしそれでも私は、今の今までお前をずっと信じてこれまできた。お前は、父が果たせなかった夢を実現する男だ、と。私の夢は、お前には言わなかったが、海外で成功することだった。だからお前が、外国へ渡ると言った時、実は私は飛び上がるほどうれしかったのだ。

我が息子Wよ。私には、お前に残してやれるような財産はない。私がお前にしてあげられるのは、お前の成功を心から信じ、愛してあげることだ。焦らずに励みなさい。

あなたの父Gは、こう言って亡くなりました。愛するWよ。父の思いを分かってあげてください。あなたの父Gは、本当にあなたを愛していました。Gはこの片田舎の街で雑貨商をしながら、賢明に私とお前を支え、愛し、そして天国に召されたのです。Gにとって、あなたは、自慢の、そして期待の息子でした。だからこの手紙を、けっして悪い知らせ(バッドニュース)とは受け取って欲しくないのです。私もあなたからの良い知らせ(グッドニュース)を待っています。母より」

Wは、病院のベッドで泣いた。Wは子供の頃、小さな雑貨屋の父が、小さく見えて、軽蔑さえ覚えた記憶がある。そんな自分が恥ずかしくなった。こんなにも父が、自分のことを思っていてくれたことを知って、魂が震えるような思いがした。こうなれば不運も幸運もない。素晴らしい父に恥じないような人間になるだけだ。

母さんに、いい知らせを届けたい。そして父の期待に応えたい。心からそう考えたWは、ベットの中でもじっとしていられなかった。しかし馬に蹴られた足は複雑に骨折しており、少なくとも、あと半年は、療養生活を続けなければならない。

そんなある日、新聞を見ていると、「エッセイ募集」という記事が載っていた。テーマは、「親の愛」であった。何か、感じるものがあった。Wは夢中で書いた。

私の父は、アメリカの片田舎(ワイオミング州)の生まれで、雑貨商をしていた。けっして成功者ではない。むしろわが家は、貧しかった。父は、苦労のあげく、小さな資金を元手に、お店を開いた。父は、毎日、朝早くに出かけ、夜遅なって帰ってくるという毎日だった。母は、ひとりで店を守り、私を育ててくれた。私のニックネームは、すり切れたズボンのパッチワークから「パッチ」という不名誉なものだった。

それでも父も母も、不満ひとつ言わずに懸命に働いた。私は思った。何故、私の家庭は、こんなにも貧しいのだろう。私は、幼なじみのJがうらやましかった。彼の父は、銀行員で、休みの日には、Jや妹のSと遊んでいた。

特に日曜日の礼拝は、私にとって最悪の時であった。私は母と二人、Jの家族は、きまって父と母と妹の四人である。「W元気かい?」Jの父はいつもそう言いながら、やさしくほほえんでくれる。しかし心の底では、打ちのめされる思いがした。得体のしれない悪魔にでも、軽蔑され、嘲笑されている気分だった。一度そのことで、母にくってかかったことがある。「なぜ、うちのパパは、教会に行かないの?」母は、困った様子だったが、「パパはね、ママとWのために働いてくれているのよ…。だからママと二人でパパの分まで祈らなければね」それでも私は納得がいかなかった。何度、神様に祈っても、家族3人で教会に行ける日が、訪れることはなかった。

おまけに父は、無口で実の息子の私とも、あまり話さなかった。きっと私は、父に嫌われているのかも?といつも考えていた。ひねくれた少年時代を送った。反抗期には、手当たり次第にケンカをして、母を困らせたこともある。その時の私の口癖は「なんて運がないんだ」というものだった。

私は、いつしか自分で、この状況を何とかしなければと、思うようになった。幸い体力には自信があったので、17才にして、近くの街の橋の建設現場に潜り込んだ。結構危険な仕事だったが、私は、危険よりも給料が魅力的だった。かなりの金額を貯めた。そのうちの少しを、母に渡すと、私はフランスに渡ったのである。

イギリスではなくフランスを選んだ理由は、アメリカとフランスの政治的な関係がよくないという事情よりは、フランスというまったく言葉も習慣も違う国で、何か自分の運命のようなものを変えてみたかったからだ。別の言葉で言い換えれば、どうにかして「なんて運がないんだ」という自分の価値観をひっくり返したかったのかもしれない。初めから無茶は承知の旅であった。

今年でフランスに来てから、まる四年が過ぎた。しかし今までの所、どうにも運命とやらが、簡単に変わるものではないことを、痛感させられる毎日だ。何とか、フランス語は覚えたが、蓄えた資金は、見事盗まれ、挙げ句の果てに、馬に蹴られて病院暮らしである。あと少なくとも半年は、病院で過ごさなければならない。

フランスに渡って来たことが、間違いだったのか?またしても「なんて運がないんだ」と再び思い始めていた矢先、母から、突然手紙が届いた。そこには父の死んだことが書かれてあった。しかも父の遺言も添えてあった。しかも父は、こんなできの悪い息子を誇りに思うとまで記してあった。母は、この手紙を、バットニュースとしてではなく、グッドニュースとして考えなさいと最後に締めくくっている。

この手紙が、私を根底から打ちのめした。私は遠いフランスに来て初めて、父と母の愛の深さを知った。自分が、自分を「なんて運がないんだ」と考えているかぎり、自分の運命など変わるはずはない。そこで私は、これまでの不運は、試練であり、むしろ幸運ではないか?と考えることにした。今は、一文なしの私だが、必ずや、このフランスで成功し、父の墓前に、母とともに、報告したいと思っている。

その後、この文章が、募集エッセイの特別賞に選ばれたのであった。彼の運命は、このエッセイを書いたことを境に、急激に好転し始めた。そしてある日、彼に、見知らぬ筆跡の人物からの手紙が届いた。
 
B・フランクリン

前略 大変素晴らしい文章を読ませていただき感動しました。フランスに来て、こんなに頑張っているアメリカ人がいるなんて、なんて素晴らしいことでしょう。あなたのために少しばかり、投資させてください。ここに10ルウイールを同封致しました。けっして差し上げるのではありません。この資金で商売でも始めてください。あなたなら絶対成功することでしょう。そしていつか返してください。

ただし返し方に注文があります。もしあなたが成功者となったら、今のあなたと同じような境遇のひとに、同額のお金を返してあげてください。そしてその人は、また別の人に貸して上げるという具合に、人の手から手へと善意の輪を広げていって欲しいのです。あなたの前途に輝かしい未来が開けますように。あなたの従順な僕(しもべ)であるベンジャミン・フランクリンより

と書かれてあった。Wはびっくりした。何しろあのアメリカ独立の父と言われるフランクリンからこんなちっぽけな自分に手紙が来たのだ。フランクリンは、たまたま所用でフランスに来ていて、アメリカの若者のエッセイに触れて、何かを感じたのだろう。手紙をしたためた上に、小切手まで同封してくれたのである。

Wは、その資金を元手に貿易会社を始めた。フランクリンの目に狂いはなかった。W(ベンジャミン・ウエッブ)は成功者となり、父の墓に母とともに足を運んだ。ウエッブ基金を創設して、自分のような境遇にある人物を支援することをライフワークとした。ベンジャミン・フランクリンが投資した資金は、限りなく大きな華として開花したのである。

この一連のエピソードは、1784年にあった実際の話である。その年はフランクリンが、パリに滞在していて、かの歴史的名著「フランクリン自伝」の著述を開始した年にあたる。この時、フランクリン自身は、78才の高齢であった。Wという若者より、私はフランクリン自身の無私の精神と、柔軟な発想に、驚きと尊敬の念を抱かざるを得ない。

世の若者よ、成功への道は、そう遠くない。世に運の悪い人などいない。いるのは、自分は、運が自分悪いと、勝手に決めつけている人だけだ。いいから、目の前の、敷石に足を踏み出してみなさい。

見る前に飛べ、そんな積極的なあなたをベンジャミン・フランクリンがじっと見ているかも・・・!?佐藤
 


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1998.1.13