平泉の心を伝える

毛越寺二十日夜祭

菅江真澄の二十日夜祭見物記
毛越寺の二十日夜祭

毛越寺常行堂
(2005.1.20 午後5時)

毛越寺の二十日夜祭を間近で見学し、「祭」(まつり)という意味を教えられたような気がした。本来、「祭」とは人のためにあるのではない。神や 仏のためにこそあった。「祭」は、神仏を敬い「祀る」(まつる)こと、あるいは畏(かしこ)まって「奉る」(たてまつる)ことである。信仰とは、人は人智 の及ばぬ力を持つ神仏に祈りを捧げる行為である。

思うに神や仏とは、けっして人間の外に孤立して存在するものではない。時々神や仏は、忽然と人間の前に姿を現わす。その時、人はその威光に畏れ おののき、一歩下がって祈りを捧げる。心から祈る時、魂は心底洗われ、濯(すす)がれ、純粋無垢なものとなる。

「二十日夜祭」は、そんな祭の原初な姿を今日に伝える稀有な祭である。二十日夜祭は、別名「摩多羅神祭」(またらじんさい)とも呼ばれる。この 神様は、中国へ修行に行った慈覚大師円仁(794ー864)が仏教弾圧の法難にあって帰国する時、大師の前に現れて守護した神様と言われる。その後、天台 宗では、常行堂を建てて、この神様を祀るようになった。

常行堂の阿弥陀如来
(この仏の背後に秘仏「摩多羅神」が鎮座する)

毛越寺の冬の風物詩とも言われるようになった「二十日夜祭」は、毎年一月十四日から二十日まで一週間に渡って、厄災除去、五穀豊穣、身体堅固、 商売繁盛などが祈願される最終日に当たる。つまり二十日は、一週間の摩多羅神への祈りの「結願」(修法の終了)の日なのである。二十日の夜は、大寒である が、次のような順序で、祭が深夜まで続けられる。

 15時 献膳式
 16時 初夜作法
 18時 後夜作法
 19時 護摩祈祷
 20時 献膳行列到着(蘇民祭)
 21時 延年の舞奉納
(以上毛越寺HPより転載)


毛越寺に向かって松明の火が押し寄せる
(午後8時30分)

この祭りのクライマックスは裸の男たちによる勇壮な火祭りだ。しかし、本当のクライマックスは祈りの最後として行われる「延年の舞」にある。こ の舞は、内陣の奥に座している摩多羅神(またらじん)に捧げられる祭の華である。

「裸祭り」が衆生の為の祭りなら、「延年の舞」は純粋に神(摩多羅神)への捧げものと云える。そこには、現代の芸能に不可欠の「娯楽性」は皆無 だ。演者は「観客」ではなく、ひたすら神に向かって「舞」(祈り)を捧げる。足音や衣擦れ、そして雅楽が凍てついた堂内に響き渡る。観る者はただその深遠 な精神世界に引き込まれていく・・・。
 
 

若女(じゃくじょ)と禰宜(ねぎ)の舞
(午後10時30分)



戦火で殆どの伽藍を失った毛越寺は、この「祈りと舞」によって創建の精神と信仰を伝えているのだと思う。テレビ映画「スタートレック」に、「過 去を失っては未来は意味を持たない・・・」という台詞がある。伽藍という「箱物」ではなく精神性の継承こそが文化の本質なのだろう。

毛越寺が毛越寺であるゆえんは、この常行堂の秘された祭にあると言っても過言ではない。そうした無形の「祈りと舞」によって、毛越寺の建立の精 神は、千二百年に渡って受け継がれてきたのである。周知のように毛越寺の伽藍は、すべて灰燼に化してしまって、中尊寺の金色堂や経堂のように、往時から 残っているものはない。しかし毛越寺の寺僧たちは、親から子へとこの「常行堂三昧供」の勤行を、天変地異や政変など、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて、連綿 と伝えてきたのである。
 
 

老女の舞が常行堂に集った人々の心を浄土へと誘ってゆく
(午後10時40分)

極寒の地、奥州平泉の古寺に伝わる夜祭は、芸能に発展する前の原初の形を遺していた。そこにはよく言われる祭の楽しさや面白さがあるわけではな い。午後三時から夜中の一二時近くまで淡々と続く祭に、最後まで同席させていただき、毛越寺千二百年の祈りの一端に触れた気がした。


2005.128 佐藤弘弥

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