大河ドラマ「源義経」へ一言

-義経さんの生涯はホームドラマの対極にある!-  

義経さんが、2005年のNHK大河ドラマになるということだ。嬉しいような怖いような気持ちがふっと湧いた。どこかに期待がなかったと言えば嘘になる。少し冷静になって、最近の大河ドラマの傾向を思う。考えれば考えるほど、期待はできそうにないと思えてくる。

そこでまず、関係者に義経さんを選んだ理由が聞きたい。
「何故、今、義経さんなのか?」と。

新聞に寄ると。原作は宮尾登美子の「宮尾本 平家物語」。脚本は金子成人。そこから類推すれば、今流行の、ジェンダー仕立ての平家物語となるのではあるまいか。思えばこの前の大河ドラマ「利家とまつ」は、「おまかせくださりませ」という奇妙なセリフを連発する女優松嶋菜々子のための「一年」であった。現在の武蔵もお通のキャラクターに振る舞わされて、武蔵の本質が曇っている。だいたいが「私にお任せくださりませ」なんて、現代のジェンダーブームに媚びたようなドラマなど見たくもないのだ。内に含ませるべきを、言葉に出すなど愚の愚と言いたい。今年のお通のキャラクターも現実離れしていてリアリティに欠ける。義経さんの強烈な生涯をどこぞのホームドラマ風に見せられたらたまらない。

早くも関係者は、前回1966年の前作とちがって、ホームドラマ的にしたいと豊富を語っている。そもそも義経さんの生涯は、ホームドラマの対極にあるものだ。何故今日本人が義経さん注目しなければならないか。それは自己主張もなく、平準化された没個性の日本人の中にもかつて、こんなきらめくような生涯を送った大天才が居たということにある。義経さんは、常に死というものを意識しながら、全身全霊で、生涯を駆け抜けた人物だ。現代の世相や、趣向に媚びたドラマではまったく意味がないと言いたい。

映画監督黒沢明は、テレビ時代劇は、適当が多いので頭に来るという理由から、一切見なかったそうだ。もしかりに媚びたホームドラマではなく、義経さんという人物の魂の部分に、光を当てれば、そこには現在の閉塞状況の日本という国家がそこを抜け出すヒントをつかみ出すことができる。またその中に自ずと新しい日本人像が見えてくるはずだ。もし出来るならば、ホームドラマではない強烈な義経像を表現してもらいたいものだ。

くれぐれも言うが、ホームドラマの対極にあるのが、義経さんの生涯の神髄だ。だからそのテーマは、「人は何のために生きるか?」「何のために愛するか?」「何のために旅をするのか?」「何のために死ねるか?」「人は死を越えられるか?」などだ。もしもホームドラマ仕立ての下らぬ時間つぶしの様相であれば、徹底的な批判を展開したい。

さて現在の大河ドラマ「宮本武蔵」には、首を傾げてしまう。これもジェンダーブームによって、お通像がゆがんでいる。そもそも、武蔵という人は、剣のために生まれたような人で、あのような徹底した人物も時には現れるのが人の世というものだ。世の常識という尺度で、人は見たがるが、それこそが武蔵を理解できないで、媚びたようなホームドラマと化してしまう原因である。きっと好きな女性もいたはず。居なければドラマにはならない。で、お通や沢庵が創作される。ここがおかしい。武蔵を書いた小説家が、凡なる人だから、凡なる人が常識で書けばあのようになる。常識で大のつくような天才ははかれない。それは義経さんでも武蔵でも同じ事だ。

武蔵は、自身でも言っているようにただ一つ、剣の呼吸で、世の中を見ていた。恋いに苦しみ成長したのではない。神仏に影響されて、五輪書を書いたのではない。やるせない思いがあり、死にきれない思いがあり、それがあの五輪の書となった。これはだれでも同じで、本当は、魂の内面に神や仏が居て、その自分でその光をじっと見ていれば、沢庵などという坊主など無用で、人は究極の境地にたどり着けるのだ。だいたい佐々木小次郎などという、たいしたこともない剣豪が、武蔵の永遠のライバルでは困る。武蔵は、狂うほど、剣にこんがらかっていた。

ブルースにこんがらかって、という言葉があるが、武蔵は剣狂い。義経は戦狂いだ。そこに武蔵義経から学ぶべきものがあるのだ。何かに狂うほど熱中する。平均で、80点の優等生ではなく。点数が付けられほどの強烈な才能。100点の所を、千点付けたくなるような巨大な才能。それは義経さんであり、武蔵である。どんなに新之助が目をむいても、脚本の思想が媚びだけに、殺陣師の演出は評価できるが、それ以外は全く駄目。そうならないようにして欲しいものだ。義経2005は。佐l藤

 


2003.6.15
 

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