貴乃花の目・ピカソの目


親が自分の幼い子供を虐待して殺すなど、信じられない事件が頻発している。日本人の気持ちがこれほど荒みきってしまった理由は、経済が停滞していることによるのであろうか。それとも気持が荒みきってしまったから、経済も停滞してしまったのであろうか。

そんなことを漠然と考えていた。所謂、卵が先か、ニワトリが先か、という問いであるが、それほどに日本社会も日本経済も底なし沼のようなはまり込んでしまった感がする。どうしたらこのドロ沼を抜け出すことができるのだろうと、次に考えてみた。

その時、ふと貴乃花の目を剥(む)いた表情が浮かんだ。あの位に本気で、この社会状況に挑まなければ、抜け出すことは、ほとんど不可能かもしれない。彼が土俵上でみせる憤怒(ふんぬ)の鬼神の如き表情は、彼自身が敵という一点の対象に集中した時の無我の表情である。目を剥くということは、全神経が逆立ち、敵という対象に向かって気を放っているひとつの象徴である。

ピカソが、カメラに向かって挑みかかるように三白眼(さんぱくがん)の大きな瞳でこちらを睨んでいる有名な写真がある。きっと全神経をキャンバスに集中した時の天才の目はこういうものであろう。

もちろんこれは気が狂って、目を剥いたりするのとは、似て非なる表情なのだ。人は全神経を集中した時にこそ奥に眠っている本当の力を活用することができるようになる。多くの人間は、自分でも分からぬ得体の知れない力を信じられないし、あるとも思っていない。だから退屈で平凡な人生を何気なく終えて、何となく現世を去ることにもなる。集中力を発揮し、目を剥くほどの思いを持って事に当たることを勧める。もちろんその前には理屈や理論、経験というものから学ばなければならないのは言うまでもない。貴乃花で言えば、それは普段の稽古であり、多くの苦難を乗り越えてきた経験である。

ピカソで言えば、感じたままをすぐに絵にできる誰にも負けない写実のデッサン力である。しかしピカソはいざキャンバスに向かう時、まったく無になってただ思いのままにキャンバスに新しい命を生み出すようにすっと線を引く。この時、彼の魂は自身の目にように完全と見開かれ、解放されている。すなわち彼の大きく開かれた目は、全宇宙にまで広く解放された魂の状態を表している。我々でもこの状態がめいめいにつくれるようになれば、間違いなく宇宙の無限の智慧が、自分の魂の内側から湧き上がってくるであろう。

目を見開け。さすれば智慧は内側より来る。

目を剥いた運慶彫りし仁王像見る心地せし貴乃花の目
ピカソの目思い出すときふと何故か日本再生の四文字浮かぶ
 

 


2002.9.20
2002.9.25
 

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