「自然と人間第43号」―「新しい神様」と天皇制―(2000.01.01)


 天皇と天皇制について最近、私はあれこれ考えている。君が代と日の丸の法制化がきっかけではない。皇太子妃懐妊報道に見る朝日新聞のはしゃぎぶりがきっかけでもない。ドキュメンタリー映画『新しい神様』がきっかけである。

 『新しい神様』は、1999年10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭で、11月には東京国際映画祭で上映された。多分2000年5月頃に東京を皮切りにミニシアター系の映画館で公開されるだろう。

 新しい神様というのは、天皇のことだ。右翼パンクバンド維新赤誠塾は天皇を拝したてまつる。リーダーの伊藤秀人と雨宮処凛にとって天皇は神様なのだ。

 しかし、この映画は右翼バンドのプロバガンダではない。なぜなら監督の土屋豊は、天皇制はもうやめようというはっきりした立場をとっており、映画の中でそのことをちゃんと表明しているからだ。それなのになぜ土屋は自分の意見と正反対の伊藤や雨宮の意見と活動を記録するのか。彼等の間違いを正すためだろう。と、団塊世代特有の性急さで私は土屋の動機や映画の意図を知りたくなるのだが、見終わった時に、私は私が天皇制のことを一体どう考えてきたのか、これからどう考えていったら良いのかという問いに向きあっていることに気づく。この映画が多くの人に自分で天皇のことを考えるきっかけになればよいと思う。それこそ土屋の意図である。

 土屋監督は1966年生まれの若い人だ。彼は映画の最初に「天皇制をやめて自律しよう」と提唱する。

 土屋は今の若者たちが天皇や天皇制についてどう考えているのか、知りたいと思う。年輩者たちの考えは以前記録したことがある。1996年8月15日に靖国神社で参拝者にインタヴューした記録『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』をつくった。このビデオを土屋は販売し、流通させている。ビデオを購入したら、人に貸したりダビングすることOKと書いてあった。多くの人に見てもらおうという意志の現れだ。この国のことについてみんな意見を言おう!それが土屋の精神。なんてすがすがしいヤツなのだろうと思う。

 靖国神社を参拝する人たちは、おだやかな口調で天皇に戦争責任はないと語る。土屋は彼らにあえて議論をふっかけることはせず、彼らの語るがままを丁寧に記録していく。

 『新しい神様』は靖国の静さとはうってかわってギンギンのステージに日の丸を掲げて絶叫する右翼バンド。戦闘服姿の伊藤も雨宮もすこぶる若い。ベトナム戦争さえ知らない世代だ。土屋が伊藤や雨宮に興味を持ったのは、若い連中が天皇のことを考えているのは他に見当たらなかったせいもあるのではないか。天皇在位10周年祝賀に人気ロックスターたちを見ようと集まった若者たちと伊藤・雨宮が決定的に違うのは、天皇を意識する度合いの強さだ。

 茶髪の雨宮はビデオカメラに向かってなぜ自分は右翼バンドに入ったかを語る---自分はいろんなことをやってきた。誰にも注目されなかった。ある時自殺未遂をした。そうしたらみんな自分を見つめてくれた。ある時、維新赤誠塾の伊藤を知った。彼のバンドで歌うようになった、と。

 雨宮のけばけばしさに私はまず反発を覚える。日本の右翼はネオナチとは違うのだから、茶髪などもってのほか。右翼のことなど何も分かっていないのに、かっこだけつけているに違いない。あまり多くを語らない伊藤についても私の反感はつのる。彼は一水会に所属しているようだが、彼や彼のバンドは何かあればすぐ潰されるに違いない。右翼を標榜してしているが、ちゃんと理論を勉強しているのだろうか。三島由紀夫が右翼とは思想ではなく心情である、と言ったことを知っているだろうか。

 偏見と不寛容を抱きながらも私はこのドキュメンタリーにひきつけられていく。まっとうな意見を言う監督の土屋はこれからこの奇妙な右翼カップルとどういう討論をしていくのだろうと思うからだ。

 ところが私の予測とは違って、討論はほとんど行われず、もっぱら雨宮処凛の日記風のモノローグがビデオを通して綴られていく。デジタルビデオは操作も簡単で自分で自分を記録できる。小さいから独り言でも何でも言いやすい。そのメリットを生かして雨宮の本音の考えや気持ちが語られていく。これがスゴイ。彼女は北朝鮮でビデオを回してくるのだ。なぜ北朝鮮?よど号をハイジャックした元赤軍メンバーたちに会うためだ。そのお膳立てをしたのは元赤軍メンバー。彼がどうして雨宮達と知り合ったのか分からないが、成田行きの車の中で語る。「敵の敵は味方だ」と言って雨宮をその気にさせた、と。つまり雨宮たち右翼にとってアメリカは敵だ。そのアメリカの敵が北朝鮮だから行ってみる価値はあると誘ったらしい。

 北朝鮮では本当によど号ハイジャックのメンバーたちが出てくる。その彼らをビデオに収めただけでもスゴイ。と、思ってしまうのは団塊世代のけちな考えだ。スゴイとか、快挙だとかを全然意識しないところが実は雨宮のスゴイところで、このあたりから私の偏見は大分薄れてくる。ホテルの部屋で一人になってからビデオに向かう雨宮は、「赤軍の人たちってハイジャックジョークを言ったりしておかしいの」と語る。全然恐くなくて安心したようだ。北朝鮮の主体思想も悪くないかもしれない。と、思ったりする。ところが、次の日にはげっそりしてビデオに向かう。「政治の話になるとみんな顔も声の調子も変わって、赤軍って感じになる。すごお〜く頭いい。恐い。私の思想も変えられそう。日本に帰りたい。」赤軍よりも雨宮のこの反応のしなやかさがスゴイと思う。

 ところがまた次のビデオ日記では、サーカスに連れていかれてすっかり北朝鮮が気に入り、このままずっととどまっていたいと思うようになる。主体思想で自分を吸収してくれるそういうものに彼女は憧れているのだろう。多分、天皇も彼女にとってそうした役割を果たしているのではないか。と、先走りをしながら私は一層ひきつけられる。

 日本に戻った雨宮は一水会の支部で帰朝報告をする。そのあと懇親会。そうした体質を左も右も同じと、雨宮は分析する。これもスゴイ。日本の左翼と右翼は特に戦前、体質的・生理的に奇妙に似通った点があることはたびたび指摘されるが、雨宮はあっさり看破する。多分、彼女の中にある自分意識が分析力を高め、またドキュメンタリーを撮っているという自覚が嗅覚を刺激するからに違いない。その嗅覚は監督の土屋にも向けられる。「土屋さんは私のこと好きなんじゃないか。悪いなあ。」と、雨宮は言う。自分はなんとも土屋のことを思っていないからだ。それが大分あとになって、「本当は土屋さんが私を好きなんじゃなくて、私が土屋さんを好きなんだっていうことが分かった」になる。

 こうした雨宮に較べると、時々登場する伊藤は自分の殻に閉じこもっている感が強い。ある時、雨宮は伊藤に電話しろしろと言う。二人は一水会をやめて、自分達だけでやっていこうと決めたらしい。伊藤は電話口でかしこまると、やめたいと話す。するとそれがあっさり了解され、励ましの言葉をもらう。やったあ!と喜ぶ雨宮。慎重な面持ちでかしこまる伊藤が対照的だ。「天皇陛下!万歳」と叫ぶ彼らのバンドはライブから嫌われて出場停止をくらう。やっと仕事のオファーがきて、張り切ってステージに立つ。今までと違って客たちが興味を示す。そのことについて雨宮は考える。今までは全部敵だと思っていた。お客さんのことも敵視していた。今度はそういうことを考えずに、自分達が思っていることを素直に出した。それが受け入れられたのだと思う、と。ライブの仕事が続行されることになった。それはよかったという土屋のナレーションが入る。ビデオ日記を通して土屋と雨宮の理解は進んだかに見えた。雨宮は自分なんて信じられない。だからやはりこれからも天皇を信じると言う。それに対して、土屋はいや、そんなことはない。ちゃんと雨宮さんは自分を持っていると言うが、土屋の言葉を雨宮はうけつけない。

 自分が信じられないと言う雨宮の強烈な個を私は感じる。この個は、現代の若者に特有のミーイズムだ。そのミーイズムを吸収する天皇制。三島由紀夫の「文化防衛論」も雨宮のミーイズムが天皇をかつぎ出すのと、同じである。君が代を押し付ける国家主義も結局は天皇を利用しているのだ。利用されながら利用する相手を飲み込んでいくのが天皇制だと、私はあれこれ考えているのである。

(田中千世子)


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