『新しい神様』に寄せられたコメント


S E L E C T


   みうらじゅん    大槻ケンヂ    佐藤忠男    遠藤 誠    中森明夫    大久保賢一    園 子温

   田中千世子    今 一生    鈴木邦男    根本 敬    若林盛亮    四方田犬彦    木村三浩   

   見沢知廉    宮台真司    諏訪敦彦    篠山紀信    マルセル・マルタン    高市俊皓(山田花子の父)    <敬称略>


C O M M E N T


青春モノか・・・・、いいなぁー。オレもまだムキになれることを探してる青春ノイローゼ。一生、満足なんて出来ないで死ぬんだ、きっと。辛いけれどダサイ自分と向き合うしかない。彼女の笑顔だけが救いなのさ、本当は。
(漫画家・
みうらじゅん)

これが意外に、ホノボノとした青春映画な部分もあってよい。イデオロギーは違えども、熱く燃える若者の志は一緒・・・みたいな。友情とはいいものだ!ってゆー映画かもね。あと、登場する右翼バンドは滅茶苦茶に笑えますね。
(ミュージシャン・大槻ケンヂ)


いまインディペンデントのドキュメンタリーが社会の深層から聞こえなかった声を聞き出す新しい手段になりつつある。「新しい神様」はその最前線を行く作品のひとつであり、対立するイデオロギー間の対話という殆ど不可能なことに挑んで、力をつくしてそこに道を開いている。
(映画評論家・佐藤忠男)


ブロイラーにわとりのように飼いならされた今の日本人、特に若者たちには、何を信じて生きて行ったらいいかという、生きる支えがない。この映画は、そのブロイラーにわとりたることを拒否した若者たちが、自分の頭の中で、日本の民族と社会と国家の未来に、希望を見い出そうとして苦闘している作品である。日の丸と君が代と天皇制を否定している私とは、その立場を異にしているが、必見の価値ある作品であることは、間違いない。
(反権力弁護士・遠藤 誠)

右翼でも左翼でもない、無翼な私が感銘した。九段・武道館のビジュアル系ライブの帰りに靖国神社へと迷い込んだミニスカ右翼・雨宮処凛の鮮烈さ!『新しい神様』はイデオロギー映画ではない。優れた「青春映画」なのだ!!
(コラムニスト・中森明夫)

微細なものから大きなものまで、我々はなぜ物語を必要とするのか。「新しい神様」で国家という物語に向き合う個人の実存を手探りする雨宮は、その行動のぶっ飛びかたも含めて、最も真摯で美しい、最高のヒロインだ。
(映画評論家・大久保賢一)

文句なく面白い!面白いし、感動もした。つまり傑作という事だ。実のところ虚構でしかない、あまたのドキュメンタリーのくだらなさを徹底的に粉砕し、現実に踏みこみまくるパンクな主体性にしびれた。これぞ映像。もうドラマもドキュメンタリーもへったくれもない。映像のみ勝負で土屋監督は圧勝した。その勝ちっぷりには元気が出る。嬉しい。
(映画監督・園 子温)

鏡のような映画である。右翼的な心情で見れば、この映画は右翼の心情をよく理解している。左翼思想の持ち主が見れば、兄弟のような思想を見いだすだろう。土屋監督は主義や思想に縛られず自分自身であろうとする。そこに私は個人主義と全体主義の倒錯的合一を見てあわてたわけだ。この映画の主役は実に観客ひとりひとりである。
(映画評論家・田中千世子)

日本にイデオロギーなんか無い。どんな過激な言動も「親に迷惑がかかる」なら手控える。うっかりヤンチャしても結局は「親に申しわけない」で総括。雨宮処凜は気づくはずだ。「あっ、アタシ、一人でも生きられる!」
(ライター&エディター/『完全家出マニュアル』著者/『日本一醜い親への手紙』編者・今 一生)

これは壮大な実験映画だ。人間にとって<思想>とは何か、<行動>とは何かを問いかける。映画を撮る方も、撮られる方も、社会に対し苛立ちをぶつけ、自分自身にも苛立ち、闘っている。その心の軌跡が伝わり、感動的だ。
(一水会顧問・鈴木邦男)

何も考えてない時は悟っているのに考え出すと解らなくなる。視線をそらしている時は見えているのに直視すると姿を晦ます。真理または神ってのはそういうもんらしい。一人の女が男を道連れに思想と行動でその正体を追う、幻のブルース。そして露わになったものは・・・
(特殊漫画家・根本 敬)

『新しい神様』の主人公を衝き動かしているのは、政治的な情熱でもなければ、歴史的義憤でもない。それはいうなれば演劇的な情熱であって、ひとたび舞台に挙げられて照明を浴びることで次の段階へ進むものである。舞台とはピョンヤンのホテルに設けられた鏡であり、ヴィデオカメラであり、映画祭の会場でもある。もし雨宮処凛が本当に民族とか、国家のことを学びたいというのなら、まず姿勢を正して李香蘭の自伝を読むべきだろう。
(映画評論家/明治学院大学教授・四方田犬彦)

映画制作が終わって「(ビデオ)カメラなしでどうやって生きて行くのっ!」と本人を絶叫させた「雨宮入魂」に尽きるこの映画の力!ラストで「身内向け」ではなくそこにいた客に合わせたライブで「自分の力で社会とつながれる」感触を得た雨宮さん、ほんとによかったね。--ピョンヤンより愛をこめて。
(元「よど号」メンバー・若林盛亮)

右翼をナメてんのかコノヤロー!と、言いたいところですが、この映画がウケているという事は、雨宮さんと同様の空虚感を持った若者が増えているんですね。皆さんが右翼の活動に興味を持って頂けるといいんですが。あと、一水会は「お酒飲んでクダ巻いてる人」ばかりではありません。念のため。
(一水会代表・木村三浩)

画面の中で、舞うように雨宮が変化していく。最初に雨宮に会ったころ、暗い人形とリストカットの世界<内>で呻いていた。不完全燃焼。全共闘、ゾク世代以降の、若者の苦しみを代弁して。左の学習会、そしてもっとも過激な新右翼の<場>に連れて行く。前者では迷った彼女、さあ、後者とスパークした。興奮して帰り道がわからなくなるくらいに。巨大な、管理され尽くした市民社会。それを、その外殻、辺境から撃とう。左、右、精神病院、朝鮮、囚から。さあ、土屋、煽れ!もっと煽れ!雨宮も、もっと踊れ!もう、<神は死んだ>のだから・・・
(作家・見澤知廉)

現代のシャーマン、雨宮処凛。ビジュアル系追っかけ、奇形的な人形製作などを経て、極右パンク「維新赤誠塾」ボーカリストへ。その遍歴が示すように、自傷系少女・雨宮処凛は「スゴイもの」に次々と感染した挙げ句、天皇主義へと至る。表現(イデオロギー)ではなく表出(情念)に感応するその身体は、左右を問わず、日本のテロリストならびに思想家の系譜を、一身に体現する。その雨宮処凛と、彼女のスゴサに惚れた土屋豊監督の関係は、ヒメ・ヒコ制を体現する。まさしく、日本的なものの根に届く批評たりえている。
(社会学者・宮台真司)

ここでは"撮る者"が、同時に"撮られる者"であり、キャメラは"写す物"である以上に、鏡のように"映す物"である。最も単純に使用されているはずのキャメラが、そんな二重の役割を演じてゆくことで私たちは作者という「神様」の権力から解放された真の"対話"を体験する。
(映画監督・諏訪敦彦)

スゴイよ、この映画。『ゆきゆきて神軍』超えるよ!
(写真家・篠山紀信)

現代社会のイデオロギー的話題と価値観を革新的に描いたこの作品に特別賞を授与します。
(YIDFF'99国際批評家連盟賞審査委員長・マルセル・マルタン)

「新しい神様」、試写会入れて3回見た。見所は沢山あるが、私 にとっては、「維新赤誠塾」の決起集会で、「アメリカ帝国主義打 倒」と絶叫している自分と、それをさめた目線で見ているもう一人 の自分との距離が次第に埋めがたいほどに広がっていく様が克明に 描写されている所が圧巻だった。それは、極自然に演技に入ってい ける処凛さんの天賦の資質もさることながら、その資質を見抜き、 被写体(主演女優)にカメラを預けてしまうという、これまで、誰 も思いつきさえしなかった斬新な手法をとった、土屋氏の優れた感 性によるものであったと思う。 山田花子は、日記に「惨めで、情けなくて、みっともない自分自 身の姿を、他者の目線で観察して、漫画に描く」と書いていた。処 凛さんも山田花子も他者の目線で自分自身を、冷静に観察すること によって、その作品を紡ぎだしていった。書かれている内容は、と てつもなく悲しく切ない自分自身の体験なのだが、読み進むうちに 何故かおかしさがこみ上げてくる。究極の悲しさ切なさは、どこか で「笑い」に繋がっているのだろうか。 昨年末の「生き地獄天国」の出版記念パーティでは、私をゲスト 待遇?で出演させて下さった。光栄である。したたかに酔っぱらっ た私は何かとんでもないことを言っていたようだが、処凛さんが 「何かに熱中している自分を、さめた目線で見ているもう一人の自 分がいる」と言っていたことだけは鮮明に覚えている。
(山田花子の父・高市俊皓)


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