「「PREMIERE9月号」(2000.07.21)


 若いドキュメンタリー作家は今、社会から個へと焦点を移している。河瀬直美や是枝裕和のように、ドキュメンタリーの手法でフィクションを撮る若手も増えてきた。天皇の戦争責任をテーマにしてきた土屋豊の新作もそんな一本だ。若い世代が抱える政治的、精神的空虚についてのドキュメンタリーが、気がつくとウッディ・アレン作品を思わせるパーソナルなドラマになっている。右翼パンクバンドのメンバー、雨宮処凛に好奇心と不思議な共感を覚えた土屋は問う。なぜ、祖父の世代の価値観を信じるようになったのか?「空っぽな自分」が嫌いだった雨宮は、天皇のために死んでいった少年の精神に戦後個人主義より崇高な何かを見いだす。それが彼女の「新しい神様」だという。そんな雨宮に土屋はビデオカメラを渡し、日常の全てを録画させる。元赤軍派メンバーを訪ねて北朝鮮にも送り込む。旅の過程で雨宮は、物質主義者とキャリア至上主義のみが「主義」と呼べる現状で、「左」と「右」の違いはなんなのかと自問し始める。カメラによって変わっていく雨宮に、土屋はいつしか引かれている。もっとも、私にとってより興味深かったのは、雨宮のカメラへの入れ込みようだった。カメラこそ、彼女の存在を確認してくれる、親友、恋人なのだ。彼女の世代の「新しい神様」はレンズというたった一つの目をもっている。

(Mark Schilling)


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