「BUBKA」―映画とビデオのいる尿道―(2000.06.30)


 今回はめずらしく、これから公開される映画を紹介しようと思う。

 なぜそんなに気になったかというと、作品自体がわりかし面白く見れた、ということもあるが、なにか言うべきことがあるような気がしたからだ。『新しい神様』というドキュメンタリー映画なんだけど。

 この映画のテーマは"関係性"だ、と俺は思った。

 民族派パンクバンドのボーカリストの女、そのバンド「維新赤誠塾」の塾長(バンド・リーダー)の青年、それからこの映画を撮影した彼ら二人とは敵対する思想(反天皇制)を持つ映画監督、彼ら3人の関係性の"揺れ"がこの映画のテーマだ。というか結果として、そうしたものが浮かび上がってくる。

 それにだ。

 その思想はどうであれ、彼ら3人に共通していることは"何かと深く関係したいと願っている"ということだと思う。

 それが民族であったり、国家であったり、天皇であったり、あるいはそうした巨大であいまいな対象なんかじゃなく、個人対個人の方がいい、という差はあるけど結局のところ、援助交際している女子中高生やホストクラブに通いつめているオバサンやとにかく携帯電話を手離せないという連中と、その欲求の根っこは一緒だ、と俺は思った。

 その欲求はダメなのか?と言われたら、別にダメじゃないとは思うが、声を大にして主張するようなことでもない、というだけのことだ。

 だからといって、この映画を否定するつもりは全くない(俗なテーマを選んだ方が作品に普遍性を与えることができるのだから)。

 以上"右翼"とか"左翼"といった言葉をわざと避けて書いてきたけど、この映画で語られる思想はほとんど全てが飲み会の席で、あるいは自室で缶ビール片手に、つまりアルコールで気持ちがデカくなった状態で熱く語り合う、といった類いのものでライブ後の打ち上げを延々と記録したドキュメンタリー、という見方もできる。というか、俺はそういう見方をした。

 そこで、逆に気になったことがあった。

 99分あるこの映画の中で、主な登場人物である3人は、とにかくよくしゃべる。

 そこで語られることは、さっきも書いたように、民族・国家・天皇、あるいは右翼とか左翼とかそう言ったことだ。また雨宮処凛(あみやかりんと読む)という一人の女は個人史(彼女は子供の頃イジメに遭い、その後ヴィジュアル系の追っかけと自殺未遂を繰り返すうちに右翼と出会い、民族主義に目覚めた)、そういったことだ。

 なんだ?と俺は思った。

 音楽はどこへ行ったのだろう?

 ライブハウスでの演奏、その前後の表情、リハーサル風景、そういった映像はある。彼らの曲も、よくかかる。だが、彼らが音楽を語る場面はほとんどなかった。(音楽、というかロックは語るもんじゃねえと言われればその通りだが)

 あくまで正々堂々と書くが、あらゆるレベルにおいて政治にコミットするということは表現者として敗北だ、と俺はそう思っている。

 俺は、彼らが音楽を語る場面が見たかった。

 彼らの音楽が、彼らの思想を喰い破るような場面が見たかったのだ。

 彼らの音楽の持つ強度が、民族や国家や天皇といった、うっとうしくて退屈なものを破壊する場面、それがなければ、この映画は終わりに出来ないはずなのだ。音楽の伴わない個人史、ロックの鳴らない音楽史など聞きたくもねえ。と言っているのだ。

 この映画を見ている最中、俺はずっとこんなことを考えていた。

 彼らは一体、どんな音楽を聞いてきたのだろう?

 この映画を観たジジイやババアの批評家は多分"アイデンティティを喪失した日本人の不幸"みたいなことを言い出すはずだが(そんなことねえか)、問題は政治の腐敗や家庭の崩壊といったところにあるのではない。

 誰も言わないから、俺が言ってやるけど、現在起こっている全ての問題(ひどくてくだらない殺人事件に代表されるようなことだ)、その根本原因はまったく別にある。

 ダメな音楽が蔓延したこと。

 これに尽きると思う。

 ダメな音楽をダメだと誰もはっきり言わなくなったら、みんなが混乱するようになってしまった。

 そういうことだ。

 例えば、何か圧倒的な存在に依存したいのなら、ジミ・ヘンドリックスやマイルス・デイビスやエルヴィス・プレスリー、彼らの音楽を聴けばいい。

 そうすれば、民族や国家や宗教や、アカの他人なんかは、どうでもよくなってしまう。

 そして、とにかく前進し続けよう、変化し続けよう、と思うはずだが、どうだろう?

(アイカワタケシ)


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