「<社会派シネマ>の戦い方」―天皇/沖縄/在日―(2000.5.01)


 このビデオ作品は九九年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映され、国際批評家連盟特別賞を受賞した。「現代日本社会のイデオロギー的話題と価値観を革新的に描いたこの作品に特別賞を授与します」・・・これが受賞理由である。監督の土屋は一九六六年生まれ。九〇年から創作活動を本格化させ、「九八年から自主ビデオの流通プロジェクト『VIDEO ACT!』主宰。メディア・アクティビスト達のネットワークを広げるための活動を続けている。」(同映画祭カタログ)。前作『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?(96・8・15靖国篇)』(97)は"終戦記念日"に靖国神社に集う人々を相手に、天皇の戦争責任等々について質問を繰り返す内容だった。土屋は明らかに新作『新しい神様』でこの主題―「現代日本社会」における天皇制のありよう―を先鋭化させたし、関係者の間ではすでに『ゆきゆきて、神軍』に近いオーラを放つ作品としての評価を集めつつあるようだ。だけど僕はこの作品がはらむ政治的有害さについて書く。それだけが、土屋が創作に傾ける真摯さへの正当な応答たりえると信じるからだ。

 被写体は「維新赤誠塾」なる右翼パンクバンドだが、多くのパンクがそうであるように(?)、その演奏に見るべきものはない。そして彼らの歌はといえば、不正確な記憶だが、たとえば、君が代、日の丸、天皇を尊敬しないヤツはこの国から出ていけ、といった内容だ。土屋の関心はバンドの女性ボーカリスト雨宮処凛にあり、イジメ等々に彩られたクライ過去を背景に、彼女が右翼思想(?)に目覚めた経緯などが語られる。自分には拠り所がなく生きがいもない。この国がそうした要素を提供してくれなかったからだ。私はだから天皇に期待を寄せる・・・。そんな彼女がリスペクトするのは、国民が一丸になってひとつの目標を共有する国家(?)としての北朝鮮だ。なぜか新左翼系と親交の深い彼女は、北朝鮮を訪れ、よど号ハイジャック犯と交歓の席をもつ。土屋は同行できなかった北朝鮮でのシーンを含め、雨宮にカメラを預ける手法をとり、カメラはやがて彼女の心情を感受する鏡になる・・・。

 作品中、自分は天皇制に反対であると土屋は呪文のように繰り返す。だが深刻な対立は起こらない。むしろ雨宮と土屋は次第に好意を寄せあうようで、恋にさえ落ちるようだが、それはそれでいい(むしろ見所でさえある)。映画史は監督と主演女優の恋愛で溢れている。だけどケジメは必要だ。土屋はいう。私と君の見解は違う。だが、君が天皇制や国家主義に依存したくなる心情は理解できる。というのも私だって「本当に私が個人として自律しているのかどうか、自信はない」のだから・・・・。「現代日本社会」において、こうして右と左を、互いに孤独で断片化した主体なのだからと一括する態度は極めて有害だ。土屋も知るように、現在進行中の新しい統治形態は、断片化した「個」を束ねる装置として、古典的な国家主義(君が代や日の丸)を堂々と持ち出してきた。だから今こそ愚直に右と左を峻別する必要がある。僕らは彼らと違い、異なる意見と共存できないとはいわない。ただ互いに寂しく不確実な主体だから・・・・などと共通項で括られ、彼らと握手することは断固として拒絶するだろう。

(北小路隆志)


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