ハゲに関して想起されるいくつかの事柄や、人生において印象的な事柄を闇雲に独断と偏見に基づき、差し支えない範囲で(笑)論うページ
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オブジェクト指向とハゲの関連性について考えてみました。何かの本で、どこか外国の医者が、頭のてっぺんが禿げた人に対して頭の脇の方の毛が生えている皮膚を切り取り、頭のてっぺんに植皮した、という話が載っていました。植皮した部分の毛は生えつづけたらしいですね、この例では。
また、これも何かの本で読んだんですが、禿げる人はよく男性ホルモンが多い、とか言われますが、禿げない人とホルモンの量が有意に違うということも証明されていないらしいです。
ということは、禿げるというのは一定の条件下で脱毛してしまう毛根を持っているかどうか、ということと同値ではないでしょうか。つまり、その毛根に対する入力(状況)は同じでも、毛を放棄するか否かはその毛根の実装にまかされている。
これらの情報から、私の理解では、禿げる人は、「一定のホルモンバランスの状況下において担当する毛髪の維持、育成、発毛を放棄する性質(実装)を持つ毛根を持つ人」ということになります。
そして、多くの場合その実装を持つ毛根は頭頂部に分布しているようです。
これはオブジェクト指向でいうポリモルフィズム(多様性、多義性)が保たれていますね(笑)。禿はオブジェクト指向です。私の中のオブジェクト指向。
ハゲはオブジェクト指向の理解に役立ってますね。(ほんとかい)
どこか壊れている人を見るにつけ、ああ、コンピュータで言うとあの壊れ方に似ているな、と思うことってありませんか?
OSのバグとか、ハードディスクが読めない状態とか。ハードディスクのパーティションを切りすぎちゃって別々のOSなんかインストールしてしまったものだから相互に認識できない多重人格とか。何かの負荷が高いプロセスがバックグラウンドで走ってしまってレスポンスが返せない鬱状態とか。
コンピュータって、特にOSとかは結局人間の日常生活にある概念をソフトウェアとして表現したものが大部分ですよね。言い換えれば人間社会に日常的に存在する概念の部分集合みたいなもの。もうちょっと言うと一人の人間の内面的な動きなどをなんとなく表現しているような気がします。まあ、作り主に似てるというのでしょうか。別にコンピュータを無理に擬人化して話しかけたりはしてませんよ私は(笑)。
そうすると、自然と壊れ方も似てくるんだろうなあ、なんて思います。
以前、私の知人でコンピュータ関係の人間が情緒的健康問題で悩んでいたとき、「君の状況はコンピュータで言うとこんな感じじゃない?だったらこうすれば?」みたいな話をしたら本人至って納得しまして、状態がよくなりました。まあ、言ってみるものだなあと思いましたが、これはあくまでコンピュータ関係者に限られる話題かもしれません。特にソフトウェア関係者。
92歳の祖母が段々身体の自由が利かなくなってきまして、目黒区の特別養護老人ホームの申し込みについて問い合わせました。そこで聞かされた話が、最低でも1年待ち、という話です。簡単に聞いてしまうと、ああそうなんだ、ですんでしまいますが、良く考えてみると92歳の年寄りに後一年待て、は無いでしょう。
年寄りが突然発生したわけでもあるまいし、当然区民の年齢構成からある程度予測できると思うのはわたしだけでしょうか?これは完全な需要予測間違いではないですか?
また、特別養護老人ホームに入るときの費用とか、家庭の事情とか、いろいろあるらしいんです。私はここで、根本的に違和感があることがあるんです。それは、そのサービス(措置、と言うらしいですが)を受けるのは誰か、ということです。祖母はほぼ50年間目黒区に住み区民税も払ってきました。その人間に対してこの扱いはなんでしょう。
なんか区役所なり、その出先機関はちゃんとその業務をまっとうしてるのでしょうかね。90歳を越えた年寄りにあと1年まて、と言える感覚が理解できませんね。こういう責任はどうやって追及すれば良いのでしょうか?私も探しますが、ご存知の方は教えてください。区議会議員選挙で投票する以外にね。
特別介護老人ホームから老人介護病棟への話
祖母が特別養護老人ホームで風邪を引きました。そこの専属看護婦いわく、「たぶんもうだめ」。で、私は聞きました。医者は来ないのですが?と。看護婦いわく、「往診は週一回です。」
「じゃあ、風邪を引いたときはどうするんですか」
「往診の時に薬を処方してもらいます」
「緊急時は」
「できるだけ対処します」
「祖母を医者に見せたいのですが、往診は頼めますか?」
「来週の往診を待ってください」
「こんなに高齢者がいるところで、医療の方法はそれだけですか?」
「ここではそうです」
「近くの開業医と提携すればよいのでは?」
「そうやっているところもありますが、ここではやっていません」
「やっていませんでは、すまんでしょう」
「やっていないものはしょうがありません」
「あなたは看護婦としてここで何を担当しているのですか?」
「このホームには、5人の糖尿病患者がいて、その方たちのお世話です」
「では、このような急病の患者の担当は?」
「いません」
「私がどこかの病院を手配して祖母を連れて行こうとする場合、協力してくれますか?」
「ホームの寝台車を出します。が、高齢者を診察してくれるところはほとんどありません。」
「ためしに連絡してみます」
というわけで、祖母のかかりつけのN病院に電話し、状況を説明。
回答は「すぐ来てください」
で、先ほどの看護婦さんに
「すぐN病院に行きます」
「なにか特別なお知り合いでも?」
「いや、ただの患者です」
「この高齢者を診てくれるなんてみずらしい」
「寝台車の手配をおねがいします」
めでたく入院と相成りました。
約2ヶ月の入院後、N病院が老人介護病棟を完成させました。
祖母の状態も、ほぼ自分で食べ物をとるのに困難な状況でしたので、
もとの特別養護老人ホームに戻すのはやめました。
また、「もうだめです」っていうだけのところじゃ話にならないですから。
結局老人ホームは解約し、介護病棟へと移りました。
介護病棟は、病院みたいですが、病院ではありません。
介護保険で入ります。
N病院では、同じ建物の階数によって、病棟だったり、介護病棟だったりして便利でややこしい体制をとっていました。
96歳にしては元気ですが、ほとんど食事もとれなくなっていた祖母は、高栄養輸液で何とか生きていました。ただ、長期で輸液を続けたため、感染症になり、高熱をだしたりしました。
ただ、鼻から管を入れて流動食を入れたりするのは、もともと祖母が嫌がっていた処置で、それはしないという約束が何十年前にありましたもので、それはできません。
結果的に、胃に直結のチューブを作り、そこに流動食をいれる、という手を、ほぼ排他的な条件で選択しました。
まあ、ここまでさらっと書きましたが、N病院の経営戦略について一言書かせてもらいます。
高栄養輸液をはじめるか否かの話を担当医とした時点では、高栄養輸液を続けるのは医療の域を超えており、祖母がもともと拒否していた無理な延命に属する処置であるので、一定期間を定めて処置し、その時点での効果を見て、改善効果が見込めない場合は漫然と続けることはできない、とのことでした。
とりあえず3週間と期間を定め始めました。
3週間後、祖母の生命線である高栄養輸液を継続するか否かの話をするときが来ました。覚悟して病院に向かうと、意外な話になりました。つまり、担当医が切り出したのは、病室の移動の話でした。それまでは一般病棟(大部屋)でしたが、現在の病状や病院の方針を鑑みるに、二人部屋に移ってもらいたい、と。ついては差額ベッド代日額9000円です、と。どうしますか、と。
人生お金ってのは重要ですね。幸い祖母は叔父が戦死したので軍人恩給をもらっていたので、貯えを切り崩すのとを併用すれば払えます。で、当然承諾しました。
私としては、高栄養輸液をどうするのかが気になってしょうがないので、私から切り出しました。
すると、答えは、二人部屋に移ることになりましたので、とりあえずは期間は定めず継続しましょう、だって。
えっそれだけ?
余命ってのは、差額ベッド代で買うものだと良くわかりました。
その後、たまに病院の都合で大部屋に戻されたり、また二人部屋に移ったりしました。
最後は、一人部屋の個室で、
祖母は満96歳の人生を閉じました。
私が出来るだけのことはしたつもりですが、
諸般の処置や医療処置が不可欠になり
特別養護老人ホームや介護病棟に祖母が入ってからは
そんなに楽しくはなかったろうな、と正直思います。
現代における死に方について深刻に考えされられています。
今でも。
少なくとも、
祖母が受けたターミナルケアと同等の状況で自分が死ぬことは
覚悟しなくてはならないな、
と思いました。
合掌