鹿島神宮
(3) 要石 「我が主君は天子なり」
この下に、大鯰が抑え付けられているという。水戸光圀(1628〜1700)が何日間だっ
たかかけて掘り返させたが、底知れなかったので再び埋め戻したという説話があるそ
うだ。
水戸藩は、初代藩主頼房(1603〜1661)の頃から神仏分離政策を実施している。その
政策は光圀のとき更に強化されている。それは光圀自信の思想にもよろう。しかし彼
が更に「八幡改め」と呼ばれる八幡神一掃策を実施していることを鑑みると、そこに、
実に《現世的》な施政方針を見ることができるように思う。
幾人かの史家(*1)も指摘しているように、それらの政策は前領主で源氏嫡流(即ち
宗教的には八幡信仰)を標榜していた佐竹氏の影響を排除し、新領主水戸徳川家の支
配を確立することに収束している。こうして見ると水戸学は、すぐれて政治的に見え
る。水戸学を含めた国学派は南朝に対する評価、後の尊皇攘夷思想を準備するものと
される。
我が主君ハ天子也、今将軍ハ我か宗室也。宗室トハ親類頭也。
あしく了簡仕、取違へ申ましき由
と語ったとされる(「桃源遺事」(*2))。徳川御三家の内のひとつの藩主が「我が主
君は天皇である」と語っていたとは驚くべきこととも言える。後に、吉田松蔭らに強
い影響を与えただけでなく大政奉還に際して徳川慶喜は、光圀の言葉をもって説得さ
れたとも聞く。
僕自信の穿った目で見ると、一つには、家光没後の徳川家臣団の強化に伴い、光圀自
信が幕政に対しての発言力が極端に低下したことと関係があるという説に与みしたく
なる。
無論、光圀の意志にはより求学的な側面があったり、率直に忠義を極める姿勢を追
及していたことは理解できる。しかし、一方でより現世的な側面として藩政経営に際
して、坂東に強力に根付いていた八幡信仰/源氏系諸氏の記憶を排除するという目的
/効果(光圀自信がどれだけ意図したのかはわからない)があったろう。そしてそれ
とは別に水戸藩(光圀)と中央と他の御三家の関係が気になるが、またの機会にしよ
う。
そう、要石だった。
奥宮からさらに少々東側へ行き、南側へ入ったところにある。ぶらぶら歩いていた
ので、既に午後3時近くになっていた。傾いてきた陽の下で、常陸(ひたち)の国の
ことを思うのもちょっと、逆説的かななどと感じる。
写真を何枚か撮って、うろうろした後、御手洗池まで降りた。どう考えても順番が
逆だが、ちょっと手を洗う。そう言えば、朝から何も食べていなかった。土産物屋が
二軒あって、団子を焼いていた。おばちゃんが、中で食べてゆけと言って、お茶を出
してくれた。
土産物屋の中は、そんなものを食べるためのパイプ椅子がある。初詣の人波も失せ
て、結構暇そうな時期に行ったものだから、何やら地元のじいさんが店の中のおっさ
んと話し込んでいる。そう言えば店番をしていたおばさんも、随分楽しそうに、向か
いの店のおばさんと話し込んでいたな。「なんだか、いいなあ」と思う。
おばさんは「駅に戻るなら、こっちの方が近いよ」と言って東側の道を教えてくれ
た。礼を言って、去る。そちらの道から振返ると、鹿島の森がこんもりと見えて、あ
あ、これが鹿島社だな、と今頃思う。陽は暮れちゃうが、香取にも寄って行こうと決
めて鹿島をあとにした。
(*1)
長山靖生など
(*2)
近臣であった三木之幹らによって編纂された言行録。
名越時正『水戸学の達成と展開』水戸史学会による。
VANILLA(バニラ);1994
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YABUGUCHI,Ichiro
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