栗駒山紅葉

日本人はもみじが大好きである。秋ともなれば、もみじがなければ、夜も日も明けない。そんな人もいる。奈良に都があった時代は、もみじは黄い葉と書いて黄葉(「モミチ」)と清音で発音した。紅の葉と書くようになるのは平安時代になってからのようだ。この黄色から紅色への表記の仕方の変遷は日本人の美意識の変化ということになるかもしれない。  

ところで、真紅の楓の葉、つまり本物の紅葉(もみじ)を見たひとは以外に少ないはずだ。写真を見て、きっとあれは着色でもしているんだろう、と、考えがちだ。しかし上の写真の如く、本物の紅葉は、見事な朱色に染まり、まるで全山が赤々と燃えるようになる。実はこの写真は、今年の栗駒山の紅葉(こうよう)を撮影したものである。
 きっと少年の頃の義経公もこのような栗駒山の燃えるような朱色のもみじを見ながら、多感な少年期を送ったに違いない。

確かにこの写真を見れば、山の紅葉(こうよう)というものがどれほどのものなのか、一目瞭然である。やはり人は、自分の眼を肥やすつもりなら、一度本物に接してみることが肝心だ。

関東では、紅葉(こうよう)と言えば、日光か箱根かということになる。そこで私も10月の終わりに、期待に胸を膨らませて、日光に行って見た。ところが少しも紅葉などしていない。いろは坂にしろ、中善寺湖の辺りににしろさっぱり、紅葉していない。一向に山が燃えているという気がしない。

それでも私が、栗駒山の紅葉に接した経験がなければ、「すごく美しい紅葉だ」ということになったかもしれない。残念なことに今年は、気候が暖かいため、霜が降りないので、もみじも赤くならないようだ。やはり山が紅葉(こうよう)するためには、とびきりの朝晩の寒さが欠かせない。

紅葉には、霜が降りるのが不可欠である。霜があってこそ、もみじは、赤々と燃えて、見事な落ち葉と化す。

良寛さんの辞世の句に、

裏を見せ 表もみせて 散る紅葉”と、いうのがある。

私も負けじと、

駒ノ湯の 湯に舞い降りし 紅葉こそ 行く秋惜しむ 山の精かも

と、詠んでみた。

栗駒山の紅葉は実にいい。
そうですよね。菅原さん。 佐藤


1999.11.