源義経公御葬礼所の発見

藤沢宿かまくら屋資料館 

平野雅道

はじめに

宮城県栗駒高原の温泉宿、くりこま荘のご主人から御電話を頂きました。当藤沢にある源義経公の首塚を是非一度訪ねたいとのこと。趣旨を伺うと栗駒町は義経公の所縁の地です、義経公が衣川の高館で藤原泰衡によって襲撃され自害した後に御骸は栗駒町小学校の裏山にある御葬礼所で供養している、是非別れてしまった義経公の霊を鎮めたいとの話です。

意外なお申出にビックリ、是非お会いしたいものですとご返事を差し上げました。「菅原次男」さんと言い、現地の観光協会の幹部をされ、栗駒町の史跡の掘り起こしを精力的に進められています。

お仕事の合間、二月二十一日ご来藤いただきました。当地の首洗い井戸の史跡と白旗神社をご案内し、腰越の満福寺を見学され日帰りの旅でしたが、資料(清悦物語)などご紹介をいただき、また当地の平成九年七月発行の「ささりんどう」など差し上げました。

菅原さんのご希望は郷土の伝承史跡を大切にしたい、源義経公の霊を慰めたい、この歴史的な縁をスタートして当藤沢と栗駒町の交流を深めたい、この三点です。

なお驚いたことに合同の供養祭当日より奥州路の古道に沿って藤沢から平泉や栗駒山まで四十日かけて御巡行の旅に出たいとの遠大な企画をお持ちです。御巡行の旅は全行程徒歩で義経公の関連史跡を訪ね西行法師や松尾芭蕉の足跡も体験するものです。

四月十七から十八にかけて私は栗駒高原を訪れました。義経公の史跡と史料を確認し栗駒町の人々に会う事が出来ました。標高一六二七?の栗駒山は雄大でゆったりとした稜線が続きます。まだ雪山です、栗駒町はなだらかな山里、三迫川を挟んだ穀倉地帯です。東北蝦夷の鬼伝説が多く残り、鎌倉時代の城館跡が破壊されずに要所々々に見られます。この地は中世期の城郭の宝庫です。そして平泉と山形県月山・湯殿山を結ぶ修験者の路=仙北街道が貫いています。中世期の藤沢は鎌倉文化圏に位置するのと同様に平泉文化圏に属する栗駒町は軍馬の産地です。鎌倉藤沢の交通手段は「徒歩」の歴史文化圏ですが、平泉・栗駒のそれは「馬」が生活手段であり歴史の舞台です。
 
 
 


宮城県の栗駒町沼倉判官森にある源義経公御葬礼所
(御遺骸を供養した五輪塔と顕彰碑2002年6月23日佐藤撮影)


 

御葬礼所について

上の写真は源義経公の御骸を供養した五輪塔と江戸時代(推定)の顕彰碑です。平成七年から、菅原氏らの地元有志は「忍び参り」を始められて今日にいたっておられる。

この場所は栗駒小学校の校舎の裏山、通称「判官森」の頂上にあり一見して城館の遺構を示しています。
鎌倉時代初期の豪族、沼倉氏の居館跡で地元では「万代館」と呼ばれ十数メートルの高台です。

顕彰碑には次の文字が刻まれています。
 

大願城就 沼倉村善兵衛
○ 上拝源九郎官者義経公
文治五年四月廿八日


石は地元で産出される通称、栗駒石で彫り込みが浅く文字も宛字があり、また義経公の自害の日は閏四月三十日で吾妻鏡など正史と異なっていますが、沼倉村とある点からは江戸時代の顕彰と考えられます、また五輪塔は上部の半円(風)と如意珠形(空)の二点が欠落していますが、この形は平泉金鶏山にある義経公の妻と幼児の墓と同一形式です。

さてこの史跡を紹介する文献史料があるので次に引用します。

平泉町史 史料編二
「平泉雑記 義経墳墓」
義経自殺于高館、後沼倉小治郎高次者葬之于此地、以立其墳墓、此地高次古館址在頭高山(後略)

愚按ズルニ此地ト云ルハ、栗原郡三迫庄沼倉村ヲサス、義経高館ニテ自殺ノ後、沼倉小次郎高次ト云モノ此地ニ葬テ墓ヲ築キタリ、此所ニ高次ガ館址山上ニアリ(後略)

同様の記録は「奥羽観蹟聞老志」や「清悦物語」にあり義経公死語かなり後年の室町江戸期の史料ですが信頼性の高い記録です。沼倉小次郎高次と義経公との関係ですが平泉雑記には「義経ニ親シカリシ者ナルニヤ」とあります。義経公には四天王と言われる家来がいました。栗駒町には館跡に「駿河館」=駿河次郎、「亀井館」=亀井六郎重清、「大原木館」=鈴木三郎重家の三ヶ所とこの沼倉氏の「万代館」があります。四天王の活躍については義経記や吾妻鏡などに出てきます。有名な佐藤忠信、継信兄弟は藤原秀衡が命じて臣下に加え源平合戦に華々しく登場します。この兄弟も奥羽の武将です。
 

藤沢の首塚について

伝説ではないか、記録が無ければやはり伝説だろうか?と誰しも思うところです。御首については吾妻鏡の記録で文治五年六月十三日に腰越の浦で首実検され、その後どうなったかは正史の記録は見当たりませんが、伝承として当藤沢の首塚の存在があるわけです。白旗神社と義経公については、江戸期の関係記録を平成九年七月発行の「ささりんどう」に高野修先生が史料をまとめられ紹介されています。また故山本悦三氏が「白旗横町の今昔」昭和五十四年六月発行で明治期以降の首塚の変転を述べています。
 
 


伝義経公首洗い井戸
(近くに首塚があったと言われる。2002年7月23日佐藤撮影)


 

 

では視点を変えて藤沢以外から見た史料で検討します。

▲ 平泉側の史料▲
平泉町史には「平泉実記」相原友直、寛延四年(一七五一年)があり次の様に記録されています。
(前略)腰越に来りて首実検をぞ遂にける。或説ニ、首ハ相州白旗ノ里ニウツシ、白旗大明神ト崇ムト云リ(後略)

▲ 鎌倉側の史料▲
治承四年(一一八〇年)から永享十一年(一四三九年)鎌倉大日記(水府明徳会彰考館蔵)文治五年(一一八九年)の項
閏四月三十日義経於衣河館自害五月十三日首上鎌倉被埋藤沢

▲ 信濃史料叢書▲
「浪合記」長享二年(一四八八年)(前略)上古頼朝公の弟をバ朱塗にして、藤沢に獄門にかけたる事あり(後略)

以上三点の史料から御首は藤沢に埋葬されたことは確実です。鎌倉時代初期の藤沢は現在の白旗交差点付近を領家と言い、中心地でした。大庭御厨の預所=年貢収集場所として伊勢神宮領の要所であったため平安時代から集落の存在が認められます。鎌倉大日記の記録は首塚の設置とみてよく集落のあった領家の付近は、伊勢信仰の地でもあり、頼朝公への配慮もあったと考え合せると最も妥当な位置と思います。ここでは文治五年に御首は藤沢の地に埋葬され、白旗神社として供養された史実が藤沢以外の史料からも見られる事をご紹介しておきます。

● 御分霊供養について
御骸の供養は栗駒の人々と沼倉の里にある勅宣日宮駒形根神社(ちょくせんひるみやこまがたねじんじゃ)によって大切にされております。今年は義経公が心ならずも自害された年、文治五年(一一八九年)から八百十年目に当たります。このあまりに悲劇的なで人々に愛されている義経公を偲び、義経公の御分霊を鎮魂する供養祭を藤沢で行いました。

吾妻鏡の正史に記録されている腰越の浦の首実検の日、六月十三日を供養祭日とし、栗駒町の有志の方に御来臨いただきました。その後に栗駒町の有志によって一体化された慰霊は奥州路をたどり徒歩により四十三日をかけて栗駒町駒形根神社によって七月二十五日に供養されます。(了)

(白旗神社広報誌「ささりんどう」第四号平成11年7月1日発行より転載。著作権は平野雅道氏にあります。無断転載厳禁)


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2002.7.25 Hsato