緊急アピール「平泉の歴史的景観としだれ桜」


柳の御所跡のしだれ桜開花
(2004年4月18日 佐藤撮影)

今一本の桜が枯死しようとしている。事は緊急を要する。その桜とは、奥州の古都平泉の政庁「平 泉館」跡にあって柳の御所から北上川越しに束稲山を望む景観のランドマークともなっているしだれ桜のことだ。樹齢にすれば、たかだが100年(150年と の説もあり)の桜だが、この桜越しに望む北上川と束稲山の景色は、まさに「切り取った様に美しい」平泉を代表する景観のひとつである。しだれ桜は、柳の御 所で起きてきた騒動の一切を見てきた生き証人である。かつてこの周辺には何本かの桜が存在したが、全ては「バイパス工事」に絡んで伐採されてしまって、最 後の最後まで残った一本の桜である。もしもこのまま、手を拱(こまね)いて何の手段も講じないとしたら、平泉の歴史的景観はおろか古都平泉の精神そのもの が死んでしまうだろう。

この地、柳の御所跡が注目され始めたのは、1981年、「平泉バイパス計画」が発表されてからである。この計 画は、一関遊水地計画に伴う堤防と国道4号線の慢性的な渋滞状況を解消するというふたつの目的を持った巨大公共事業である。何しろバイパスは、高さ 20m、幅30m弱の巨大な道路を柳の御所跡の真上を縦断して北に伸ばすという無謀なものだった。1988年、計画に先立って、柳の御所跡の遺跡発掘調査 が開始され、1992年には、往時の土器などが大量に発掘され、この地が「吾妻鏡」に記載されている「平泉館」であることが明らかとなる。そこで、建設省 (現在の国土交通省)の計画に対し、内外から猛烈な反対運動が起きる。その結果、計画は変更を余儀なくされ、柳の御所から100mばかり東にバイパスが移 動させられたのであった。

こうして反対運動は一定の成果を得た。だが今ふり返れば史跡としての柳の御所を守るということに終始した結 果、「景観」ということに対する配慮が欠如していたことを指摘しないわけにはいかない。今や10年前のバイパス計画変更当時とは状況が大きく異なってい る。

第一に2000年、平泉は「平泉の文化遺産」(奥州平泉文化の古都史跡)として、ユネスコの世界遺産の暫定リ スト入りした。当初、柳の御所跡は、中尊寺や毛越寺の伽藍群や庭園のような世界遺産のコア・ゾーン(中核地帯)ではなく、バッファ・ゾーン(緩衝地帯)の 扱いであった。だが現在では、平泉文化圏全体を大きく見ようということで、衣川の一帯や骨寺の歴史的景観なども世界遺産の範囲に盛り込もうとする流れがあ り、その結果、「平泉館」跡としての柳の御所一帯は、コア・ゾーンと見なされるようになった。

第二は本年7月、国会において景観法が制定されたことだ。それまで景観は奈良、京都など一部の地域の独占物で あった。市民がいくら景観の保護を訴えても、行政も、裁判所も景観など贅沢だといわんばかりにこれを無視し続けてきた。しかし開発の結果、日本は金の前に かけえがいのない宝物を失ったことを知る。国土交通省の「襟を正す」という言葉を信じたい。また国会も景観法を制定したその足元でそれをあざ笑うかのよう な事態を生み出している「平泉バイパス工事」を即刻中止させるべきである。そして、平泉町の住民と岩手県、さらにはこの地の景観形成に大きな責任を持って いる中尊寺や毛越寺も、もう一度バイパス工事の功罪に眼を向けて、平泉の未来図を自らの手で作成し直すべきだ。

この桜の命を守り抜くことは、尊い樹木の命を守るというだけでなく、この地平泉に都を遷した初代藤原清衡公の 建都精神に叶う行為である。清衡公は、その中尊寺供養願文の中で、生きとし生けるものへの限りない愛(慈悲心)を示した。清衡公は、まさにこの水辺に隣接 した柳の御所に座して、戦禍に焼かれた生きとし生けるものを弔い、この地が永遠に命あるものの安住の地になることを願いながら、平和の都市「平泉」を発展 させていったのである。だからこそ、この地にただ一本だけ残った桜の木の命は何としても救わねばならないのである。

一本の桜の古樹を守る心ありて平泉世界遺産となる


2004.11.25 Hsato

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