最上地方の義経伝説

大友義助

むかし、鎌倉時代のはじめ、兄頼朝から追われた源義経は、源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、鶴岡から清川出て、舟で最上川をさかのぼり本合海に至り、ここから亀割峠を越して小国郷に入り、境田を経て陸奥国(岩手県)平泉に逃れたという。最上郡内においては、金山町・真室川町あたりにも義経伝説が語り継がれているが、最上・小国両川沿いの地域には、とくに色濃く分布している。

1腹巻岩(戸沢村)
最上郡と庄内の境にある腹巻岩は、義経とともに、最上川を上ってきた弁慶が、腹巻をとって乾かしたところであるという。このあとに横縞の腹巻きのような模様のついた岩ができたと伝えられている。

2千人堂と白糸の滝(戸沢村)
義経の従者常陸坊海尊が、ここで一行と分かれ、山伏修行の後、千人になったという。小戸川の千人堂は海尊を祀った社で、船乗りの安全を守り、稲作を守護する神でもある。千人堂の神は虫をきらうので、このお札を田んぼの水口にさすと、稲虫がつかないという。白糸の滝は、昔から都人にも聞こえた名勝であるが、義経や北の方も、この景色に感じて次のような和歌を残している。

最上川瀬々の白波つきさへてよるおもしろき白糸の滝 義経
もがみ川せせの岩浪せきとめよよらてそ通る白糸の滝 北の方
もがみ河岩越波に月さえてよるおもしろきしら糸の滝 詠人知れず
心なく詠よりてや旅人のむすふもおしきしら糸の滝  同
ひきまわすうちばはゆみにあらねどもたかやてさるを射て見つる哉 北の方

3沓喰(くつはみ)
義経一行が、馬でここを通ったとき、彼の乗馬がくたびれて泡をふいたので、くつわをはずして洗ったところという。「くつわはめ」から次第に「くつはめ」・「くつはみ」と変わったというのである。くつわを洗った滝のところには「うまづめ」という岩があり、これに馬の足跡が残っているそうである。

4金打坊(戸沢村)
義経主従が現在の金打坊までさかのぼってきたとき、弁慶は羽黒山からもらってきた鐘撞棒が邪魔になったので、ここに投げ捨てたという。もとは「鐘つき棒」であったが、いつとはなしに「金打坊」になってしまった。

5鳥越(新庄市)
一行は「合河の津」(今の本合海)で舟を下り、小国川沿いに東に向かったが、途中「一ノ関」の名の村があることを知り、関所で見とがめられては「大事と思い、舟形から北に進んで亀割越をしようとした。山際の村にさしかかったとき、一番鶏が鳴いたので、ここを鳥越えとよぶようにした。途中の大平(おおだいら)には、義経の書付けが残っているという。

6実栗屋(みくりや)
舟形町堀内地区の実栗屋は、昔は「巡り会い」という地名であったという。なぜ、こう呼ぶのかというと、源義経とその家来の弁慶が巡り会ったところだからというのである。平安時代の末、平家をほろぼした源義経は、兄頼朝と対立し、わずかの家来をひきつれ、奥州(岩手県)平泉に逃れようとして、最上川をさかのぼって来たが、途中、弁慶は道を間違えて義経、義経と離れ離れなってしまった。義経は、しかたなく道を急ぎ、獅子口に着き、ここで最上川を渡って、現在の実栗屋に至り、熊野神社のところで休んでいた。やがて、そこに弁慶がやってきて、主従は久しぶりに会うことができた。弁慶は間違って、今の大石田町次年子の方に行き、ようやくここにたどりついたというのである。こうして、主従は巡り合ったので、当時は「巡り合い」と言ったが、いつとはなしに「実栗屋」になったと伝えている。また一説には、実栗屋はもともとは「御廚」、つまり、この地方の殿様の直轄地のあったところではなかったかともいう。なお、次年子の寺には、このとき、弁慶が農家から栗を借りたという借用証文が残っているということである。

7折渡(おりわたり)(舟形町)
一行がここの川を渡ろうとしたが、橋がなかったので、弁慶が背負っている笈を橋にして渡った。始めは「笈渡」といったが、その後いつの間にか、「折渡り」になった。近くに「笈掛け松」がある。

8休場の判官神社(新庄市)
義経主従は、亀割峠を越すべく、新田川をさかのぼったが、余りにもくたびれたので、ここで一休みした。そこで、この村を「やすんば」と呼ぶようになった。一行が休んでいると間に、誰か一人いないことに気がついた。みると、大男の弁慶がいない。弁慶は長途の旅に疲れ果て、途中で「うとうと」眠っていたのである。この場所をいまも「うと坂」と呼んでいる。休場には、義経を祀った「判官神社」がある。この村の次郎兵衛の裏山に、義経が腰を下ろしたという石がある。また、義経が書いて置いて行った書付けがあったと伝えられている。判官神社は、安産の神として広く信仰されている。

9弁慶の切石山(新庄市)
一行が亀割峠の方に進むと、大きな岩石が現れて路を塞いだので、弁慶がなぎなたを振って、これを断ち切った。亀割峠のふもと、道の左側にそびえている岩山がそのあとで、四角の柱をたてたようにきり立っているのは、このためである。

10亀割峠と瀬見温泉(最上町)
一行は嶮しい山道をよじ登り、ようやく峠の頂を越したところで、義経の奥方が急に産気づき、玉のような男子を産んだ。弁慶は産湯をさがして谷川に下ったところ、川辺に湯煙を見付けた。さらに、なぎなたで岩を砕いたら、中から「こんこん」と温泉がが湧き出てきた。これが、いまの瀬見温泉である。生まれた和子(わこ)は、峠の名に因んで、亀若丸と名付けられた。亀割丸が用いた枕石は「子枕石」といい、今も峠の中腹に残っている。ここには安産の神として名高い亀割観音が祀られている。また、北の方がしきりに水を欲しがったので、弁慶は法螺貝を大地につきさして神仏に祈り、霊水を得た。これが後の「子安の清水」であり、法螺貝は「子安貝」と化して、いまも岩の間から時折発見される。これは安産のお守りとして珍重されている。北の方がお産をした場所には、いまも「義経北の方御産の跡」と刻んだ石碑が立っている。

11弁慶の腰掛け石(最上町)
北の方がお産をした場所から瀬見温泉に下るところに、大きな岩がある。弁慶が腰を下ろしたところという。

12弁慶の投げ松(最上町)
瀬見駅から温泉に向かう途中の大きな松を、こう呼んでいる。弁慶が亀若丸の誕生を祝って「再び義経公の世になって栄えるように。」と、峠の頂上から投げた松が、ここに根付いたものだという。

13弁慶の投げ石
瀬見温泉の川向かいの山ある大岩を「弁慶の投げ石」といっている。弁慶が岩を割って温泉を掘ったとき、邪魔になる岩を力まかせに投げたのが、川向かいに落ちたのだそうだ。

14亀若丸の産湯(最上町)
弁慶が岩を割って見つけ出した温泉は、いまの「薬研湯」(やげんゆ)で、自然の岩風呂であった。弁慶がこの時使ったなぎなたの名が「せみ丸」であったので、この地を瀬見と呼ぶようになった。また亀若丸は落人の身であることを知ってか、一声も泣かなかったので、「泣かぬ蝉」という意味でこの名がついたという。さらに、昔ある人が湯煙のかかる松の木に止まっている蝉をつかまえた。この蝉は傷を負ったので、湯煙で湯治をしていたのである。このことから「蝉の湯」と呼ばれるようになったとも伝えられる。

15お産屋の跡(最上町)
薬研湯の川向かいに祀られている山神は北の方が、ここにお産屋を建て、しばらく養生した所といわれ、後に村人がこの地を不浄にしてはいけないと「山神」の祠を建てた。この山神は安産の守り神として崇められている。

16弁慶の笈掛け松・笈掛け桜(最上町)
山神社の近くに「笈掛けの松」と「笈掛けの桜」がある。ともに弁慶が自分の笈をかけて休んだ所と語り継がれている。
 

17判官楯(はんがんだて)(最上町)
おいの沢をのぼった東側ぶ「判官楯」と呼ぶ山がある。ここは義経が、北の方のお産肥立ちまでの間、待っていた所だという。

18墨染めの桜(最上町)
瀬見温泉で養生していた北の方が、ある日、常陸坊の背に負われて、ぼどう沢の山桜を見に行った。このとき、常陸坊は墨染の衣を脱ぎ、桜の枝にかけた。以後、この桜は満開の中にも、一つだけは、真っ黒な花をつけるようになった。この花を見つけた人は、幸せになるという。墨染の桜は、いまはなくなってしまった。

19弁慶の硯石(最上町)
瀬見発電所の近くの大きな平たい岩を、こう呼んでいる。亀若丸の名をつけるとき、弁慶はこの岩を硯として墨をすったという。この近くに弁慶の足跡や馬の足跡のついた岩がある。

20弁慶の楊枝柳(最上町)
弁慶が瀬見の湯を出立するとき、楊枝に使っていた柳の小枝を道端にさして行った。これが根付いて大木になった。

21弁慶の借用証文(最上町)
大堀の二戸源兵衛家は代々庄屋を勤めた家柄であるが、同家に弁慶の借用証文が伝えられていたという。それには「今一疋借用仕り候、弁慶。」と書いてあったということである。笹森の佐藤久兵衛家にも舟形町大平の伊藤半平太家にも、同じような借用証文がある。

22月楯の弁天様(最上町)
北の方が難産で苦しんだとき、月楯の弁天様に祈願して無事お産をすますたことが出来た。一行がここを通り過ぎる折、義経は弁慶を代参させて、お礼を述べさせたという。

23けはい坂義経桜(最上町)
義経主従が富沢の明神山の麓にさしかかったとき、義経が土地の名を問うたところ、村人は「けはい坂」と答えた。義経は鎌倉のけはい坂を偲んで「はらはら」と涙をこぼした。義経はここに一本の桜を植えたということであるが、いまは残っていない。

24尿前(宮城県鳴子町)
境田の峠を越して奥州に入った一行は、ようやく平泉藤原氏の領内に到着したとて、ほっと安堵の胸をなで下ろした。北の方は、人の前もはばからず、放尿したので、「尿前」の名がつけられた。

25鳴子(鳴子町)
いよいよ平泉も近づき、義経主従はゆっくりと川辺の温泉に浸った。これまで敵地なので、産声をあげなかった亀若丸も、ここに到ってすっかり安心し、初めて大きな産声をあげた鳴子の名前は、このことに由来するという。また亀割丸をいあやすため、弁慶がつくった木の人形が、鳴子のこけしの始めであると伝えられる。

26弁慶山(真室川町)
真室川町の大沢の奥に弁慶山という高い山がある。昔、義経主従は庄内からこの山を越して最上に入り、平泉に逃げたというので、この名前がある。この麓は、「弁慶かの」といって、焼畑が行われた所である。義経達は一夜小国の佐藤家に泊まったが、そのお礼に置いていったのが、大日様の掛軸であるという。また佐藤家では、この客が義経主従とは知らず、あり合わせの大根・蕪しか御馳走しなかったので、この後は、この日は大根と蕪を食べないことにしているという。

(大友義助『山形県 最上地方の伝説』東北出版企画)から転載