好日聞きかじり

 
好日小論
 


好日とは、新明解国語辞典によれば、「十分に人生の楽しみが味わえる日々」となる。だから日々是好日は、「平穏無事であったり、天気が良かったりして気持ちのよい日」と解釈される。また岩波国語辞書では、シンプルに「安らかに過ごせる、よい日」とある。
広辞苑では更に一言「よい日」としか書いていない。

もちろん原典は、碧巌録、第六則「雲門十五日」である。
雲門(864〜949)は弟子たちに言った。
「十五日以前は問わない。15日後、一言言ってみよ」
しかし雲門に、向かってむやみなことは言えないと、畏れいって、誰も答える者はいない。そこで雲門が自ら言うには、
「日々是好日(にちにちこれこうにち)」と一言。

禅語としての「好日」は、辞書たちが教えるような、単なる「よい日」などではない。晴れようが、曇っていようが、楽しかろうが、苦しかろうが、生きのびようが、死んでしまおうが、今この時を感謝の念を持って受け止められるかぎり、その日は「好日」となるのである。つまり好日と今を直感できる、その心こそが「好日」そのものである。

たとえば、山岡鉄舟が1888年、胃ガンが悪化して、死ぬ間際、座禅を組みつつ、
「腹痛や 苦しきなかに 明けカラス」と辞世の句を詠んで逝った。この時、山岡は、最後の生命力を振り絞りつつ、苦しき中に、光明を感じつつこの世を去った。つまり山岡は、好日を実感しつつ死んだのである。また同じように、赤穂浪士の大石良雄が、
「あら楽し 思いは晴るる身は捨る 浮世の外にかかる雲なし」と心に好日を持って、自刃して、果てた。 

先の雲門が発した「何か言え」というのは、鈴木大拙博士が言うように「禅宗の癖」である。「すべてのものを否定するということ、それから否定することも否定して、なにもかも否定の極を尽くして、そこで何か言えと迫るのが禅体験の要求なのです。」(鈴木大拙著「禅問答と悟り」(p218〜219)その上で言葉としたのが、この「日々是好日」だったのだ。

柳田聖山氏は「日本人の暦には、簾を動かす秋風に、仏性をみる伝統がある」として次の和歌と句を紹介している。

”秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる(新古今:藤原敏行)”

”秋来ぬと 合点させたる くさめかな(蕪村)”

好日とは、まさに「晴れて好し、曇りても好し富士の山」のような日々一刻一秒を有るがままに受け入れて生きる覚悟と心構えそのものかもしれない。今を真剣に生きる者だけが、永遠に生きることに通じるということか。佐藤

 


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2000.01.10