冬の衣川歌紀行


泉が城側から関山中尊寺の麓を流れる衣川を見る

雪深き関山下り西行は水面に自己を映して見しか

 

1 西行の歌を尋ねて

12月29日の夜、翌日の衣川行きのことを考えると感情が高ぶって眠れなかった。私にとって、今回の旅の目的は、西行法師という人物が、今から815年前の同じ頃に極寒の奥州に訪れて詠んだ「衣川の歌」の精神に触れることだった。

西行が、その時に詠んだと思われる歌は、次の二首である。

○十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり、嵐はげしく、ことのほかに荒れたりけり、いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり、河の岸につきて、衣河の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見る心ちしけり、汀(みぎは)氷りてとりわき冴えければ、
 とりわきて心もしみてさえぞわたる衣河見にきたる今日しも

○奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥国へ遣わされしに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙を流す、いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば物語にもせむと申して、遠国述懐と申すことを詠み侍りしに、
 涙をば衣川にぞ流しつる古き都をおもひ出でつつ
 

二首にはそれぞれことの外長い詞書(ことばがき)が添えられているが、二首とも、実に寒々とした情景を伝えながら、実に実感の籠もった味わい深い歌である。ただこの歌は、名歌と讃えられるものの、この歌が伝えている歴史的な背景が無視されて解釈されがちで、歌人西行の心の深層にあった思いを踏んでいないため、浅薄で通俗的な解釈が多い。

私が、訪れた日(2001年12月30日)の、衣川の天候は、特に凄まじいものだった。というのは、私が新幹線で一ノ関の駅に着く二時頃だったが、その日の昼までは、多少の雪はあったものの、空は真っ青に晴れ上がっていたそうだ。それが私は一関の駅に着く一時間ほど前から、空が急に掻き曇り、前が見えないほどの雪が降ってきて、たちまちあたり一面が銀世界と化してしまっていた。もちろん私自身は、晴天ではなく、先の詞書にあるような、「雪ふり、嵐はげしく、ことのほかに荒れたりけり」の衣川を期待していたので、駅に降り立った瞬間、鳥肌の立ち思いがした。駅に着くと、K氏が、駅まで車で出迎えてくれた。彼は衣川の長者が原に実家を持っていて、普段は東京に住んでいるのだが、私に衣川を案内してくれるというので、急遽一日前に帰省して、待っていてくれたのである。K氏の運転する助手席で、激しく降る雪を見ながら、こんなことを考えていた。

西行は69歳という高齢を押して、冬の奥州まで、なぜ向かったのか。表向きは、東大寺の大仏の再興のための砂金を藤原氏に願うための旅と思われている・・・だが、それだけの理由で、老西行が、奥州に来るはずなどはない。そこに歴史には現れない秘密が隠されているに違いない・・・。
 

泉が城の中州を廻ってふたつに分かれた衣川は再び合流する

胸に沁む雪景色なり衣河、古城を廻りて大河ゑそそぐ


2 西行最後の陸奥行の意味

それにしても西行が69才の高齢を押しつつも、極寒の冬を選んでわざわざ奥州に旅した理由はなんだったのか。その時の奥州への旅の途中で詠んだと思われる歌をまず味わってみよう。
 

年長けて又越ゆべきと思ひきや命なりけり小夜の中山
(意訳:年取って、又この小夜の中山の峠を越えようと思いたって来た次第である。それにしてもこの私の命が保つだろうか?注:小夜の中山は歌枕?歌に詠みこまれた諸国の名所のこと?で、静岡県南部、掛川市の日坂峠と金谷町との間にある東海道の坂路である。)
風になびく富士の煙りの空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
(意訳:夕暮れの富士の麓を見ていると、民の焚く火の煙が風になびいて空の彼方へ立ち上って消えているではないか。それはまるで我が思いのようでもあり、又私の命そのもののようだ。)


西行が、ある意味では、死ぬことを覚悟しているとも取れる歌を詠みながら、表向きには東大寺の大仏再興の砂金勧請と称し、奥州に向かった理由の一つは、同族としての奥州藤原秀衡に対する個人的な思いが在ってのことではなかったろうか・・・。ではその個人的な思いとはなにか。実は老西行の奥州行きの理由を解く鍵とも思える話が、正史の吾妻鏡に残されている。文治二年(1186年)八月十五日の箇所である。

その箇所を現代文に簡訳すればこのようになる。
 

十五日、頼朝公が、鶴ヶ岡八幡宮に参拝なさっていると、鳥居のあたりに怪しい老僧が徘徊している。これを梶原景季が問いただした処、西行法師だった。頼朝公はこれを御所に招いて歓談に及んだ。特に頼朝公は、歌の道と兵法について様々教えを受けようとした。すると西行は、家伝の兵法書についは、罪業の因縁を作る要因となるので出家したときに全て焼き払ってしまいました、心に残っていたことも全て忘れ去ってしまいました。と答えられた。また歌の道については、奥義などというものはまったくありません。ただただ花や月を見ては心に感ずるままに三十一にまとめて書き連ねるだけのことですよ。人にお教えするほどのものは何もありません。と答えた。しかし熱心に頼朝公が聞くので、兵法については結構おしゃべりになり、これを藤原俊兼に書き取らせた。この歓談は夜遅くまで続いた。

翌日午前十一時、西行法師は、引き留められたけれども、退出なさった。頼朝公は、お礼に銀の猫を西行法師に賜った。ところがこの猫について通りで遊んでいた幼子に与えて去ったということである。西行法師の今回の旅に付いては、重源上人のお願いを引き受けて東大寺の沙金勧請のために奥州に向かうためだということだ。その途中で鶴ヶ岡八幡宮に寄られてようだ。何んと言っても陸奥守秀衡公は、西行法師の遠戚の一族である。


この吾妻鏡の記載していることがすべて語っているように思える。西行は、鎌倉の動勢を探ろうとしていた。もちろんその理由は、源頼朝を神輿に担いだ鎌倉武士たちの動向を探り、奥州にいる同族で友人の藤原秀衡に知らせることにあったと考えられる。
 
 

箱石橋から豪雪に揺れる小舟を撮る

痛いほど雪が頬打つ奥州の寒さ凄まじ骨身に沁みる


 

3 格別の雪景色

国道四号線を平泉に入ると、雪の勢いははますます強くなってきた。平泉バイパスに分岐点が見えて、右折し太田川に添って、この巨大なコンクリートの道を登って行った。時々対向車がやってくるが、ほとんど車は疎らである。でも新高館橋ができた為に、北上川東岸に住む人たちが以前よりは、かなり利用するようになったようである。

途中束稲山や平泉バイパスの工事完了後には、直ちに壊される運命にある高館橋にレンズを向けた。雪に霞む高館橋は、虚ろで悲しげに見えてしかたなかった。新高館橋は、このバイパスの30mの高さの最高部にあり、場違いなほどの威容を誇っている。ところでこの橋は、5日前の平成13年12月25日に開通式があったばかりで、北上川と彼方に見える束稲山の景観には、どのように見ても似つかわしくない軽薄なものに映った。
 

 やがて消ゆる定めを知らぬ古橋の雪に霞みし雄姿悲しき


新高館橋を渡り、東岸に渡ると、道路工事が、この大雪を着いて行われていた。ひっきりなしにショベルが巨大な象のように歴史の町の土を掘り返しては、移動しているのだ。かつてこの辺りには、奥州武者の屋敷が理路整然と並んでいただろうに、今はすっかり田圃となって、とてもここに鎌倉に匹敵するような人々が暮らしていたなどとは思えない。そのようなことを思いながら、かつてこの辺りを流れる時には桜川と呼ばれた北上川の川縁を上流の箱石の方に車を走らせた。
 

箱石橋に停車すると、下流に微かに見える高館にカメラを向けたが、雪に遮られてとても見えない。仕方がないので、カメラを下に向けると、夏に義経公の鎧兜を御神体として舟下りを催行した箱石の渡し場が見えた。そこには夏のゆったりと流れる北上川とはまるで別人の荒れ狂う冬の河が存在している気がした。何しろ二艘の小舟が、吹雪によって、左右に揺れ動いていて、屠殺場に連れて行かれる牛馬のようでもあった。
 

 北上川をごう雪渡り小舟揺れ蝦夷の里を冬将軍攻む


箱石橋の上で顔に吹き付ける雪の冷たさは格別だった。寒いというよりは痛いと言った方が適切な気がした。夢中でシャッターを切ると、すぐに車に飛び乗った。雪の為に視界が極端に狭くなっていて、前から来る車が、近くで急に飛び出してくる。

車は四号線を抜け、衣川村に入る。狭い古道をぬって金売吉次の館の跡だという伝承のある長者が原に差し掛かると、K氏は、「ここが長者が原です」と言うのだが、そこはただ一面の銀世界で、遠くにポツリと石碑ようなものが二、三立っているのが伺えるだけだ。
車を止めるとK氏は、しみじみと話し出した。
「何もないでしょう。昔はここに堀とか柵の跡のようなものも在ったようですが、今はすっかり田圃の整理が進んだためか、こんな有様になってしまいました・・・。」

「いや、でもやはりとても雰囲気があるよね。たとえここが発掘調査の結果寺院の跡だったとしても、安倍氏の時代に寺院だったものが、百数十年後になって、金売吉次が館として利用したとしても何ら不思議はないと思うな。だから全体の遺構としては、寺院であっても、吉次館がなかったということは言い切れないわけで、今後様々な研究がなされて、やはりその昔、吉次がここに倉庫や館を構えて、衣川の船着き場から、船で都に奥州の金や毛皮などを送り、都からは沢山の仏像や工芸品などを運び込んでいたということが明らかになる日の近いかもしれないよね。」

「それはそうです。確かにこの辺りに吉次という人物かどうかは別にしても、都との交易の拠点が置かれていた可能性は高いかもしれませんよ。だってほら、あそこいらに、船着き場の跡が見えるでしょう。」

K氏がふり返って、北西の方角を指さすと、微かに立て札が見える。それは衣川の船着き場の跡であった。

K氏は続けた。
「佐藤さん、どうですか。今我々が立っている場所は、古道ですよ。ずっとこの道が関山中尊寺に伸びているのですからね・・・」

K氏の指さす方を見れば、雪に霞む道の彼方に微かに中尊寺が見えた。

「これが奥の大道と言われた道なのか・・・」私は余りに白い衣川の古道にそのような言葉しか浮かばなかった。
 

 衣川、糸を辿りてみちのくの書かれぬ歴史雪間に探す

月山橋から衣川上流を望む

衣川の厳しき冬の風音に敗れし武者の絶唱を聴き


4  清衡の母の屋敷跡?!

雪に荒ぶ奥の大道を真っ直ぐに進むとK氏が叫んだ。
「左に見えるあの杜なんでけど、室乃樹屋敷と言って清衡さんのお母さんの家だった跡
と言われている所だそうですよ。もちろん伝説なんですが・・・」
見れば、その杜は獅子の頭を横から見たような形をしている。
「へー。そんな場所が残っているんだ・・・」

ただただ驚きだった。清衡公(1051−1128)の父藤原経清とその奥だった女性のことがぼんやりと思い出された。彼女は、奥六郡と言われた奥州一帯を支配していた俘囚長安倍頼時の娘である。藤原経清は、亘理大夫という国府の役人だった人物で、安倍頼時(?−1057)は、この中央の貴族を娘婿に迎えることによって、安倍氏と中央の結びつきを強固にすると共に、俘囚(ふしゅう)と中央から蔑まれる血の洗浄を考えたのであろう。藤原経清は、平将門の乱を鎮めた豪傑藤原秀郷の流れを汲む名門の出であり、安倍氏にとっては、まさにうってつけ娘婿であった。当時奥州における安倍氏の勢いは絶大であった。都の朝廷は、このことを疎ましく思うようになった。そこで勢力を削ぐ意図をもって、源頼義(988−1075)を陸奥守(将軍)として、奥州の国府多賀城に送った。永承6年(1050)のことである。

安倍頼時は、流石にしたたかな男で、5年という源頼義の陸奥守の任期中には、争い事を避け、頭を低くして、この人物に従った。腹の中は煮えくりかえるような思いがあったろうが、少なくても表面では、隙を見せずこの中央から来た男を封じ込めることに成功したかに思われた。頼義は、おそらく策謀をもって、この安倍氏を戦を仕掛けようとした。頼義は、任期終了の巡察で訪れた胆沢城において10日滞在した最後の時を狙って、策謀の矢を放つタイミングを計っていた。チャンスは、なかなか訪れなかった。慇懃無礼な態度を見せても、老かいな安倍氏の長、頼時は乗ろうとしない。そして頼義は、衣川の柵を渡ってしまったのである。つまり安倍氏の本拠地の奥六郡を離れてしまったのである。おそらく長の安倍頼時に限らず、緊張感から解放された安倍氏郎党は、胸を撫で下ろすような解放感に浸ったであろう。

すでに将軍源頼義は、かつて伊治城があった阿久利川(あくとがわ)の辺まで来てしまった。俗に「阿久利川事件」(あくとがわじけん)と称されるこの事件は、現在の築館町と志波姫町の境になる「阿久戸」(あくと)と呼ばれる地域があるが、そこで起きたと思われる。そこには蛇行する一迫川を望む段丘の上にかつての伊治呰麻呂が乱を起こした伊治城(これはりじょう)の比定地と思われる館跡が現在でも遺っていて、発掘調査が進められている。かつて阿久利川(あくりかわ)と読んでいた関係で、事件の起きた比定地がなかなか定まらなかったが、東北大学名誉教授の高橋富雄氏の地道な研究の結果、この地で起こったとの説が有力になりつつある。

おそらく頼義は、松山道(達谷窟から一関の市野々を抜けて津久毛に抜ける古道)と呼ばれる街道を抜けて、この辺りに野営していたのであろう。そこで深夜になり、騒ぎが起きた。突然野党だがなんだか、得体の知れない者が、夜陰に乗して侵入し、人馬を害したというのである。そこで藤原光貞という者が、「これはきっと安倍頼時の子の貞任の仕業であろう。あの者は、昔私の妹を妻にくれと身分不相応なことを言って、断ったことがあり、そのことに怨みをもってのことでありましょう」と言った。通常ならば、詮議をすべきところであるが、源頼義は、そんなことはお構いなしに、安倍氏の嫡男貞任を犯人と決めつけて、安倍氏に一方的な要求を突きつけた。

これまで源頼義が、陸奥守として赴任してきて5年間我慢に我慢を重ねていた頼時であったが、ついにこの場に至って、堪忍袋の糸が切れた。安倍頼時は、この頼義の不当な要求に対して、決然とこう言い放った。

「人の道が世にあるのは、皆これは妻子のためにあるのだ。息子貞任がたとえ愚か者であっても、父と子の愛というものを捨て去ることはできないではないか。もしも罰に服すればきっと後悔が残って死ぬに死ねないに違いない。今はただ衣川の関を閉ざして、攻められてもそれを素知らぬ振りで忍ぶのみだ。だから皆も先方の申し出を拒んで戦うのではない。素知らぬ振りを通すのだ。たとえ戦となり、それが利あらず、共に死ぬとしても構わない覚悟だ」

こうして衣川の関は閉ざされ、衣川一帯を主戦場とする前九年の役は始まったのである。天喜4年(1056)8月3日のことである。

この時、清衡は6歳。賊軍となった藤原経清と安倍頼時の娘の息子として間に生まれた幼子は、否応なく奥州の大激変に巻き込まれてしまった。というのは国府の役人(亘理の權太夫)であった父経清が、この戦に巻き込まれ、苦慮の末に、義父安倍頼時に組して源頼義・義家親子に率いられた朝廷軍と戦うこととなったからである。戦の形成は、当初から地の利のない朝廷軍にとって苦戦の連続だった。このままでは、安倍氏に敗れてしまう可能性が高い。そこで源頼義は、出羽(山形から秋田にかけての地域)に勢力を伸ばしていた俘囚長清原武則に応援の参戦を請うのである。結局、清原氏の参戦が功を奏して、安倍氏は滅ぼされ、清衡の父経清は刑死してしまうのである。

その後、清衡の母は、皮肉にも清原武則の息子の武貞という人物に再嫁して、敵の家で成長することになるのである。何か女性が一種の貢ぎ物のような感じで哀れであるが、征服した側が滅んだ家の財産を正当に相続するための儀式のような一種の慣習だったという考え方もあるようだ。それでも現在の常識では、到底受け入れられるような話ではない。

清原武則は、こうして鎮守府将軍の地位を拝命し、元々支配していた出羽と安倍氏が支配していた奥六郡と言われる地域を支配する東北の一大豪族となった。しかし火種が在れば、必ずそこには戦火が上がるものだ。清衡が27才になった永保3年(1083)に、清原氏内部で、権力抗争が起きる。所謂「後三年の役」(1083-1087)と呼ばれる抗争である。この時、清衡は、かつて父経清が戦った源義家(当時陸奥守として奥州に居す)を味方に付けることに成功し、自分でも思っても見ない運命の糸に操られるように、後三年の役の勝者となり、父の汚名を晴らすとともに、祖父安倍頼時の支配地であった奥州を回復するとともに、清原氏の領地までも、我が手の中に治めてしまうことになったのである。さてこの時、勝者と敗者を分ける決定的な役割を果たした源義家であったが、私闘に組みした理由で、褒美らしい褒美というものは与えられなかった。後の世に、源頼朝が、執拗に奥州というものに執念を燃やす根拠は、この時代(義家やその父の頼義の代)からの恩讐のような思いが複雑に絡み合って形成された一族の業そのものと言える。

衣川村には、都市化されていない分、当時の奥州を廻る様々な人物の思いのようなものが、そこかしこに立ちこめているように感じる。図らずも奥州の覇者となった奥州藤原氏初代清衡は、嘉保年間(1094−1096)この思い出の地に母の館を建て、自らも胆沢郡の豊田館ら政庁を平泉に移したのである。壮年(38才-40才)となった清衡は、きっと足げく老いた母の元に通ったのであろうか・・・。
 

肌を刺す吹雪の中を母思ふ清衡独り母屋訪ねし


安部氏時代の政庁(?)衣川の並木屋敷跡から三峰山を望む

古の都の跡のおちこちに墓の並びて吹雪に向ふ


5 並木屋敷跡

長者が原を、南に下って杉の木立に囲まれている並木屋敷の跡に来た。そこには疎らに墓石が並んでいて、栗駒山から吹き下ろす風雪に身を晒すように立っていた。物言わぬその石ではあるが、何か意志を持つ尊い存在が背後に在るような気がして、自然に頭が垂れた。この中に、丈も高く造りも高貴な感じのする石が二基あった。側に寄って、刻まれている文字を読もうと試みたが、柔らかい栗駒石(?)で出来ているらしく、読みとることは出来なかった。

  古の都の跡のおちこちに墓の並びて吹雪に向ふ

通りを廻り込むと、この屋敷の説明板が立っていて、「この辺り一帯は、永承元年(1045)頃に、安倍頼時が本拠を構え政庁が置かれていた」と書かれてあった。当時この辺りは桜並木に囲まれていたようだ。安倍氏が前九年の役(1056−1062)で滅んでしまうと、その後康平6年(1063)から永保3年(1083)までは、安倍氏に代わって清原氏が20年間に渡って、この地を奥羽支配の中心都市として引き継いだのである。出羽にいた清原氏が、安倍氏の拠点である衣川の地に政庁を移したのは、よほどこの地が、出羽と奥六郡を併せた奥州全体を支配するためには、地の利が良かったのであろう。

古代の末期から中世に至る時代には、水上交易も我々の予想以上に進んでいたことが、最近の考古学の成果によっても証明されている。おそらくは金売吉次に先行する商人たちが、この北の都に様々な物資を、陸路だけではなく、大洋を渡り、石巻から北上川を遡り、衣川の船着き場に荷を下ろしたこともあったであろう。何しろ金売吉次の活躍した奥州藤原氏の時代には、平泉を中心とするこの一帯に、十万とも二十万とも言われる人々が軒を並べていたというのである。だからこそ、今でも六日市場や七日市場などの名の付く場所が古道沿いに並んでいて、当時の賑わいの痕跡を、今に伝えているのである。

日本の文化の特徴は、木の文化である。木造の構築物は、焼失すれば、灰燼と化してしまうので、ヨーロッパの古城の跡のように廃墟として、哀れを現実に留めることはない。それは芭蕉が、奥の細道で見事に表現した如く、夏草の生い茂る中に、想像力を持って偲ぶしかない幻想風景なのである。この木と石の違いが、日本人と欧米の人間の感覚の違いとしてあるように思われる。

日本文化の根底に一貫して流れているものは、木というものが醸し出す、敢然として消え失せてしまう哀れかもしれない。そんなことを思った。今並木屋敷の前に立ち、古の奥州人が、何故に栗駒石のような、柔らかい石を使って、墓石を造り、消え失せてしまうことを承知で、そこに戒名を彫るのかも朧気ではあるが分かった気がした。

たった数時間で、平泉の何が分かると、松尾芭蕉の「おくの細道」の旅を軽く見ている私がいる。しかしまた別に、芭蕉という人間が、日本文化に基底部に脈々と流れている本質的なるものを詩人の直感的でもって、「兵どもが夢の跡」と詠んだ想像力の確かさに敬意を持っているもう一人の私がいることも事実だ。

過去に現代に未来に、ここにやって来た人々が、どのようにして、ここが安倍氏清原氏、そして奥州藤原氏と約百五十年の間に渡って急速に繁栄をして、一瞬にして灰燼と化してしまった黄金の都の跡だと気づくだろう・・・。それほどにかつての黄金の都は、鄙びてしまっている。でもだからいいとも言える。何も見えないが、耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ませていると、限りない希望をこの地に見て、生きていた人々の賑やかな語らいがどこからか聞こえて来るような気がする。

  ひときわに目立つ墳墓の二基在りて何処やらみやび並木屋敷は


つづく


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2002.1.13
2002.1.24Hsato