ヨーロッパ精神

ハイデルベルク城(ドイツ)


我々日本人からすると、ヨーロッパの貴族というと、広い石造りのお城に住んで、執事や多くの召使いに囲まれて、優雅に生活する姿を想像しがちだ。ところがどうも最近はそうではないらしい。ヨーロッパでも最近は貴族が段々と厳しいことになっているようだ。

最近あるフランスの有名な貴族がアパートの一室で生活している姿がNHKで放送された。どうやらフランスでも、新興のブルジュワジー(資本家)が台頭してきて、貴族達は自分たちの財産を維持するのに躍起のようだ。彼の場合は、数十年前まで、一族が住んで居た家は人手に渡り、狭いアパートに引っ越したのだそうだ。作家志望の若い彼の愛車は、自転車である。イメージの貴族とはまるで違う姿に愕然とした。最近彼は、自分のような貴族達の実体を書いたドキュメンタリーを書いて作家デビューした。明らかに時代は変わりつつあるのだ。

元々ヨーロッパの貴族にとって、国境はないに等しい。北は北欧のスカンジナビア半島からロシアまで、また西はスペインやポルトガルの果てまで、貴族達は国境を越えてヨーロッパ全体に広く分布している。何しろフランスのマリーアントワネットから最後のロシア皇帝、イギリス王室、モナコ王室、オーストリア王室などすべてはハプスブルグ家などの古い貴族の血を引いた貴族達なのだ。

ところで彼ら貴族達の精神で一番大切なことは、弱気を助ける奉仕の精神と貴族としての誇りであると言う。そんな所にヨーロッパの貴族たちのアイデンティティーがあることは、当然一般の人々の精神の中にも影響を与えており、おそらく一般のヨーロッパ人の精神の核(コア)のとしても機能しているに違いない。だからこそヨーロッパ人は、日本人と比べると、慈善事業に対する考え方がまるで違うのである。

しかしここで誤解してはならない大事な事がある。それは”貴族精神とは、けっして金持ちの精神性ではない”ということだ。たとえ、金はそんなに無くても、貴族は貴族としての誇りと義務があると最初から考えている。そこで彼らは様々な慈善運動にも積極的に参加してくる。それが彼らの存在理由なのである。当然社交界というものは彼ら貴族の情報交換の場であった。当世風の言葉で言えば情報ネットワークそのものなのである。

したがって今日のヨーロッパにおいて貴族は、新しい時代の波には揉まれてはいるものの、貴族精神というものが決して廃れてはいないことを、我々日本人は知っておくべきである。確かに新大陸アメリカに渡ったヨーロッパの一部の人間は、その古いヨーロッパの伝統としての貴族精神を一時、捨て去ることによって、今日の繁栄を手にしたことも事実であろう。またフランス革命は、そのアメリカの独立戦争の影響によって引き起こされた市民による旧体制としての貴族精神に対する反逆であり、自由と平等への飽くなき希求であった。

しかしだからといって、ヨーロッパの人間の中にある誇りや奉仕の精神は、それによって断絶したわけではなかった。明らかに、ヨーロッパの王侯貴族達の美風は文化的にも精神的にも受け継がれて今日に至っている。極論すれば、現在のヨーロッパ人のアイデンティティーのコアの部分は、貴族精神によって形成されていると言ってもいい。その証拠にヨーロッパは、EUという形で、簡単に統合できたではないか。つまりこれは根底にある貴族精神がすでに国境を越えて一般のヨーロッパの人々の中にも深く浸透している結果なのである。

さてヨーロッパの貴族精神が、ヨーロッパ精神のコアを形成していることを見てきたが、翻って日本人の精神のコアな部分とはいったい何であろう。ここではあえてその答えを差し控えておこう。

このことは、日本人一人一人が、新千年紀2000の今、よくよく考えなければならない問題ではあるまいか。

2000.01.07 佐藤

 
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2000/01/12 Hsato