にも負けず 2006


宮沢賢治の感性でみる 2006年日本の世相


賢治が愛した小岩井農場からみる岩手山

賢治の愛した小岩井農場から新雪を抱く岩手山を見る
(2002年11月16日 佐藤撮影)

小岩井は賢治の夢と誇りなりイーハトーブに新雪の降る
雪雲は山下り来て小岩井の牧場をかける若駒のごと

2006年11月17日、宮沢賢治の遺言とも言える詩「雨にも負けず」を通読してみる。

2006年という世相を思いながら、賢治だったら、今の日本社会をどのように見るか、想像してみたい・・・。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ

今年の日本特に地方にあまり明るいニュースはない。新潟では、昨年に続き大雨や長雨にやられ、北海道夕張市は、財 政ひっ迫の余り、破産状態となった。大都市東京に富と企業は集中し、地方との格差は隠しきれないほどになった。

慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ

人は欲まみれとなり、考えるのは、自分と自分のフトコロ具合のみ。
今日は証券投資に、明日は不動産投資と、儲け話に目を三角にしてかけずり回っている。
それほど金のない者は、パチンコ、競馬に明け暮れては、借金の山をこさえ、弁護士・司法書士に泣きついては「やれ 自己破産」、「やれ過払い請求」と己の欲の後始末を他人に任せて懲りるそぶりもない。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

いざなぎ景気を越えたとの政府の発表は、ちょっとした数字のトリックで嘘っぱちだ。その証拠に個々人の所得は年々 目減りの一途を辿り、個人消費もいっこうに伸びる様子もない。まさかと思う者は、岩手に行ってみればいい。賢治のふるさとの花巻周辺がどうなっているか。 温泉街は寂れ、花巻空港を心臓のようにして四方に伸びる幅広の道路だけが晩秋の陽光に鈍く光っている。若者は盛岡、仙台、東京に職場を求めふるさとを捨て た。残るのは高齢者ばかり。稲の値段は年々下がり続け、賢治の誇りイーハトーブは希望を失って木枯らしの吹きすさぶ季節となった。

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ

北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダ ヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

耳を澄ますと、地方から「田舎には産婦人科医も産婆もいない」、「看護婦も集まらない」との悲鳴が聞こえてくる。 今や地方では、女性が子を産むことすら命がけの諸行となったのだ。少子化を嘆く前に、子を安心して産める環境があるのかと言いたい。このことを何とかしな いと、日本という国は本当に萎んでしまうかもしれない。政府の少子化対策の根幹は、希望 のある社会を地方においても実現することにある。この限りなく拡がった中央と地方との格 差をどうするか。今こそ真剣に考えるべき時だ。

高齢者には医療費の負担が重くのし掛かり、若者には年金制度の破綻の暗い影が未来をひどく暗いものに見せている。 弁護士ばかりが巾を利かす訴訟社会の到来はいかがなものか。裁判員制度もまっぴらごめん被りたい。アメリカの悪いところを学ぶ必要はどこにもない。

日本は賢治の時代から見て、農業社会から大きく商業社会に様変わりを遂げた。田舎の重要性は相対で低下し、都会は 田舎の若者を井戸から水を汲み上げるようにして、取り上げてしまった。その結果、田舎は疲弊し、地方は壊滅状態となった。これで良いわけがない。賢治はこ のことを何と思うだろう。日照りや寒さには強くなったが、花巻からは肝心の若者がどんどん流出していく。もしもこの流れも止められるとしたら、それは賢治 の残した「童話」や「詩」のイマジン(想像力)かもしれない。

 
朝な夕な賢治の思ゐ思ひつつ格差
拡がるふる里をみる 
朝な夕な賢治の思ゐ思 ひつつ銀河の海を行く賢治みる


2006.11.17 佐藤弘弥

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