岩手・宮城内陸地震から一週間

災害の中で見出す希望の芽




岩手宮城内陸地震(08年6月14日午前8時43分頃発生)が発生し、今日で6日が過ぎた。明日は一週間が経過する。もの凄い早さで、時が 刻々と移り去っていくのを感じる。昨日まで、病気ひとつせず、元気だった人が、今日は火葬場に送られ、野辺の露と消えた。一方では、運というのか、不思議な廻り合わせで、命永らえ た人がいる。

人間の一生は不思議だ。生きたいと思えば死に、死にたいと思えば生きる、という言葉があるが、自分の意思を越えた大いなる力があるのだろうか。それとも、 ただ確率論的に、人の運命と一生は決まってしまうものだろうか。

被災した人にとって、特に駒ノ湯温泉のような突然の天変地異が起こって、声すらも発する間もなく、一生を終えたような場合、その人の夢や突然断絶された命 の絆は、慰めようもないものだ。

確か、黒澤明の最晩年の傑作「乱」の最後で、血で血を洗うような一文字家の内紛の中で、落城した城跡に立った盲目の少年(鶴丸=野村萬斎)が、手にしてい た阿 弥陀様の軸を落として、途中で引っかかり、阿弥陀様の姿が、夕日に浮かぶシーンがある。実はこの少年も一文字家に滅ぼされた一族の若様で、その時に生かす 代わりに目を突かれて盲目にされた若者だった。

皮肉にも、勝ち誇ったものは、内紛で殺し合い、消えてしまい。盲目の少年は、これから雑草のように生き延びて、一族を再建するかもしれない。黒澤が最後に 阿弥陀様を登場させた狙いは、何だったのか。この世の無常を描きたかったのだろう。それともうひとつ、私には、この盲目の少年の未来が、ひとつの「希望」 として提示されているようにも思えた。

今回のような自然災害は、誰にとっても、辛いものだ。とくに肉親を失ったような被災者の方々には、どんな言葉を弄したとして、慰める術はない。だ が、もしもその人が、自らの命を永らえることができたならば、必ずその中に「希望の芽」はある。そのように「命」をそして「希望」というものを考えたい。佐藤弘弥記