何故、義経は日本人を熱くさせるのか
はじめに

2005年の大河ドラマの「源義経」役が決まったらしい。またジャニーズの某若手歌手に決まったようだが、まともに役者を生涯の仕事にしようとしている者にはたまらない人選だ。この所、大河ドラマの主役クラスは、どうもトレンディドラマならいざ知らず、こんな人選では、まず希代の天才児義経の凄さなど出るはずもない。またぞろ、静御前との悲恋物語に終わるのは、はじめから見えてしまった感すらある。

義経を映像化するに当たって留意すべきは、偏に一人の大天才が、平安から鎌倉という時代の大きな転換点にいて、時代の歯車を前に前進させたという一点である。しかも彼は実に人間的な人物だった。時には部下を思って泣きそして恋もした。最後には腹を切って果てた。ただ義経の生涯において、静との悲恋物語は、それは花を添える話であって、中心には成り得ぬ。多くの日本人が訳も解らずに人間義経に限りない魅力を感じるのは、最盛期には鬼神のごとき活躍をした人間が、一度運命が変転したしまった後は、ボロ雑巾のようにうち捨てられて呆気なく死ぬという悲劇性にある。

さて昨日、古い映画「新平家物語」の「義経と静御前」(1956年監督島耕二、脚本八尋不二、撮影宮川一夫)がNHKBSで放映されていた。原作は、もちろん吉川英治だ。この映画が実に情けない映画で、「新平家物語」というタイトルはいいが、これが静と義経のメロメロのメロドラマとなっていた。

主役は菅原謙二演じる義経ではなく淡島千景の静の方だ。クレジットでも、淡島の方が上に位置している。菅原謙二の義経のイメージが弱い。とても鬼神さえも腰を抜かすような大天才がそこにいるとは思えない。もっと弱いのは、上原謙の頼朝だ。顔中眉毛を付けて髭を蓄えて、あの奥眼がやけに貧相に見える。神護寺の肖像を見たのか、と疑問を持つような有様だ。おそらく、時間がなく、シリーズ化されたタイムスケジュールの中で、出来たのだろう。この映画の駄目さは、誰の目にも明らかで、まったくリアリティを感じなかった。例えば、義経と静が冬の吉野を彷徨うシーンで、静が重ねの着物を来ている。まったく考えられないことだ。これはおそらく歌舞伎の「義経千本桜」の中の道行きのイメージから持ってきたのだろうが、京の町を歩くならいざ知らず、冬の吉野を歩く時の格好があれでは話にならぬ。仮にも冬の吉野である。吹雪に一行が彷徨うシーンに、リアリティがないので、悲しくないのだ。それに義経と静が実は幼なじみだったという設定は、くだらぬ子供だましだ。静と義経の出会いに焦点を充てるならば、人が一生に一回の恋に落ちる瞬間の描き方は、別にあるだろう。幼なじみが、再会したではドラマにならぬ。まったくワクワクした感じがない。それから義経が、吉野から北国街道を通って奥州に抜けるワンシーンだが、砂浜だが、荒野だが知らないが美意識がない。最後のシーンは、鎌倉に送られた静が、義経の子を宿した身重のまま、頼朝と政子の前で、舞うシーンだ。この静の舞であるが、これでは単なる現代の日本舞踊であり、スピードがありすぎる。雅な平安のゆったりとした情緒がない。その為に、ひどく散漫な作品になっている。

「新平家物語」の第一弾は、溝口健二を監督に起用した平清盛の生涯だった。清盛役は、市川雷蔵。しかしこの作品もはっきり言って、失敗作だ。映画はシナリオが命である。どんな優れた監督が居て、宮川一夫のような達人がキャメラを回そうが、シナリオの過程でもう一歩の踏み込みが足りなければ、いい結果は得られない。結局、この映画は、清盛が院のご落胤であるということをキーにしてストーリーが展開しているのだが、平家物語の原点は、仏の眼で覗いた平安末期の日本の怖ろしき情況である。あの時の日本を俯瞰すれば、京都の巷のそちこちに人間の果てしない野望が満ちあふれ、どす黒い陰謀が渦巻いていた。新勢力としての武士階級が、力を蓄えのし上がり、公家たちがそれを軽蔑しながらも恐れおののいている。そんな怖さがあの作品にはない。あるのは貴種の血を受け継いだ清盛の権力奪取までの苦労だけだ。それが原作の「平家物語」とは全く違うとらえ方で、日本的なる情念が芸術として昇華投影していない。清盛が率いる平家が滅びる前提に何があったのか。歴史のダイナミズムがどこにあるのか。仏教的な無常観も感じられない。これでは「平家物語」という名を冠する意味がないとさえ思った。

源義経の過去の映像を考えながら、熱くなっている自分を感じた。
ここから少し、源義経の特長というものをいくつかの項目に分けて考えてみることにしよう。

 源義経という人物の性格的特徴

 1.一途さ
どうも源義経には、日本人の気持ちを高ぶらせるような人格的要素がありそうだ。多く義経という武将を好きだという人間は、気持ちの熱くなる傾向にある。これはおそらく義経の馬鹿が付くほどの父の汚名を濯(すす)ぐという生涯のテーマに向かってまさに純粋無垢に突き進んでゆく一途さというものに、心を動かされるためであろう。

とにかく、死ぬことなど少しも恐れず、苦労を苦労とも思わず、仇としての平家を討伐することに命を賭ける。人はここまで自分の命さえ失っても何も惜しくないと思うような生涯のテーマに出会えないのが普通だ。だから生まれた時から、父の汚名を晴らして仇を討つということに、ここまで若い命を燃やした戦争の大天才の生き様に特別な感情を持つのである。

義経の戦術の基本は、奇策奇襲である。相手の思わぬ所を突いて、敵の隊列を混乱に陥れる。心理的にパニックになった所で、これを味方の本隊を引き入れて殲滅する。義経は自ら常に、敵と直接対峙する最前線にある。時を置かず、次から次と彼の頭の中で、どのようにしたら、敵兵をパニックに陥れ、どのようにして自ら戦えば、味方の戦意が高揚するかというイマジネーションが湧いてくる。打つ手が次々と当たる。もはやこの時点で、敵からも味方からも、武将義経は一種の鬼神のような姿に映っている。

それでも、義経には計算がある。鎧を次々と脱ぎ捨てて、敵からあの赤い鎧を着ているのが義経だ。などと覚らせるような愚は犯さない。ここには、義経の戦いにおける美学を見て取ることができる。よく言えば、シャレ者だ。単に相手の矢の的にならないような工夫をするだけではなく、死を賭けて戦う侍は、いつ死んで首を取られてもいいように、美しくなければという感覚がある。

敵からすれば、どの侍が、大将の義経なのか、分からない。まさか、最前線で、右へ左へと動き回っているのが、総大将の義経とは思わない。この辺りに、義経が、頼朝に讒言(ざんげん)をして結局不和になる原因を作ったとされる梶原景時のような伝統的な戦スタイルしか受け入れられない保守的な武将との意見対立が生まれる原因があった。
 

 2.全力投球
義経の行動をみていると、いつも全力投球という感じがする。彼が戦場でとる作戦は奇策が多いのでが、とても常識では考えられない作戦を採る時でも、命がけというか、全力投球をしない時はない。彼を見ている者が、思わず手に力こぶが入り、気が付いたら彼を応援をしてしまっていたということになる。

これは人の貴賤を問わず、そうなるようだ。公家の中でも義経のファンになる人間は多かった。後白河院でも、最初から頼朝と義経を離叛させる目的で、侍としては最高の官位である従五位の下を義経に与えた訳ではあるまい。

一ノ谷合戦の鵯越の逆落としと言われるような異常な戦法と勝利、あるいは嵐を突いて、むしろ嵐の波に乗って敵を当然のようにして追って行くという屋島合戦の時の鬼神のような行動。これをつぶさに聞いて、感動しな者はいない。おそらく義経の戦勝の軌跡を聞きながら、院の脳裏では、「素直にこんな凄い武将が現れたのか」という畏れと感動が院の脳裏で渦巻いたのであろう。

これは頼朝に組して、後に関白となった藤原兼実でも同じで、「玉葉」という日記の中で、義経という武将の素晴らしを大いに讃えていることからも解る。要するにどんな冷静な人間でも、理性を失うような感動を誘う。それが源義経である。

巷の民衆もまた、源義経について、源氏の棟梁だった父義朝を平治の乱で平家に殺され、不遇の生い立ちをした若武者が、父の仇を討つために、全身全霊で戦って平家を打ち破ったことに、心が震えるような感動を覚えたことだろう。義経の全力投球の姿勢が、老若男女、敵味方を越えて、人の心の琴線に触れる所が義経の生涯にはある。

時代を超えても、その義経に感動を覚える人は後を絶たない。黒板勝美(1874-1946)という古書学を確立し「国史大系」という編纂した著名な大歴史学者がいるが、彼も義経の勇猛果敢な人生に魅せられて、「義経伝」という非常にちょっとのめり込み過ぎと思うような義経の伝記まで書いている。普段は、冷静な学を志している人間でも義経の生涯に触れると、一溜まりもなく、ころりと魅了されて、一ファンになって、熱くなってしまうのである。
 

 3.涙もろさ
敵と対峙する戦場では鬼神のような活躍をする義経だが、反面突如として情に厚く涙もろい一面を見せる時がある。

例えば、屋島の合戦で、自分の身代わりになって矢を受けた佐藤継信が、命を落とす時の狼狽(うろた)え振りは、驚くほどだ。

義経が云う。
「継信どうだ。言い残すことはないのか」
虫の息の継信が応える。
「何もございません。ただ残念なのは、義経の君が出世した姿を見ずに死ぬことです。侍というもの、敵の矢に当たって死ぬことは覚悟の上のこと。源平合戦において、奥州の佐藤三郎兵衛継信という取るに足らぬ弓取りが、讃岐の八島の磯にて、君の身代わりとして、死ぬことは、家の誉れであります。末代までの語りぐさとなりましょう。面目を施して、冥土の旅に旅立てます」

ほどなく継信は落命する。
すると、義経は、人目もはばからず、鎧の袖を顔に押し当てて、大泣きに泣きながら、「誰か、この近くの尊き僧をお連れしろ」と、僧侶をお呼びになった。

僧侶が来ると、義経は、
「負傷した継信という者がたった今亡くなりました。どうか墓を造って手厚く弔ってください」と云って、自分が乗っていた太夫黒という名馬を僧に献じたのである。

この太夫黒という馬は、後白河法皇から戴いた一国にも値するという程の名馬で、一の谷の合戦の折りには、あの鵯越の逆落しの場面でも義経を乗せて軍功をもたらした愛馬である。この名馬を、義経という男は、一人の股肱の臣下の死に至っては、惜しみなく僧侶に与えてしまう。それを見ていた郎等たちも、何と心の深い大将だろう。このお方の為ならば、たとえ戦場で命を落としても本望だと思ったというのである。

涙もろい、という面は義経という武者の人気の源泉であり真骨頂なのかもしれない。
 

4.男気(侠気)
高野山の金剛峰寺(こんごうぶじ)に、義経自筆の書状が遺っている。この寺は、云わずと知れた空海が建立した真言宗の総本山である。

その書状は、義経が寺に送った高野山からの訴えに対する回答書(請文:うけぶみ:)である。高野山側の訴えの主旨は、「高野山の古い所有地に阿弖河庄(あてがわのしょう)という山間地が、寂楽寺という寺に横領されているので、何とかしていただきたい」というものだ。要するに領地の所有権を廻る争いである。

これに対して、義経は請文で、極めて簡潔明瞭な文章で、このように回答している。
「高野山阿弖河庄の件につき、子細承知いたしました。古き証文を拝見し、主張の件はもはや明白かと思います。早急にその件につき、便宜を計るべく、(鎌倉にも)申し入れるようにいたいましょう。(高野山)神社仏寺のことは、実に不便(ふびん:かわいそうに)に思います。恐惶謹言 5月2日」(佐藤訳)

義経はすぐに鎌倉の兄頼朝の元に、この件を知らせ、沙汰を待つ。
すると頼朝からは元暦元年(1184)7月2日に、
「ただちに寂楽寺の狼藉を止めさせて、所有権のある金剛峰寺領として認める」という旨の命令(下文)が下った。

この頃の義経はまさに、頼朝の京都の代官としての職を忠実に全うしていた。おそらく一ノ谷合戦の大勝利の後、京の都にさっそうと凱旋した義経は、様々な階層の人々から羨望の眼で見られていたはずだ。鎌倉の兄頼朝からも、信任を得て、絶大な権力を持っていたことになる。このエピソードは、歴史的な勝利を収めた武将義経に、高野山が旧寺領に関するトラブルを訴え出て、横領されていた土地を取り戻した、という事実には留まらない。この時期、少なくても、頼朝と義経の関係が、この元暦元年7月までは、すこぶる良好だったということを意味し、同時に義経という武将が、頼まれたら嫌と言わない男気(侠気)ある性格を有していたという証明にもなると思われる。

その理由として、特に私は、請文の最後にある「不便」という言葉を使用している事実に注目したい。不便は「不憫」とも表記するが、極めて相手を感情的に思いやる時に使用する言葉であり、公的な文書に、このような表現をするのは、義経が非常に情緒的な性格の持ち主であったことを示すものであろう。

つづく



2003.8.11
2003.8.12 Hsato

HOME