秋 吉 敏 子 論

-秋吉敏子と花伝書-


秋吉敏子さんがNHKの人間講座で、自らの生涯を熱っぽく語っていて、思わず聞き入ってしまった。彼女は、世界的ジャズピアニストにして、作曲家、編曲者でもある。
 

秋吉は、1929年(昭和4年)、四人姉妹の末っ子として、旧満州で生まれた。彼女は小学一年の時に聞いたモーツアルトの「トルコ行進曲」に魅せられてピアノをはじめた。16才の時、終戦を迎えた一家は、全財産を失って両親の実家のある大分に引き上げる。ふとしたことから別府のダンスホールの「ピアニスト求む」の貼り紙を見て応募し、ジャズと出会う。そこで「君には才能がある」と言われる。テディ・ウィルソンのレコードに感銘を受け、「私もあのように弾きたい」と強く思って上京をする。やがてアメリカに渡り、ボストンにある名門バークレー音楽院を奨学金で卒業する。この間、今では伝説となったバド・パウエルなど、著名なジャズマンとの出会を重ね、独自の音楽世界を築くまでになった。

彼女によれば、「JAZZ」はかつて「JASS」と呼ばれていたらしい。「JASS」とは、「SEX」を意味し、一種の差別語であった。今では「JAZZ」と言えば、「20世紀のアメリカに誕生したリズムを重視した即興性の強い現代音楽」という位置づけをされているが、かつてのジャズは、黒人の音楽、又は「RACE」(人種=有色人種)の音楽と見なされていた時期もあった。

しかしわずか、70年から80年の間に、「JASS」は「JAZZ」と表記されるようになり、20世紀を代表する偉大な音楽芸術と言われるまでになった。文化とは、不思議なもので、源流を辿れば、裕福な連中が、有り余る富みに任せて創造するというよりは、むしろかつては河原乞食と言われた初期の歌舞伎のように、差別を受けたり、あるいは貧しさ故に、芸によって、わずかな食い扶持を稼ぐというような下層の民衆によって、何となく始められるものが多い。

ジャズの場合も、同じだった。人々は、ジャズの創成期のプレイヤーたちの音楽の熱っぽい音に魅せられ、その音楽が、たちまち熱病のように、アメリカ全土に広まり、やがて世界中が、その魂から絞り出すようなリズムとメロディに魅了されるようになったのである。

秋吉にとって、悩みはすぐにやってきた。日本の女性がジャズを演奏するという珍しさもあって、引っ張りだことなった秋吉だったが、「いったい自分とはなにか?」ということに悩むようになった。先人の黒人たちのフレーズを弾きこなし、同じような即興演奏を出来ても、そのことにどれほどの意味があるのか。秋吉が自己のアイデンティティに目覚めた瞬間だった。彼女は、デューク・エリントンの音楽に深く触れた時、はっと気が付いた。それはデュークの創造する音楽の背後には、つい最近まで、アメリカの奴隷として扱われた黒人たちの歴史や精神に根ざしたテーマが眠っているということだった。

秋吉は、日本人である自分しか紡ぎ出せない音楽としてのジャズを目指すようになった。ジャズは、今や単なるアメリカの黒人たちの音楽という狭い領域を飛び出し、黒人であれ、白人であれ、あるいはアメリカやヨーロッパという垣根を越えた音楽に成りつつあった。そんな中で、先人たちのピアノテクニックを本場で肌身でマスターした秋吉は、自分しか創れないタッチ、音楽というものを思考するようになったのである。

その時、彼女に大きな影響を与えたのは、あの世阿弥の花伝書(風姿花伝)だった
 


花伝書は、周知のように能楽の完成者世阿弥(1363頃-1443頃)の書いた奥書(おくがき)である。しかしこの書物は、明治(1909年)になって歴史学者の吉田東悟博士(1865-1918)が、安田財閥の安田善治郎氏(1838-1921)の能楽関係の古文書コレクションの中から発見し世に発表したものだ。したがってそれまでは、千利休や芭蕉と言えども「花伝書」なる書が、現存することを知らなかった。

もしも芭蕉がこの書を読んでいたとしたら、あの有名な「笈の小文」(1687年)の文章(「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つなり。」)には、「世阿弥の能楽における」の一節が、間違いなく付け加えられていたに違いない。花伝書は、それだけの畏るべき本である。

一言で云えば、花伝書は、「花を伝えるための書き置き」である。もっと分かり易く言えば、忍術の巻物(トラの巻き)のようなものである。忍術では、巻物を口にくわえ、手を結んで、呪文を唱えると、ドロンと消えたりする。そんな術が綴ってあると思えばよい。

但し、花伝書の言葉を読んで、字面で理解したつもりになっても、その奥に秘められた精神に触れることは容易なことではない。花伝書の云う「花」とは、芸術の根本にある観る者の感動を呼び起こす種のようなものである。世阿弥は、能という芸の奥にこの花を観ている。その花を咲かす方法が能の所謂「道」である。花伝書は、民衆に読ませるために書かれたものではない。それは能楽に携わるものが、その芸の奥義を究め、その奥義を次の世代に伝えて行くために書かれたものである。

おそらく、世阿弥は、この書を一般の人が読んだとて、難しすぎて分からないと思ったに違いない。能楽というものは、世阿弥の生きた室町の代から、これまで600年の間、口伝によって、師から弟子、また師から弟子へと、連綿として伝えられてきたものである。その他の日本固有の古典芸能や茶道、華道、香道などのお稽古事も、概ね同じようにして今日に至っているのだ。歌人西行には、「花伝書」ならぬ所謂「歌伝書」はない。ただ、人に尋ねられた時、「心を込めて詠みなさい。古今集の雑の歌を参考にしなさい」と言ったそうである。利休にも「茶伝書」に当たるものはない。言葉で書いたとて、やはり口伝でしか、その茶の心は伝えられるものではないと思っていたはずだ。その意味で、世阿弥の花伝書は、日本の伝統文化の精髄を伝える書として計り知れない価値を持つものと言える。

秋吉は、この書に友人の家で出会った。それは運命的な出会いだった。秋吉は、「『花伝書』を詠んで、何か頭の中の固まりのようなものがすーっと落っこちるような気がして、この後、日本の本に注目しました」と語っている。秋吉は、この時、世阿弥という偉大な古人からメッセージを感じ取ったに違いない。そのメッセージとは、このようなものであろう。

「花を失わない方法は、正しいやり方をしながら怠らず励むしかない。花を悟れ。自らのジャズという道を究めよ。花とは一時の花ではなく、決して散らぬ花のことである。これを真実の花というが、それを悟ったならば、そなたは無敵な花となる。珍しきあなただけの花を咲かせよ。ジャズの世界において・・・」
 


花伝書に続き、秋吉は、宮本武蔵の晩年の著書「五輪書」に触れた。

武蔵は五輪書の冒頭で次のように語っている。

「およそ兵法というものは、武家の第一の規範である。人の上に立つ者は、とりわけこの兵法というものを実践し、部下となるものもこの道をしらなければならない。しかし今の世に、兵法の道というものを、しっかりとわきまえている武士はいない。道とはなにか。仏法を学べば人を助ける道を知る。儒道を知れば間違った礼文を書くことはない。医者として様々な病を治す道もある。あるいは歌道という和歌の道があり、茶道、弓道、その他諸々の道がある。道を究めるものは、思い思いに稽古に励み、その心にやっと根を下ろすものである。ところが、兵法の道がその心に根を下ろしている者は極めて少ない。・・・」(現代語訳佐藤)

おそらく秋吉は、五輪書の奥に潜む武蔵の魂の叫びに強いシンパシーを感じたはずだ。
同時に、彼女は、世阿弥に続く武蔵のメッセージに自己の歩むべき道を悟ったのである。悟りとは、大げさではないか、と思う人がいるだろう。そもそも悟りとは、人が思うほど、たいそうなものではない。人は誰でも、悟りに近い感覚を得ているが、それを悟りと思わずに忘れてしまうところに人生の難しさがある。その意味で悟りは、悟りを悟りと感じうる人のみ受ける感覚と言って良い。悟りとは、理性ではなく、感覚的に情念でふっと感じるものである。得体の知れない感覚だが、妙なリアリティがある。こうして五輪書は、彼女に運命的な示唆を与えたのである。

宮本武蔵という人物は、日本中を駆けめぐりながら、剣の道の奥にあるものを探しながら、武者修行を続けた。その果てに辿り着いた境地が「五輪書」にはある。16才で、ジャズを知り、26才でジャズの本場アメリカに武者修行に出かけた秋吉に、武蔵の兵法という道を一筋に追求する姿勢が創作活動に決定的な影響を及ぼしたように思える。

そして、1973年、秋吉は「孤軍」なるセンセーショナルなアルバムを発表したのであった。
 


ふり返ってみれば、1965年から1970年前半の時期、秋吉は人生の大きな岐路に差し掛かっていた。すなわち日本女性として単なる異色のジャズピアノ奏者として一生を終わるのか、それとも新しい音楽を創造する芸術家になるかという大きな分かれ道だ。彼女は迷いながらも後者の道を選ぶ。

彼女は、研鑽の過程で、デューク・エリントンという達人の域に達した人物の創造した音楽に出会い、それが自分のルーツであるアメリカの黒人の精神というものに常に深く根ざしていることを知り、自らの音楽もまた日本文化の伝統や精神を背景にしたものでなければならないことを悟る。彼女は、先人デュークがしたように、自己のルーツである日本文化に連なる音楽を模索しはじめる。

そのような中で、世阿弥の花伝書や武蔵の五輪書に出会ったことは、音楽の神の啓示のような出来事だった。1965年に離婚を経験した秋吉は、1969年、人生の伴侶としてだけではなく、音楽においては戦友の如き、ひとりの有能なサックス奏者のルー・タバキンと出会い結婚をする。そして誕生したのは、秋吉敏子・ルー・タバキン楽団というビッグバンドであった。

そして1974年、満を持して発表した作品が「孤軍」なのである。この作品は、1974年3月に、フィルピンのルバング島のジャングルの中から奇跡的に生還した日本兵小野田寛郎陸軍少尉の事件に衝撃を受けた秋吉が、まさに孤独な戦(いくさ)を続けた日本人小野田寛郎の精神性の何たるかを哲学しながら作曲したような作品である。

考えて見れば、小野田少尉は、日米が終戦を迎えた昭和20年(1945年8月)からまさに足かけ24年間、フィリピンの奥地で、孤独の戦争を続けていたのである。羽田のタラップに降り立った小野田少尉を見た日本人の眼は、一様に目が点になった。そこには日本兵というよりも、タイムマシンに乗ってサムライがやってきたような光景があった。

軍から支給されたものは、みな現人神(あらひとがみ)である天皇から与えられたものである。少尉は、古びた帽子からシャツに至るまで、それこそ大切に大切に扱っていたと見えて、すべてが古ぼけていたが、少しも汚くは見えなかった。むしろ彼の起居振る舞いの中に戦後の日本人が失ってしまった得体の知れない美しさがあった。私は深く被った帽子の奥から、しっかりと前を見据えて敬礼をする姿に、日本人の根底にある武士道と戦争のもたらす悲劇というものの深さを同時に観る思いがした。

おそらく戦争がなければ、小野田寛郎という人物には、全く別の世界が開けていたはずだ。ところがもうすでに彼の華やいだはずの青春は過去のものとなり、玉手箱を開けてしまった浦島太郎のようにすっかりと初老の男になってしまっていたのだ。それでも、祖国日本を思いながら孤独なゲリラ戦を続けていたその姿は、どこか関ヶ原の合戦を経験しながら、その後の時代の変化によって、天下太平の徳川時代には、どうしても馴染めずに、ひとりサムライの道を貫いた宮本武蔵の姿と重なるものがあった。

またそれは、アメリカという国にいて、たった独り孤独な音楽活動をする秋吉自身の精神にも通じる何かがあったのだろう。そこで秋吉は躊躇なく、日本の旋律や楽器を用いた「孤軍」を作曲するのである。

秋吉は、そのレコードに次のようなメッセージを寄せている。

「私は此処に数年間ジャズは私にとって何か、私はジャズにとって何か、を考えるようになって居た。特にアメリカにいる為に、この問題はいやおうなしに私の頭から離れず、黒人革命運動が活発になり、ジャズがその中で重要な役割を果たすようになってからは尚更であった。アメリカというところは異国人であることを知らせる事の上手いところで、この異国の文化であるジャズを演奏している私は、こっけいで悲しい存在に私にはみえた。ここで私は、ジャズはわたしにとって何かを、悲しい位の気持ちで考えざるを得ないのであった。
私は戦後の非常識の中にある社会で、ちょっとした事から音楽産業に入り、ジャズにひかれた。16才だった私は、その後、ジャズに没頭したまま、ジャズの中で人間成長を遂げた。それ故に、ジャズは私のものであり、私の存在そのものである。

私はここでデューク・エリントンと彼の音楽を考えざるを得ない。彼の音楽は、私には彼自身の歴史、しかもアメリカ黒人としての歴史をい感じる。そこに私は彼の真の偉大さを感じる。私の日本人としての歴史が、私の音楽を聞く人によって感じ取られるならば、そのときこそ、私につきまとって離れない問題が氷解するのではないだろうか。

これが私のバンド発足の理由である。タバキンという良き理解者を得て、その上にバンド・メンバー全員の努力を得られる私は、大変に恵まれていると思っている、そんな訳で私の音楽はインスタント・ヒットを意図したものではないが、何年後までも、聴く人に何らかの感銘を与えられれば幸甚と思う。後略」(「孤軍」ライナーノーツより)

この時点で、秋吉敏子は、自己が歩むべき道をはっきりと自覚したことになる。ジャズというアメリカ生まれの音楽の道をひたすら歩いてきた秋吉は、こうしてそのジャズの中に自己のルーツである日本的美意識を盛ることを意識した時、世界で秋吉敏子しか創れない創造性豊かなジャズミュージックを次々と発表してゆくことになったのである。
 
 


「孤軍」は、時間にして7分弱の曲とすれば短い作品である。しかし中身は濃密な秋吉独特の音楽世界が形成されている。始め能のかけ声がし、鼓が打たれる。まるで能の舞台の幕開けである。そこにルー・タバキンのフルートが尺八のように流れる。次に主題のブラスアンサンブルが重なる。荘厳で様式的な雰囲気の旋律である。一瞬、リズムが変化し、フルートのアドリブが数小節ある。そして再び主題の音が流れる。全体を通して感じられるのは、能を音楽にしたような様式的な作品である。この作品の中では、おそらく時代というものを主題を奏でるブラスアンサンブルが象徴し、フルートは、孤軍奮闘する人物(小野田少尉)を象徴しているのだろう。二度三度と奏でられるフルートのソロが実に悲しく心に響いてくる。

この主題の旋律は、非常にシンプルで墨絵のような美しさがある。だが、同時に何とも怖い魔が潜んでいる気がする。それは個人というものがどうしても越えられない時代というものを象徴しているようにも感じられる。フルートは、「孤軍奮闘」する人物の限界と切なさを奏でているようだ。素晴らしいアドリブだが、それが返って悲しい音に聞こえてくる。

私はこの音楽を聴いて、即座に黒沢明の最晩年の映画「夢」(1990)の中の冒頭の「狐の嫁入り」の音楽(池辺晋一郎?)を連想してしまった。この「夢」という映画は、黒沢の数々の「夢」をシナリオにして重ねたオムニバス形式のファンタジック(幻想的)な作品である。

この映画は、明らかに黒沢という個人の無意識の表象であったが、同時にそれは同世代の日本人の無意識世界を反映した作品であった。あの映画の中で、夢の中で迷った少年のボク(黒沢自身)は、母に「見ては駄目よ」と言われた「狐の嫁入り」を見てしまう。その時の曲の雰囲気が良く似ているのである。「狐の嫁入り」は、非常に様式的で、堅苦しい時代の制約のような封建社会を音楽的に象徴していた。

黒沢は、少年時代に感じた時代による圧迫を感じながら、日本というものを見詰めてきた。この黒沢の無意識は、払拭されなければならない時代的な規制であった。戦争という重苦しい雰囲気の中で、創作活動をしなければならなかった黒沢には、戦争時代には、自分の本心とは違う大政翼賛的な戦争讃美の映画を撮った苦い経験もある。人は時代という制約の中で生きる悲しい存在である。

小野田少尉は、ある意味で、時代の犠牲者であった。別の時代であれば、全く別の特異な才能を発揮していたであろう。しかし彼は、自ら進んで陸軍に仕官し、天皇の軍隊の将校となり、激戦のフィリピン戦線に赴き、終戦の可能性があることもうっすらと知りながらも、孤独の闘いを続けざるを得なかった悲劇の人物である。小野田少尉の孤独な戦いのなかに個人と国家社会の越えられない壁のようなものがあるように思えてならない。

きっと秋吉は、ルバング島から帰国した際の小野田少尉の余りにも時代錯誤なサムライのごとき起居振る舞いを見た時、時代(あるいは国家)というものが個人にもたらす不条理を強く感じたのであろう。それは時代というものが個人にもたらす悲劇の光景であった。でも今となってはどうしようもないものである。そのどうしようもない時代の制約(あるいは強制力)という得体の知れないものを音楽という形式で写し取ろうとした時、「孤軍」の悲しくも美しい主題のメロディは誕生したのである。

この「孤軍」のブラスアンサンブルには、ある意味で亡霊に巡り合ってしまったような怖さを感じさせるものがある。秋吉の中では、それが日本の全体主義というものかもしれない。秋吉の家族自身、中国に渡り、生死を分ける緊張の中で中国から引き揚げてきたのである。当然ながら、秋吉は、どうしようもない時代の制約というものを、この主題に込められているような気がする。もちろん、それが彼女の無意識かどうかは不明であるが・・・。

この「孤軍」の影響を、私はキース・ジャレットの「残氓(ざんぼう) (原題「The Survivors' Suite」)」(1976)という作品に強く感じる。「The Survivors' Suite」を直訳すれば、「生き残った者の組」となる。おそらく、若いキースの感性を、この「孤軍」が揺さぶったことは想像に難くない。キースは、秋吉の「孤軍」を通して、生と死を乗り越えて、生き残った日本兵小野田寛郎の存在を知ったに違いない。それほどの衝撃を、ジャズの世界に、秋吉はこの一作によって、与えたのである。この頃のキースは、圧倒的なソロ・コンサートで注目を集める一方で、アメリカン・カルテットと呼ばれるバンドを率いて、非常にスピリチュアルで創造的な演奏を志向したいたが、その背景には、秋吉の和楽器を取り入れた空間的な旋律というものに影響を受けていたと思われる。
 
 


このビッグバンドのデビュー作「孤軍」によって、秋吉敏子は、自己の内にある日本人としてのアイデンティティというものを感得し、日本の文化と歴史というものを強く意識するようになった。分かり易く言えば、秋吉は、日本人としての自分に目覚めたのである。

ブッダは、「私の説く教えというものは、彼岸に辿り着くための筏(いかだ)に過ぎない」と語ったことがある。筏は川を渡るための方便であって、向こう岸に渡った人にとっては、邪魔になるだけのものでしかない。誤解を恐れずに云えば、ジャズは、秋吉が自分を発見するための筏(方便)に過ぎなかったかもしれない・・・。人は長い人生という道を歩きながら、本当の自分というものに辿り着く。(もちろん辿り着かずに中座する人生というものもあるが。)

遠く日本において、世阿弥は、父観阿弥から能の道を受け継ぎ、一心に打ち込んだ結果、その道の達人と称されるようになった。明治期に発見された花伝書が、その後、瞬く間に、能を学ぶための口伝書(虎の巻)という次元を遙かに越えて、日本人に深く愛されるようになった理由は、たったひとつ、人がいかに生きるべきかと思案にくれた時に、ヒントとなりえる深くて啓示的な言葉を多く含んでいる書だからに他ならない。

武蔵の五輪書も同じだった。武蔵という剣の道一筋に歩いた男が、60才になってただ己の心のままに綴った剣の極意に過ぎない。武蔵は、その書の冒頭で、はっきりと、「仏教や儒教の用語も兵法用語も借りることはせず、ただ自分の心の奥から発する言葉で書く」と明言している。

この精神があってこそ、人は武蔵の生涯に強い個性(パーソナリティ)や独創性(オリジナリティ)というものを感じるのである。人と違う何かがなければ、アメリカという社会で、一家言を持つ、芸術家として認められるはずはない。

誰も創れない、秋吉敏子しか創れない音楽、それは秋吉が、日本人としての自分を強く意識した時、彼女の内部から自然に音楽がわき出てきたのである。清冽な泉が己の心の奥にあるのを知った時、秋吉は、感じるままに日本の歴史と社会に深く関わって行きながら、作品を発表していった。

小野田少尉の事件に触発された「孤軍」(1974)の後に、秋吉は、「ロング・イエロー・ロード」(1975)というアルバムを発表する。秋吉の創造性は絶頂にあった。まるで汲めども尽きせぬ泉を掘り当てたような状況だった。このタイトル曲は、秋吉のビッグバンドのテーマ曲のようになっている佳曲だが、中国で生まれた秋吉の自伝的な曲である。中国のどこまでも続く「長い黄色の道」を回想しながら、黄色人として生まれた自分の人種的なルーツを吐露した作品である。またこのアルバムには、福島県相馬地方の民謡「かんちょろりん節」をそのままイントロに使用した「チルドレン・イン・ザ・テンプル・グラウンド」(寺の庭にいる子)なども収められている。
 


1976年に、秋吉は、「インセンツ」というアルバムを発表した。この中には、水俣病の事件に触発されて、秋吉が作曲した「ミナマタ」が収められている。21分に及ぶ大作である。当時、日本中に公害問題が噴出していたが、中でも水俣病の被害は酷かった。海へのチッソの垂れ流しによって、魚が汚染され、それを食していた水俣の人々に水俣病が蔓延し、怖ろしい事件に発展していった。その凄まじい過程が、音楽を通して聴く者の心に迫ってくる。曲は「平和な村」だった水俣を象徴するように、秋吉の幼い娘が、わらべ歌のように、「村あり、その名を水俣という」と歌って始まる。平和な村は、長閑で牧歌的な音で構成されている。それが激しい音楽と変わり、最後には「村あり、その名を水俣という」という冒頭のわらべ歌が能の謡いに変化して終わる。こうして秋吉は、現代の日本の歴史に関わることで、世界的な作曲家としての評価を確実なものとしてゆくのである。

「イノセンツ」は、ジャズ史の中でもエポックとなる傑作である。水俣病という悲劇に見舞われた都市の状況を音楽として成立させるということは容易なことではなかったはずだ。秋吉は全身全霊をもってこの作品と取り組んだ。その作業は、まさに日本文化との共同作業(コラボレーション)となった。というのは、この「ミナマタ」には、能楽観世流の伝承者故観世寿夫氏(1925-1978)が参加していたのである。秋吉は、新作「ミナマタ」のコンセプトを観世に語り、結局、謡曲の「隅田川」の謡いの部分が抜粋されそのまま使用されている。

謡曲「隅田川」は、周知のように、我が子を尋ね歩いて狂ってしまった女性(シテ)が、隅田川の渡し場で、我が子の丁度一周忌に、その墓となった所で、事実を知らされるという悲劇である。

そして母は我が子の墓の前でこのように嘆くのだ。

「きっと逢えると思って、見知らぬ関東に下って参りましたのに、このように我が子が亡くなったことを知らされ、その墓の前にいることになるとは何ということでしょう。無惨にも死に別れの縁の母子として生まれ合い、我が子は遠き関東の地で亡くなり、このように道のほとりの土となってしまうとは・・・。春の草が生い茂り、あの子はきっとこの下にいるのでしょう。そうであれば、どうぞ皆さま、この土を掘り返して、もう一度、我が子の元気な姿をこの母にみせてはいただけませんでしょうか。ひとり生きがいもなく取り残され、自分が「帚木(ははきぎ)」のように生きてるのか死んでいるのかさえ、分からなくなってしまいました。定めなき世であるとはいえ、人の世は、憂いの花盛りとなり、やがてその花にも無常の嵐が来て、吹き散らされてしまうのでしょうか。既に長き夜がやって来て月は昇り、落ちつかぬ雲が月を覆ってしまいました。それにしても何と悲しい人の世でしょう。それにしても何と悲しい人の世でしょう。」(現代語訳佐藤)
水俣病に冒された我が子を抱く母のイメージが浮かんで来るようだ。

水俣の悲劇を音にするに当たって、秋吉は次のような決意があったことをライナーノーツで述べている。

「(前略)音楽家である前に、社会の中の人間の一人である私は、私たちの存在している社会状態に無関心ではいられない。(中略)個人の意志とは関わりなく、巨大な歯車の動きの為に、個々がそのあずかりしらぬ被害をこうむるような出来事には、胸がとても痛む。三年近い前にグアム島で見つかった人間の一番大切な時期を30年も失った小野田氏に対しても、同じ意味で胸が痛んだ。
私たち音楽家が無力で、社会機構を変える事は出来ない。と同時に、日本のみならず世界に存在している、公害病をもたらすような社会状態を無視することはできない。日本から離れて私は、数年前始めて水俣市周辺に起こった大悲惨事を知ったが、これを忘れてはならぬ、という感を・・・払う事が出来なかった。

私という無力な一音楽家に出来ることは、その事を記録して残す事である。長い間かかって、私の温床から出来上がった音楽、「ミナマタ」は、ジャズ音楽家であるが故に、ジャズ音楽語を通じて綴った社会記録である。この作品は、私個人にとって、技術的な理由で、一つの壁に穴をあけた意味があるが、聴いて下さる方達にとっては、あくまでも、心から入って行く音楽になっていれば、私の目的は十二分に達したことになる」


秋吉にとってこのアルバムは、「孤軍」で志した姿勢を更に極限まで進めて製作された作品である。しかも「花伝書」を伝える現代最高の人物「観世寿夫」をこのアルバムのまさに「シテ」として参加させた力量は、彼女の並々ならぬ信念と創作的決意が観世の心に働きかけてはじめて実現したものであった。残念ながら、将来を大いに嘱望された観世寿夫は、このアルバムの完成から2年後、53才の若さで他界した。彼は、花伝書の研究者としても知られ、その枕辺には「心から心に伝ふる花」という名著が残されていた。まさに世阿弥の残した文化的伝統とその精神は、伝承者「観世寿夫」という人物を通じて、秋吉敏子に伝えられたのであった。
 
 

つづく

2004.7.16 Hsato

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