歌人島田修二氏を讃ふ

人にとってライフワークというもの

佐藤弘弥
1 若き日のきのこ雲の記憶

昨日(2004年9月15日)、敬愛する歌人島田修二氏(86年より朝日歌壇選者)が亡くなった。1928年神奈川県横須賀市に生まれた島田氏は、図らずも戦争の時代の生まれ合い、海軍兵学校(広島県江田島)入学した。1945年(昭和20年)8月9日、17歳の時、怖ろしい光景を目の当たりにした。広島に投下された原爆のキノコ雲だった。この時の凄まじい体験が、歌人島田修二氏の感性の原点にはある。

後にこんな歌を島田氏は詠んでいる。

 すきとほる記憶の地平かの夏を黒く灼きたる茸雲立つ(「渚の日々」所収)

これは、「渚の日々」という歌集に収められた歌であるが、夏の空を眺める時、条件反射のようにして、広島に原爆が投下された瞬間を思い出してしまうのだろう。

17歳の少年にとって、原爆がもたらしたものは、間違いなく人間への不信であった。

 ガス室をアウシュビッツに作りしも人間ならばあきらめ眠る(「冬音」所収)

17歳の時、この世に地獄が存在することを視てしまった人間が、どのような体験を経れば、癒されるというのだろうか。人間は理性と倫理観を持ち、隣人を慈しむという思考は、理想に過ぎない。戦争という重たい歴史を覗いた島田少年にとって、戦後とは、もう一度、人間が信頼にたる存在であるという感覚を獲得するための言うならばモラトリアムであった。彼は大学に入学し、新聞記者となる。その一方、歌人宮柊二(みやしゅうじ)に師事して、歌の道を志すことになった。

島田氏は、日本をそれこそコテンパンに打ちのめしたアメリカに行ってこんな歌を詠んだこともある。

 山また谷ながく続けるこの国と戦いしなり破れたるなり(「渚の日々」)

これは強い実感であろう。とにかく広くて果てしないアメリカ大陸を空から見ながら、「こんな国と日本は戦争をしてしまったのだ」という思いがひしひしと伝わって来るような歌だ。

アメリカ文化に関し、時には、こんな歌も詠んでいる。

 ただ一度生まれ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテ我も悲しき(「花火の星」)

ハリー・ベラフォンテ(1927?)は、カリプソの王様と呼ばれたカリブ諸島出身のアメリカの歌手だ。「バナナ・ボート」の大ヒットで有名だが、当時の日本の若者からすれば、ベラフォンテは、立派なアメリカ人でアメリカ文化そのものであった。純粋なアメリカ人からすれば、ベラフォンテも異国出身の黒人歌手の一人であったに違いない。ちなみにベラフォンテは、島田氏の一年年長。つまり同世代である。

そのアメリカの人気歌手が、日本にコンサートに来て、「サクラサクラ」と歌ったのである。ベラフォンテは何の気なしに、日本人に愛嬌を振りまくつもりで、日本の歌を覚えて歌ったのであろうが、敏感な島田氏にとっては、それが何故か悲しかった。この感覚はよく分かる。小馬鹿にされたような感覚が島田氏のなかにあったかもしれない。ベラフォンテも、当時の日本の流行歌か何かを見つけて歌えば良いものを、よりによって、日本人の琴線に触れる「サクラ」を歌ってしまった。単調で寂しいメロディである。ベラフォンテの美声が、余計に日本人を悲しくさせるのである。

この歌は、島田修二氏の歌の中でも傑作であろうと考える。それは敗戦後の日本人の微妙な精神をよく著していると思うからである。
 

2 島田修二の奥州での歌

島田修二氏に「草木國土」(第七歌集1995年11月 花神社刊)という美しい歌集がある。この中に「陸奥妙」という連作があり、平泉にての作品が綴られている。

平泉を詠む時、何故か、島田氏は、鎌倉に立ち寄って陸奥に向かった西行法師を意識してこのような歌から始められた。

 鎌倉を立ち去りける西行の見えずなりたる時の間を行く(「草木國土」)

文治2年(1186)8月15日、老西行は、焼失した東大寺の再建のため金を調達すべく奥州に向かう途中、鎌倉の鶴岡八幡宮付近を歩いていた所を、梶原景季(義経に讒言をした景時の息子)に呼び止められ、頼朝と対面することになった。この時、西行は、鎌倉の動静を、同族である藤原秀衡に知らせようとしていた可能性がある。というのは三十前後の若い頃、出家したばかりの西行は、奥州に下り、同族で御曹司だった三代目藤原秀衡と様々なことを語り合った旧知の仲だったと推測されるからである。

西行は、奥州に向かって敵意をむき出しにしている鎌倉の源頼朝の野心を確かめ、双方が平穏に納まる道を求めていたはずだ。表向きは東大寺再建の勧進だが、真意は旧知の間柄で、同族である奥州藤原秀衡の治める平泉の危機に対しての進言である。

吾妻鏡では、朝方まで、頼朝が熱心に弓馬の事をや歌の道について質問をしたと伝えられる。西行にとって、これはある種の頼朝という権力者の品定めであった。つまり西行は、関東の頭領としての頼朝の器量を計り、鎌倉と奥州の和平の道を模索できるかと考えていたのである。ところが頼朝は、シッポを出さない。西行に弓や馬の事や作歌の方法などを質問ばかりして、心を明かさない。おそらく、西行は、頼朝にも、砂金を調達することを頼んだはずだ。すると「関東には、余った金は一切ない。奥州に頼まれよ」とけんもほろろに答えた。西行は、これは駄目だ。頼朝は柔軟性の欠けた頭の固い男と踏んだ。翌朝、金ではなく、小さな銀の猫を頼朝は、西行に贈った。この意味は、「西行よ。秀衡という猫に鈴をつけて、この頼朝に降伏せよ、と告げよ」という謎かけだったに違いない。西行は、道ばたで遊ぶ子供に、この銀の猫を呉れてやった。ずばり、頼朝の腹黒い申し出を拒否したのである。西行が鎌倉を立ち去る思いというものは、そういうものである。

歌人として島田氏は、この西行の思いをどこまで把握していたか、軽々に推測はできないが、こうして奥州平泉に降り立ったのである。

 春遅き平泉町墨染にひかり曳きゆく僧に従き行く

遅い春というから、おそらく五月の頃であろうか。桜の歌はないから、当然散っていたはずだ。そうなると丁度、松尾芭蕉が、奥の細道の旅で、平泉に行った頃になるかもしれない。薄い墨染めの僧衣を羽織った僧に案内をされ、平泉を廻ったのであろう。朝の光が逆光となって、墨染めの僧衣を際立たせている。「ひかり曳きゆく」で、光堂と言われる金色堂への期待感が言外ににじみ出ていて、イメージ豊かな歌である。

 毛越寺ひろき池の面(も)めぐりつつ先立てる人をまぼろしに見つ

毛越寺の浄土庭園大泉が池を作者は廻ったのであろう。案内は、寺の僧が務めていたはずだ。東から昇った日が、先立てる人の影をまぼろしのように見せている。この世ならぬ浄土の世界を案内されているような不思議な感覚に囚われている作者の実感の歌と言ってよい。

 死とともに終わるわが歌きさらぎのもちづき過ぎて暫し逸楽(いつらく)

この歌は、西行の「願わくば花の頃にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」をもじった歌だ。作者は「西行という稀代の歌詠みのようにはいかないよ」と謙遜の念を込めて、あんなかっこよい歌は歌えないけれども。西行のように後の世に残る歌は作れないけれども。如月も望月の頃も過ぎてしまったけれども。こうして奥州の西行ゆかりの地を尋ねていると本当に楽しい気分に浸ることができると和んでいるのである。

 古今集巻之十六読みゐたる眼あぐればたばしねの山

おそらく、車で移動したのであろう。場所は、柳の御所を越えて旧高館橋の辺りかもしれない。
運転手が「島田先生、ほら、おっしゃっていた束稲山が正面に見えますよ。」と告げて、手にしていた岩波文庫の「古今集」を思わず、離して見れば、フロントガラスの向こうに、束稲山が見えていたのであろう。すぐに、作者は、「これは歌になる」と踏んで、古今集の巻之十六のページにしおりを挟んだのであろう。
 

古今集巻之十六は「哀傷歌」である。哀傷歌は、人の死を悼み詠われた歌のことである。この章には、切なく悲しく美しい歌が澄み切った冬の空に浮かぶ星々のようにして並んでいる。

その中にこんな歌がある。

 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 

この歌は、藤原の基経という公家が亡くなった時に、上野峯雄(かむつけのみねお)が詠んだ歌である。桜は、現在の京都市伏見区深草墨染町墨染寺にあった墨染め色に咲いたと言われる伝説の桜を指している。哀傷歌の中にはこの歌以外にも「墨染め」という語句を用いた歌がいくつかあり、島田氏は、先に紹介した第二歌の「春遅き平泉町墨染にひかり曳きゆく僧に従き行く」は、これらの歌を読んだ余韻を引きずって作歌されたものと考えられる。

島田氏の心が哀傷歌の余韻に浸っているのだから、当然「陸奥妙」の章全体が、全体が哀愁を帯びた歌になるのは、自然なことだったと言える。

さて束稲山には、西行が若い頃に作った、

 聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは

という名歌がある。ところが現在では、束稲山に桜はほとんど残っていない。作者は、「これが西行が歌に詠んだ束稲山か」と感慨にふけったに違いない。でも桜というものは、人一倍、人の手を必要とする花あり、奥州が滅んだことによって、花の山もまた消滅してしまったのである。

 わが生きて在り経たる日に革命を超えたるごとく山ざくら散る

車は、束稲山を登ってゆく。後に植樹された桜が、既に散ってしまっていたのであろう。それを見た作者は、少し残酷な気分に打ちひしがれているように見える。革命という言葉は、戦後の混乱期、社会主義運動で騒然となった一時期の世相を思いだし、古都平泉の残酷な現実を少しだけ現代に近づけて歌にしようと心みた冒険的な歌だったと思われる。

 耕さず米を作らず生きよと言う代を怒りたりみほとけの相

おそらく、作者は、車を降りて、展望台にいる。そこで眼下に広がる平泉の田んぼの広がりを見ている。その頃は、早苗を植えたばかりで、薄緑の絨毯が一面に広がっているように見える。ところがある場所になるとパッチワークのように見える場所がある。減反で、休耕地になっている田んぼだ。それを島田氏は怒り、そして憂いているのだ。近くに地蔵さまが、小さな仏像があったのだろう。その穏やかなはずの御仏が怒っているように見えた。よくあることだ。御仏は、作者の心を映す心の鏡であったのだ。

 みちのくに惹かるるごとく来し旅に憶ひゐるかな遠き鎌倉

陸奥に惹かれてきた島田氏だったが、何故か日本という国の持つ矛盾の現実が、古都平泉にも押し寄せている姿を目の当たりにして少しがっかりしているようにも感じられる歌だ。西行の足跡を辿りながら、古都鎌倉から平泉まで、この間の500キロの距離をひしひしと実感しているのかもしれない。

毛越寺の浄土庭園で、和んだ歌人の心は、すぐに冷静となり、悲しい気持ちで一杯になっている。この歌人の深い深い心の傷は、容易なものでは癒せないものがあると思わざるを得ない。やはりそれは作者が、17歳の時に7万とも10万とも言われる広島市民が、一瞬にして原爆の火で灼かれていった光景を期せずして垣間見てしまったことから来ているのだろうか・・・。
 

3 2004年9月20日の最後の選歌を読む

島田修二氏の最後の選者としての仕事は、朝日歌壇9月20日のものだった。15日に亡くなられたのだから、島田氏は、活字となった号を、その目で見ることなく旅立たれたことになる。私は選ばれた歌に、近づきつつあった島田氏の死の影を見る。おそらく氏自身、自分の生が終わりに近いことを暗に察知しておられたと強く感じる。

第一席。

 来世より見渡すごとく一筋の道を歩めりひと息の後  北鬼江いより

この歌の評として、島田氏は、次のように短く記している。
「第一首は自身の生きる道を来世から照射して、その一筋を実感する。」

選ばれた歌は、登山の情景を歌にしたのだろうか。登山というものは、人の一生に似ている。上へ上へと頑張って歩いている時は、辛さばかりが募って来る。やがて少し上に登って、休憩をする。すると自分が歩いて来た道が、遙かに見える。こんなところを私は登って来たのか。そう思うと、それは来世から現世の己の辿った人生を見渡しているようにも感じられるものだ。私見では、「ひと息の後」という語句にやや難があるように感じる。それはしばし休憩した後の感慨ということだろうか。しかしそれでもこの歌を第一席として採った島田氏の心は、この歌の真に強く引き寄せらていたからだであろう。

思えば、歌人としての島田氏は、遙か高みに登って下界を眺めているような地位にある。今年の正月は宮中歌会始の選者も務められた。しかしご本人は、少しも高慢な心は持ち合わせていない。以前、選歌についてこんな風に詠まれている。

 人の歌選りゆくことの寂しさや家びとの寝る夏の夜更に (渚の日々)

「人の歌」を「選ぶこと」の「寂しさ」とはいったいどんなことなのだろう。氏にとって、選歌が「寂しい」とは、おそらく、「愚作ばかりあって寂しい」とか、「心に滲みる寂しい歌ばかりあって寂しい」という、そんな浅薄な「寂しさ」ではないはずだ。それは、自分のようなものが、偉そうに、他人様が魂を込めて詠んだ歌を、地獄の番人のようにして、採る採らないという行為(選考)を任されていること自体が、「寂しい」行為と感じていたのではなかったか。氏の歌を読みながら、思うことは、大向こうを唸らせるような「名歌」を詠もうとする気負い込んだ歌や実験的あるいは冒険的な歌も極めて少ないことだ。氏の歌風は、齢を重ねたなりの一人の生活者としての視点で、移ろいゆく「草木国土」一切をを静かに深く見て、感じたままを、気取らない言葉で歌にされている。そんな感じがする。

第二席。

 六十年前の自分を偲びつつ歌集「八月十五日」を読みつぐ  田中博

「第二首は新しく出た『八月十五日』の回想と自身の来し方を重ねた哀切である。」

歌集「八月十五日」は、短歌新聞社が「短歌現代別冊」として発行しているもので、1655人に及ぶ歌人たちの歌やエッセイがまとめられた「昭和の記録」である。その中には、原爆の寄せた歌も多く、こんな歌も掲載されている。

 原爆と工場動員の重なりしわが一六歳の夏の長き日

第二席の作者田中氏は、おそらく選者と同世代であろうか。同時代の辛い青春の日々を過ごした作者と選者の呼吸が歌集「八月十五日」を介してピタリとあい、ふたつの魂は、まるで共鳴し泣いているようにも感じられる。これもまた作歌の「悲しみ」というべきかも知れない。

第三席。

 <豆腐屋>の彼の訃報を知りし夜に彼の自筆の手紙を読みけり  郷隼人

「第三首の『彼』は『豆腐屋の四季』の著者、松下竜一氏であろう。告白的な作品であるがドラマを内蔵している。」

松下竜一氏(1937?2004)は、大分県中津市出身で「豆腐屋の四季」(1968年刊)の作で知られる社会運動家にして作家・歌人である。反原発・反公害を標榜し「環境権」をいち早く主張した人物として知られ、彼が発刊した「草の根通信」は全国の市民運動の交流の場にもなっていた。松下氏は今年の6月8日、脳出血で亡くなった。この事実を獄中で知った郷氏は、かつて松下氏から来た手紙を宝のようにして保管していたのだろう。それを改めて読み涙に咽んでいる情景が浮かんでくる。

この第三席の作者郷隼人氏は、現在アメリカ西海岸の獄舎に繋がれている人物である。いかなる理由かは知るよしもないが、何でも殺人の罪を犯し終身刑に服していると聞く。朝日歌壇では常連の歌人で、すでに「LONESOM 隼人」という歌文集を今年出版されて話題になっているが、実は、この本の後書きに「拘束と創造」という文を寄せられていて、郷氏の歌について、「郷隼人の文学は、解説や注釈を必要とするものではなく、心ある者に直接訴える、日本古来の短歌の伝統を継いでいる正道のものである。」と高い評価をされている。そして死の直前、島田氏は、郷氏の「死の歌」を採って逝かれたことになる。
 

島田氏は三つ評の前で、こんな総評を書いている。

「夏から秋へ、歌人それぞれの生き方があり、歴史を負っている。」

この短い評は、主語がなく、しかも省略があり、暗喩のようでもあり、これから歴史を担って行こうとする者への別れの言葉のようでもある。考えさせらる文言である。

本人は、無意識ながらも、ある種の死の予感のようなものを持ちながら書いたものかもしれない。だからこそ、この短い文章の行間に込められた島田修二氏の思いというものはきちんと受け継がれて行かなければならない。

通常の解釈では、「季節が夏から秋に変わろうというところです。皆さまの様々な投稿歌を拝読しながら、人それぞれ生き方があり、それぞれが歴史を背負っているという自覚をもって励んでください。」と解すべきであろう。

さて、島田氏が「歴史」という語句をどのような意味を持たせて使用しているのか。少し考えてみよう。この「歴史」とは、そもそも、「個人の歴史」か、それとも「国家の歴史」か、はたまた「歌の歴史」なのか。

考えていると見えて来るものがある。やはりこの歴史は「歌の歴史」でなければ、全体の意味がはっきりしなくなる。西行はある時、作歌法を問われた時、「古今集を手本にして、その作風を念頭において作りなさい」というようなことを言われたそうだ。

島田氏も作歌の時には、「陸奥妙」の中に詠まれている如く、常に古今集の基本の風体に念頭において、自らの歌を詠まれていたのである。

つまり先の総評は、歌(短歌)を志す後輩達への、島田修二氏の遺言として解しても良いのではないかと思うのである。

「歌を志している皆さん。今季節は夏から秋に変わろうとしています。皆さんは、歌の道あるいは伝統あるいは基本というものをしっかりと念頭に置いて、それぞれに個性のある己の人生観を歌にしてはどうでしょう。そして皆さんは歌の道という歴史ある大切な文化を次の世代に伝える重要な役目を負っていることを忘れないで励んでください。」

最後に、島田修二氏という歌人は、どのような歌人だったのか。例えば、氏の愛する西行法師は「花の歌人」と呼ばれる。私は島田氏は、十七歳の頃に、見てはいけない物を見てしまった歌人であったと思う。黒澤明の晩年の映画に「夢」というオムニバス映画がある。その冒頭で、少年は、見てはいけない「狐の嫁入り」を覗いてしまう。少年は、そこから逃げて、家に帰るのだが、狐は怒って、少年を家まで追いかけてくる。

氏は、タブーを図らずも覗いてしまったあの映画の少年のようだ。幾万の罪のなき市民が一瞬のうちに命を失うという地獄絵図を遙かに超える光景を垣間見た少年はいったいその後、どのようにしてその心の傷を癒せば良いのか。島田氏の歌の奥にある深い陰翳は、その少年の頃に味わった衝撃から来ているのではないだろうか。そしておそらく、氏の歌の出発は、そこからの自己の精神の癒しために始まったのではないだろか。そして最後に、歌人島田修二氏は、ある種の悟りのような心境に辿り着いたのである。

 あらはなる生おもむろにしづめつつ草木國土冬に入りゆく(草木國土)

これは、氏の数多い秀歌の中でもとびきりの作と思われる。先に上げた「草木國土」という歌集の題にもなった歌である。この歌集は「詩歌文学館賞」を受賞した作だが、「草木國土」とは仏教用語の「草木國土悉皆成仏」から採られている。この意味は、「草木も国土というものも、これみなことごとく仏である」というものだ。まさに大乗仏教の根本精神に島田氏の心境は達したことになる。この歌には、人物はどこにも登場しない。冬となって、それまで生々しく色めいていた山野に初雪が降り積もって、命の熱を冷ますように一面の銀世界となる。それもどちらかと言えば、薄墨とまでは行かないが少し紗がかかった墨絵のような冬景色である。一面の冬景色の中にに人も草木も国土もすべてがとけ込み一体となった心象風景が歌の向こうにぼんやりと見える。それが歌人島田修二の最後の境地だったような気がする。今肉体の牢獄から解放された島田修二氏の御魂は、薄墨色の銀世界で自由に遊んでいるに違いない。了
 
 

4 最後の第九歌集「行路」を読む

人によっては、一生掛かっても消えない心の傷というものがあるものだ。島田修二氏の最終歌集「行路」(かうろ)を読みながら、つくづくとそんなことを思った・・・。

 見るべきは見しとおもへど俯瞰(みおろ)して禁忌のごとく富士を過ぎゆく

この歌は、飛行機で、富士山上空を飛んだ時に詠まれた歌である。富士山は、神の山であり、上からその神の山を覗くことを、大変失礼な不敬なことと思っている。これは少年時代の軍国教育を通じて培われた感覚を誇張したものと推測される。

この歌の冒頭の「見るべきものは見し」という言葉は、平家物語の平家方の英雄新中納言平知盛(たいらのとももり1152-1185)の最後の言葉である。彼は、清盛の四男であるが、壇ノ浦で義経率いる源氏軍に追い込まれて、もはや最期と悟った時、「見るべき程の事は見つ 今は自害せん」と叫んで、壇ノ浦の海に飛び込んで果てた人物である。この言葉から受ける印象は、「平家物語」の中でも取り分け鮮烈だ。

その後、この言葉を発した知盛の最期のエピソードは、様々に脚色され、室町期には能の「舟弁慶」(知盛は怨霊として登場)となり、江戸期には人形浄瑠璃(歌舞伎)の「義経千本桜」(竹田出雲作)となり、民衆から万雷の拍手をもって迎えられた。「義経千本桜」での、知盛は、自らの運命を悟り、勝者の義経を向こうに回して、錨(いかり)をかざし、それを自らの体に括り付けて大海に投げ込むと、やや遅れて、その大綱に引き込まれるようにして、深海に沈んでゆく。見事な滅びの演出である。

島田氏は、何故、栄華を極めた平家一門が滅びゆく時の知盛の言葉を、何故この歌に盛り込んだのであろうか。知盛は絶頂の栄華とその滅びを目撃した人物であった。それに対し、島田氏は、この世で、原爆投下という地獄絵図を江田島という瀬戸内海に浮かぶ島から見たのである。怖ろしいまでの破壊の一瞬を、軍国少年であった島田氏は、偶然にもあの夏の朝に見てしまったのである。

とすれば、この歌の言外には、知盛のように「もう見るべきものは見てしまったから死んでしまおう」という観念がどこかにあって、詠まれた歌であろうと推測できる。それができずに生きている自分という存在がどこかで恥ずかしいのである。それが「禁忌」という言葉となって、「富士」の嶺に繋がっているのだと感じる。もっと分かり易く言えば、自分は何故まだ生きているのだろう、と不思議に思っているのである。

歌人島田修二氏の生涯を、歌を手がかりに追って行く時、若い頃に負った原爆投下を覗き見てしまったという偶然の戦争体験が、生涯を貫く苦しみとして、一個の人間を呪縛し続けるということが如実に分かる。しかしながらこの体験は、正気で生きている限りは、けっしてぬぐい去ることのできない「原爆垣間見症候群」と表現してもよさそうな強烈な観念として氏に重くのし掛かっているのである。

 すぎこしに似たる日のあるかなしみを尋常として晩年に向く

「すぎこし」とは、ユダヤ教の「過越の祭り」から来ている。「過越し祭」とは、エジプトで奴隷状態にあったユダヤの民が、エジプトを抜け出したことを記念する祭りである。この時、神はエジプト中の初子を殺そうとした。だが門の前に、子羊の血を塗っていたユダヤ人の家だけは、過ぎ越したということに由来している。つまり、本来ならば、戦争で死ぬ運命にあった島田氏自身が、「過越し」の偶然によって、命を永らえている運命のことを指している。

「すぎこしに似たる日のかなしみ」とは、あの原爆を垣間見た日のことではあるが、その「かなしみ」は、心の中で星座のような様々な布置(コンステレーション)を伴って、島田氏を日常的に嘖(さいな)んでいるのである。

 まだ生きてゐるかと訝(いぶか)るこゑのしてつつかれにしか目ざめうろたう

これは悪夢にうなされた歌だ。「お前まだ生きているのか」と言ったのは誰か。怖くなる歌だ。

 真田藩島田氏の裔(えい)海軍中尉駆逐艦「敷波」に戦死二十一歳

この歌は、兄の死についての歌である。島田家で、期待されていた氏の4つばかり年長の兄は、21歳の若さで死んでいる。軍国少年だった氏に比べ、兄は商船に乗ることを希望していたようだ。この事実も氏にとっては痛恨の極みのような思い出である。

 軍人に向かざる兄と言はれゐき向くと言はれし吾は生きたり

 生恥をさらしてひとつなさんこと胸にしまひて夢の旅ゆく

ここに盛られた745首の歌のそのほとんどは、原爆体験を種として、生まれた戦争の鎮魂歌集と呼んでも差し支えない気がする。歌人は、臆することなく、多感な少年期を反芻し、一人の軍国少年が、辿った精神の軌跡を、歌というものを通じて、はき出したかったに違いない。しかし、まだ島田氏の心には、はき出せずに心の奥で、じくじくと蠢く膿のような澱の固まりが眠っていると感じてしまう。何という深い心の傷跡。そして魂の痛みであろうか・・・。

 なさざりし慚愧慚愧の風音を胸にしまひて河豚刺しを食ふ

慚愧(ざんき)とは深く恥じ入ることである。河豚を食っても牡蠣を食っても、その慚愧の念は、消えないのだ。氏は、この慚愧という言葉を二度繰り返している。

おそらく、島田氏自身は、自らのことを戦争世代の歌人とは認識していても、戦争歌人とは思っていないであろう。しかし私は、将来において、島田修二という歌人の存在意義というものは、戦争(あるいは原爆)というものが、人間の精神にもたらすとてつもない悪影響を語る時に、人類の教訓となる優れた歌を多く遺した歌人として語り継がれて行くだろうと想像する。

島田氏の歌は、詩人峠三吉のような純然たる原爆詩や多く遺されている原爆短歌に比べれば、じわじわと胸に滲みてくるような地味な歌が多い。しかし、だからこそ返って深く戦争の悲惨を伝えている部分があることも事実だ。彼は遠くの沖合の島から原爆のきのこ雲を垣間見ただけで、一生涯をそのきのこ雲によって呪縛されてしまった。そのことを、人類は共通の認識とし、歴史の記憶として、魂の奥にしっかりと刻み込むべきである。だからこそ、人類は、原水爆を未来永劫において全面的に禁止し、どのような戦争にも反対の意を表明しなければならないのである。

 さまざまにいふともかの日いくさ敗れ延命の徒の後方(しりへ)にありき

人は誰しも、天から与えられた使命というものを持つ。それは案外自分では、認識出来ずに一生を終えてしまうことも多い。「自分の天命はこれだ」と思える人は稀であり、それをどこかで理解できた人は、福沢諭吉翁の言うごとく幸せな人である。

世には、自己の表現を持つ人ばかりが存在する訳ではない。詩歌や文学を生み出せない人が大半だ。その人たちは、戦争の時代に生まれ遭い図らずも心に負ってしまった戦争の深い傷を重い十字架のようにして背負いながらも、歴史の証言者となることなく、人生を終えてしまうのである。

去る2004年9月15日、享年76歳で逝かれた島田修二氏は、戦争を生で体験した最後の世代の歌人であった。島田氏は、戦地に行った訳ではなく、広島沖にある江田島の海軍兵学校で終戦前に原爆のきのこ雲を垣間見た人物だった。もう一、二年、兵学校への入校が早かったならば、特攻隊として、アメリカの艦船に自爆攻撃をしていた可能性もあった。幸いにも生き残った島田氏は、焼け野原となった焼土日本から自分の視た原爆というものの何たるかを生涯を掛けて問い直したのである。彼にとっての武器はただひとつ歌というものであった。

私はここに歴史の神の智慧というものを感じる。すなわち歌人島田修二氏は、歴史の生き証人として、戦争の悲惨を伝えるために生かされた歌人であったのではなかろうか。歌人島田修二の歌を通して、人類は戦争というものが人の心にもたらす暗い影をいつでも想起することができるのだ。了



紹介出来なかった5首

牡蠣うまく河豚うまかりし広島と思ひ出づるさへ傷みの深し  草木國土
花よりも雨に心を満たしつつかたむく国の路地をあゆめり    々
さくら散る並木の中に芽吹かざる一木のあり雨降り続く      々
まがまがと田畑の荒るる道を来て歌のみだれのごとく悲しむ   行路
よろこびとかすかに違ふ安らぎの丘辺の道の果なきごとし    々

島田修二氏に捧げる三首

 「朝日歌壇」九月二十日を読み返し島田修二氏訃報信じず
 夏の日の朝に空立つきのこ雲垣間見し少年歌人となりぬ
 来春は島田修二のためにとて西行桜よ墨染めに咲け


2002.9.27 Hsato(佐藤弘弥)

義経伝説HP