剣と道

剣道講話から

まず最初に剣道とは何かというと、私の言う剣道は、最初の「剣」の一字、こ れを除いては剣道はない。この剣ということは、現代の四つ割りの竹刀、これ は竹だが、これを刀、日本刀という観念でつかうこと。これが私の言う剣であ る。それを今でも、竹刀は四つ割りの竹ではないか。そうであれば、結論は当 てっこでよいではないかと主張する人もいる。
竹ならばそういうことになる。スポーツでよい。しかし持った竹刀を日本刀と いう観念で使うことになれば、これは命のやり取り、息の根の止め合いであり、 生死の問題であり、修行目標としては、生死を明らめることになる。この心が 人生の土台であり、刀を差さない現代でも役に立つのである。次に「道」につ いて。道をはなれて剣道はない。ところが剣道は道ではない。哲学だという説 をとなえるひとがある。哲学としての論文を出せば、それだけで範士に推薦す る資格があるという。その人によれば、剣道は哲学であって道ではない。道だ というと、道のなかには禅も入るし、色々のものが入ってくるからいけない。 哲学であると。まあ考え方は自由であるが・・・・・・。
それはそれとして、剣道は「剣」の「道」である。道をはなれた剣、即ちスポー ツ・剣術の域では浅いものになる。我々の祖先が真剣勝負を経て、今から三百 年も前に、剣術を道というところまで昇華させて、深いものにした。それは柳 生流の極意『不動智神妙録』である。これは哲学ではなく、禅であり道である。 この道が日本に現れれば古神道となり、中国では儒教、老荘となり、インドで は仏教となる。道は古今東西一貫底である。我々は剣道を通して、この人間の 道を修行するのである。
人間の道とはどういうことかと言うと、当たり前のことを当たり前にやる。こ れが人間の道なのである。これを修行する。こういうことは、言うことは易い が、一生涯修行していても完全に出来得るものではない。
お釈迦様は「我思うが如くに言い、言うが如くに行なう」と。これは規範であ る。我々の未熟な分際で、思ったとおりに言ったら支離滅裂になってしまう。 思ったとおりにやったら脱線してしまう。一家だって斉(ととの)えることは出 来ない。自分の一身すら修まらない。つまり、当たり前のことを、当たり前に やるなどということは、人間の理想であって、出来ないことである。出来ない ことであるが、それを理想において、剣を通してこれを学ぶ、これが剣道とい うことなのである。



島野 Mail: shimano@st.rim.or.jp