美のアイコン、または堕落の女神...
本名 CHRISTA PAFFGEN (但し正確には Paffgen の 'a' には発音記号 '‥' が上に付く).. the marble index のライタノーツ(Richard Williams)に従えば「1943年3月15日ユーゴスラビア系の父とスペイン系の母親のもとにハンガリーのブタペストで生まれる」とあるが、生年月日及び生まれた場所については諸説がある(*1)。彼女の叔母の記憶によれば彼女が1歳半の時に空襲のおさまらないベルリンにいた事、また後の映画のワンシーンで、多分その頃の印象と思われる思い出を花火にたとえて話しているシーンがある事などから、すくなくとも第二次世界大戦末期のベルリン陥落時('45年5月)に彼女がベルリン(またはそこからあまり離れていない場所)にいた事はまちがいなさそうだ。また彼女の(アラン・ドロンとの間の)ただひとりの息子 Ari の話では、父親はニコ同様に旅に明け暮れた人であったが、第二次世界大戦にドイツ軍に従軍中ユダヤ人をかくまった為にナチにより粛正されたという。
そんな父親の影響からか、幼い頃からフランスやイタリヤそれにドイツを転々とした彼女はすでに10代の頃には7ヶ国語を話し、売れっ子のモデルとして活躍していたようだ...

実は NICO という名前は(時期は不明だが)友人の写真家(トヴィアス)から映画監督 Nico Papatakis の名前をとって名乗るようにすすめられた事によるらしい。普通 NICO とは男性名であるが、当時としては異様に身長の高い彼女にはぴったりだったのかもしれない...後に Nico Papatakis 本人とも知り合いとなるが、彼が NICO の本名 CHRISTA を可愛い名前だというと、彼女は「ドイツくさくって嫌い」とこたえたとか...(ちなみに彼女に最初に唄を唄うことをすすめたのは Nico Papatakis だという)
とはいえ、ICON のアナグラム(N を一番前に持ってくる)この名前はあまりにも彼女にぴったりである反面、常に彼女が一番嫌った状況を生み出したようにも思える。

フェリーニの'60年の映画「甘い生活」のワンシーンで、すでにマルチェロ・マストロヤンニから「ニコ!」と呼びかけられていることからも、この時期にはすでにその名前で活躍していたに違いないが、同時に映画の中ですでに「モデルの仕事はもううんざり...」等といっていたりする(未だ彼女は17歳のハズ)。
甘い生活 LA DOLCE VITA (1960 年イタリア映画)
監督 Federico Fellinie
音楽 Nino Rota
出演 Marcello Mastroianni, Anita Ekberg 他
こんなところからも NICO と名乗りはじめていた時にはすでに彼女の中に男達からただのオブジェとして扱われるモデルの仕事に対しての限界を感じ出していた事が想像できる。
実際60年代に入ってから彼女は何度か New York で Lee Strasberg の Actor Studio へ俳優の勉強のために通っていたようだが、役者としては殆どウィスキーのCMの仕事や映画に出てもセクシー女優あつかいで、決して成功したとはいえないだろう(ちなみに本人の話ではこの時同じスタジオにモンローも通っていたそうだ)。 しかしそんな中で知り合ったアランドロンとの恋に落ち、そして '63年に息子 Ari を生む...彼女が恋多き女性であった事は間違いないが、この恋は本気だった。彼女はアランドロンが Ari を認知してくれるものと信じていたようだが、肉屋の息子に彼女の恋愛パターンが理解できるセンスはなく... 結果アランドロンの両親は Ari を認知したがドロン本人は現在でも認知していない...そして彼女の舞台は徐々にヨーロッパからU.K.そしてU.S.へと移動しはじめる。
19Apr'99 by seven


ところでネットでこの時期の NICO について次の様な記事を見つけた
Nico was one of the most fascinating and mysterious women of the multimedia revolution of The Sixties, and long after that till the present day. She was born on October 16th, 1938, in Cologne, in Nazi controlled Germany. At the age of two she was taken to the little town of Spreewald on the outskirts of Berlin where she lived together with her mother and grandfather, a railway man, through the end of World War II. Her father died in a concentration camp. Nico は60年代のマルチメディア革命においても、また長い時を経た今という時代においてさえ同様に、とても魅惑的でミステリアスな女性である。彼女は1938年10月16日(*1)ナチ支配下のドイツ、ケルンに生まれたが、2歳の時ベルリン郊外のSpreewald にある祖父の家に母と一緒に疎開している。鉄道員であった父親は第二次世界大戦中に強制収容所で死亡している。
Fleeing from the Russian occupation in 1946, mother and daughter wound up in the ruined American Sector of Berlin where Christa (Nico's real me is Christa P?ffgen) worked part-time as aseamstress. She was sent to school till she was 13 years old, then took a job selling lingerie. After a year, her mother found her work as a model with a Berlin fashion house. 1946年、ロシア(旧ソ連)のベルリン占領から逃れた母と娘はアメリカ軍が駐留している荒れ果てた西ベルリンに閉じ込められるが、そこでChrista(Nico の本名) はお針子のパートタイムを始める。13歳まで学校に通った後彼女はランジェリーの売り子の仕事を見つけるが、数年後にはベルリンのファッション・ハウス(ブティック?)のモデルの仕事を得ていた。
At 15 she was sent to the Isle of Ibiza on assignment and met the photographer who gave her the name Nico after a recently departed boyfriend of his, called Nico Papatakis. Later on she also met him as the owner of a night-club in Paris. At Ibiza Nico began a lifelong nvolvement with the isle. On holidays at a friend's villa in Rome, Nico was invited to the set of La Dolce Vita. Fellini noticed her standing off in a corner and offered her a sizable role in the film on the spot. It was 1959. 15歳の時彼女はイビサ島(地中海西部、パレアレス諸島西端の島(*2))に仕事で出かけるが、その時の写真家が彼女に彼のしばらく会っていない Nico Papatakis という友達の名前から彼女にNico と名乗ってはと薦める。(後に彼女もやはりパリでナイトクラブを経営するこの男と出会うこととなる (*3)) イビサ島にかなり足止めとくった後、休日にローマの友達の貸し別荘に遊びにいったのだが、その時 Nico はフェリーニ監督の「甘い生活(La Dolce Vita)」の撮影現場にしょうたいされ、結局いくつかのシーンに出演することになった。1959年のことである。
Her reputation grew and she and her mother left for Paris where Nico was signed to a much larger modeling agency. Soon her picture was appearing in magazines and commercials all over the world. Paris was her home for the next five years, with frequent holidays in Ibiza. 彼女の評判が広がるにつれて、Nico はより大きなモデル・エージェンシーと契約するために母親と一緒にパリへと引越し、すぐに世界中のCMや雑誌などを飾ることになる。その後5年間パリは彼女のホーム・タウンとなるが、時々は休日にイビサ島に出かけている。
In 1960 Nico went to New York to model and enrolled in Lee Strassberg's Method School, joining the same class as Marilyn Monroe, in preparation for a career as a serious actress. In 1962 she had a big role in a French movie called Strip-tease, where she did an act with a doll on stage at a club. 1960年 Nico はモデルの仕事でニューヨークに行くが、同時に Lee Strassbers のMethod Schoolに入学し、女優としての勉強を始める。(この時同じクラスにはマリリン・モンローも在籍していた)。1962年彼女はフランス映画 Strip-tease で彼女はステージ上での人形の役をいとめる。(*4)
In 1964 she met Brian Jones, through him she met Stones manager Andrew Loog Oldham, and made her first record for his Immediate label: I'm Not Sayin, a Gordon Lightfoot song, produced by Jimmy Page. 1964年に Brian Jones に出会った彼女は、彼を通して Stones の(当時の)マネージャー Andrew Loog Oldham に紹介される。そして彼女は最初のレコードを Immediate レーベルからリリースすることになる。 I'm Not Sayin というこの曲は Gordon Lightfoot 作で、プロデュースは Jimmy Page が担当した。
Returning to New York later in 1964, Nico went back to work as a model and landed a job singing at the Blue Angel Lounge on 55th Street (all drinks 85c). She had an affair with French actor Alain Delon, whom she had met in Italy in 1962, and had a child . Nico called the boy Ari. In that period everybody wanted to know that mysterious blonde girl, and gave her short but complete adoration. 1964年後半にニューヨークに戻ってきた Nicoはモデルの仕事に戻るが、同時に55番街通りの Blue Angel Lounge(ドリンク全て85セントの店)で歌う仕事もスタートさせている。彼女はフランスの男優アランドロンとの恋愛事件を起こしている。最初にドロンと会ったのは 1962年イタリアであったが、彼女は Ari という名の男の子を産んでいる。短い期間ではあるが、マスコミはこぞってこの金髪のミステリアスな少女に興味と崇拝のまなざしを向けた。
Afterwards in Paris, Nico met Bob Dylan who urged her to pursue her career as singer and gave her a song: I'll Keep It with Mine, later recorded on the solo debut-album Chelsea Girl. Dylan wrote her a tribute on his album Blonde on Blonde called Visions Of Johanna, later he introduced her to Andy Warhol who began to feature her in his and Paul Morrisey's experimental films. パリを離れて後、Nicoは彼女をシンガーとしての才能を目覚めさせた Bob Dylan とであう。彼は後に Chelsea Girl に収録される曲 I'll Keep It with Mine を彼女の為に書いている。また自身のアルバム Blonde on Blonde に Visions Of Johanna という題で彼女への賛辞を書いてもいる。 そして後に Paul Morrisey の experimental films の為にNico を Andy Warhol に紹介したのも彼であった。

(*1)
ベルリンの彼女の墓には 1938−1988 と書かれている。 つまり1938年10月16日が正しいようだ。
(*2)
1988年彼女がバイクの事故で死亡した島でもある。思えばこの島から NICO は始まり、この島で生涯を終えた事になる。また NICO/the END(written by James Young) によれば彼女はここに家をもっていたともいう。
(*3)
Nico Papatakis がナイト・クラブを経営していたかどうかはわからないが、La Maison sous La Mer (1946). という映画の監督にクレジットされている事からも、彼が映画監督である事は間違いない。(もっともわたしはこの映画自体みたことも聞いた事もないのだが...)
(*4)
NICO ICON でもこの映画の一部を見ることが出来る。しかしどうみてもわたしには、彼女に Strip-tease(ストリップショー)のダンサー役とはミスキャストにしか思えないのだが...

21,Apr'99 by seven