遺伝子と環境
(by 森リクガメ研究所)

2001年6月に、ある建築関係の技術研究発表会が行われました。その中で、筑波大学名誉教授の村上和雄先生が、(21世紀は「いのち」に学ぶ時代)という題名で、特別講演をされました。村上博士は国内における遺伝子研究の権威でおいでですし、世界的にも著名な先生ですから、生物学に携わる方ならば、ご存知の方も多いと思います。
その講演で語られた遺伝子のお話が、大変興味深いものでしたので、リクガメの問題としても考えてみたいと思います。


遺伝子の不思議

人の遺伝子暗号については、2000年にはほぼ解読が終わりつつあり、それがいつ頃終わるかということが、もう予想されるということをご存知の方も多いでしょう。 しかし、先生のお話では、遺伝子の暗号を読む技術も凄いことだが、読む前に遺伝子暗号が書いてあるということ自体が、モノスゴイことだということです。だれが書いたかといえば、自然が書いたわけです。
自然が書いた遺伝子暗号は、いわば万巻の書物にも匹敵する情報で、驚くべきことは、その情報を、想像を絶する小さな所に書いたことです。世界最高の電子顕微鏡で、1000万倍拡大しても、それでも読めないというところに書いてある。 どうしてそれが読めるのかといえば、科学の力で、科学的に読むということになります。
遺伝子について、おさらいをしてみましょう。
人間は何十兆という細胞から成っていますが、その細胞の一つ一つに遺伝子があり、その一個の遺伝子にその人の全ての情報が入っている。髪の毛の細胞でも心臓の細胞でも、爪の細胞でもどの細胞の遺伝子も全く同じ遺伝子情報をもっています。
たとえば、世界中の人から髪の毛からでも、皮膚からでも細胞の遺伝子を貰って、世界中の人の約60億個の遺伝子を集めたとして、はたして、どんなボリュームになるのでしょう。
世界中の人の体の設計図です。なんとその重さは、全部集めてもお米一粒の重さと同じだということです。そんな小さな所に全ての情報が書き込んであるとは驚きです。

さて、地球上には最低現在でも200万種の生き物がいると言われています。生物の歴史は何十億年という時間がありますが、この歴史の中、生まれては死んでいった全ての生き物が、全く同じ遺伝子暗号を使っているということが分かったのです。村上先生は、これは20世紀の生物学最大の発見だとお考えでした。
つまり、過去、現在、未来に渡って、生き物にとって最も大切な情報、遺伝子暗号を、全ての生き物が共有しているという事です。これは、人間だけではなく、あらゆる生物は、兄弟のようなものと言えるかもしれません。私達がリクガメに親しみを覚えるのも、また他の犬や猫などの生物、植物などにも親しみを覚えるのも、遺伝子暗号という共通言語を共有しているからではないかということも分かってきたということでした。


生命の原点

私達の体は、自分のものだと思っているかもしれませんが、ただ単に自分のものではないのです。何故なら、体の元素、たとえば酸素、水素、窒素も全て地球からの借り物です。地球からの借り物を使って、遺伝子の通りに組み立てているといえます。
こうとらえてみると、たとえば赤ちゃんは、生まれた時に0歳とか1歳ではなく、生命の歴史的には35億歳ですし、地球年齢では45億歳。大自然が45億年かけて造り上げてきた苦労の結晶ともいえます。
さらに村上先生は家庭菜園を例にあげて、こんなことをおっしゃっていました。
「私は自分で茄子とかトマトとかきゅうりなどを作って喜んでいます。自分で作るというのはうれしいものです。自分で作ったから自分のものだと思っていました。
しかしよく考えると、私がやっている事は、種を買って、蒔いて、ちょっと水をやっているだけで、作っている力のほとんどは、あれは大自然がやっているのです。その大自然とか、なにか大きな力というものの働きを私達は忘れて、自分の力だと思っている。今起こっている環境問題にしろ、教育問題にしろ、いろいろな問題を解くひとつの鍵は、私達がもう一度この「生命の原点」に帰って、「生命というのは、自分、人間だけで造りだしたものではない」というところに帰る必要があるのではないか」。


遺伝子のON,OFF

最近の遺伝子研究で、大変面白い事がわかってきました。生物の体の細胞は何十兆あろうと、上記のようにどの全ての細胞の遺伝子も全部同じ情報を持っています。まさに爪の先の細胞の遺伝子も心臓のものも全く同じ遺伝子情報を持っており、どの細胞も一人の人間をつくる為の全ての情報を持っています。
しかし、不思議なことに、心臓には心臓に必要な遺伝子のスイッチしか入っていません。後は皆切れているわけです。髪の毛のはえる遺伝子情報も持っているのですが、心臓には毛がはえてこない。つまり毛がはえるという情報のスイッチは切れているということです。髪の毛ならば、髪の毛に必要な遺伝子しかスイッチが入っていない。後はすべて切れている。つまり、「ほとんどの遺伝子は眠っている」ということになります。
現在、大まかに分かってきていることは、遺伝子は、周りの環境とお互いに作用を及ぼし合いながら、スイッチをONにしたりOFFにしたりしているのだということです。 その仕組みについてここ10年くらいで、非常に研究がすすんでいます。たとえば、クローンのことです。

最初に出来たクローン羊はどのようにしてつくったかという話しをお聞きしました。 それは、ショッキングではありますが、
「まず妊娠した雌の乳腺細胞というミルクを出す細胞を取ってきて、これを試験管の中で培養します。すなわち、試験管の中で殖やしたり、生かしたりするこの乳腺細胞の遺伝子の一番大切な務めは、ミルクを大量に作るという事です。従って、ミルクをつくる遺伝子は、全部スイッチが入っている。ところが、他の臓器で働く遺伝子は、ほとんど眠っている。
学者達は、なんとかこの眠りこけた遺伝子のスイッチをONにしようと考えました。しかし30年間誰も成功しなかったのです。ところが3年前、成功したのです。どうしたのか?
ある学者が、やはりあらゆるトライをして、眠っている遺伝子を起こそうとしたけれど、どうしてもうまく行かず、諦めて、「もう、この細胞を殺そう」と考え、栄養状態をストップしました。細胞は飢餓状態に陥り、半殺しの目に遭ったわけです。すると、死んだらだめと、死ぬ寸前に全ての遺伝子のスイッチがONになったのです。そして、普通ならミルクを作る為の遺伝子としてしか主として働いていないその遺伝子が、「一匹の羊を造る」という事をやったわけです。」
この話は、クローン人間を造るとか、安くて美味しいクローン牛をたくさん造るとかいうことで注目されていますが、研究自体に与えたショックは「遺伝子はたとえ眠りこけていても、条件次第で目を覚ます」という事を示したことでした。
ここから、遺伝子の研究では、「遺伝子はどんな環境で目を覚ますか?」という事が大きなテーマになっています。
たとえば、火傷をした場合、その部位の細胞の遺伝子は「熱」というショックで熱に対抗するたんぱく質を大量に造りだすとか、運動の訓練によって、筋肉たんぱく質をつくっている遺伝子のスイッチをONにし、そのため筋肉がもりもりしてくるとか、様々です。
言い方を変えるならば、遺伝子というのは何の暗号を伝えているかというと、
「こういうたんぱく質を造りなさい」
という情報を伝えているといえます。
また、最近分かってきた面白いこととして、いろんな食べ物によっても、遺伝子のスイッチがONになったり、OFFになったりするということだそうです。
具体的には「ガンになりやすい食べ物」は、ガンの寝ている遺伝子を叩き起こしてしまうといったことになるわけです。多くの人は、病気の遺伝子もみんなもっているのですが、それが寝ていればいいわけで、叩き起こすには、食べ物というようなものが一つの因子になる。また様々なストレスによって、その遺伝子のスイッチが入るらしい、ということも分かってきたということです。


遺伝子の情報

遺伝子は「何をつくりなさい」というだけではなく「どの程度、どの位の量をつくりなさい」という指令もすることができます。また「いつ造りなさい」というタイミングを指令することもできます。
リクガメの話しとすれば、典型的な例としては、TORTOISE LANDの中でも扱っていますが、温度による性決定の話しや、オスらしさ、メスらしさの出てくる時期、なども遺伝子とそのスイッチのON,OFFが関係しているといえます。
産卵から孵化までの間にオス、メスの決定時期があることは、上記の記事でも触れましたが、性ホルモンの生成には、ある種の酵素が重要な働きをしていて、その酵素に温度が影響を与えていることも分かっています。またそのホルモンの受容体をつくる遺伝子のはたらきは、温度によって影響を受けることも明らかになっているのです。
その後についてもある時期までは、いつも仲良くしていた仔ガメ達に、突然のようにオス、メスの特徴的な行動が始まったりするのは、複数個体を飼育をしている飼育者にとっては、普通に経験することですが、それらも遺伝子が係わっているというわけです。また、産卵をする時期とか、また孵化までの日数なども外部環境と遺伝子のスイッチに関係しているとも言えるわけです。


遺伝子と環境

このように、遺伝子の持っている情報と、環境によってその情報の中のあるものがONになったりする関係の存在が分かってきました。生物における遺伝子暗号の共通性も明らかになった現在、私達リクガメ飼育者にとっても、様々な問題への新しいアプローチが開けてきたと考えることができるでしょう。
それは、遺伝子の研究における、人間への環境からの影響自体が、実はほ乳類に限らず鳥類にも、爬虫類にも両生類にも、かなり共通してあてはめて考えられるということです。
食べ物やストレスによって遺伝子のスイッチが入るといったことも、新しい考え方といえるでしょう。リクガメ達の遺伝子に存在する良い情報を引きだせるような環境を作って行きたいものです。