入院日記

岩田さんが入院生活を綴る日記です(2003年11月その2)。

11月13日(木):入院25日目

 4時半起床、ちょっとお腹の調子と喉の調子が悪い、お腹は間食による消化不良気味で、間食を取る時間を調整しよう。朝はなるべく間食は取らず、朝食後10時以降に軽い菓子類、昼食後の14時過ぎから16時までは菓子類を取り、夕食後は果物程度にしよう。昨日で第一次目標の58kgに達したので、少し体重増加作戦は緩和。治療に間に合ったかな増量は。仕事先(出向先・出向元)に公開についてのメールを出しておく、コミケットのことを含めて全部書いておく。
 午前中に個人的に難問発生、詳細は略。腹具合急速に悪化、ストレス甚だ大。昼食後11/11,12分の日記入力で気を紛らわす、相変わらず苦闘。
 17時H先生が招いて面談を実施、詳細は専門的なので略。結論としては11/17夜に私、家族を含めて面談を行いたい、難しい判断でリスクを鑑みて判断するしかない。夕食後、個人的な問題は苦闘継続、数箇所に電話をする、22時に全ての状況を把握、一気に難問は全面解決、いやもっと大きな問題で今までの難問が解消しただけの話なんですが(笑)。船のスクリュー故障で苦闘していたら、突然座礁浸水して、沈没しかかるというような状況、スクリュー気にするより、とりあえずは船を何とかしなさいという話(笑)。さらによく見ると自分もまた自らの失火で火災が発生した船室に閉じ込められていたことに今更気がつくというような素晴らしい状況(笑)。まぁ最初に火を消すことにするしかない、まずは自分の責任を果たすしか無いのだから。自らの愚かさに悩むのは自業自得。でも船は沈むけれどね、運がよければ座礁して船の生き造りが見えるかも。
 お見舞いの予約が入る、女性が多いのは嬉しいな(笑)、もうこうなったら不審がる人には愛人だと教えよう。23時15分自宅に連絡つく、詳細を伝え、11/17の面談を頼む。23時半就寝。

11月14日(金):入院26日目

 4時半起床、この日からノートは2冊目、実はこの入院日記は一旦キャンパスノートに記入してからこうして入力している、ノートだと深夜でも、思いついたときに書けるのが良い。来週は胸腔鏡の検査(実質的に手術)の可能性があるので、スケジュール調整が難しい。メール処理は11/17の夜までに終わらせるしかない。昨晩から少し気管支のところでゼイゼイ息切れがあるのと、喉に引っかかるような違和感がある、気管支鏡検査がさすがにダメージを与えたのだろう。うがいをすると概ね解消するのだが。
 5時シャワーを浴びた後、洗濯をし、デイルームで昨日の分の日記まで終える。朝食後、H先生回診、昨日の面談について私の判断を聞きたいと言われ、月曜日の面談前に事前にお話したいと伝える、ここで方向を決めないと、家族を含めた面談で紛糾する可能性が否定できない。まずは私がどう評価するかだ。デイルームで日記の修正をしていたら、看護婦長さんがお見えになり、やはり昨日の面談の判断を聞かれる。
 昼食後、病室は西日が凄く、もの凄い暑さ、デイルームに避難してあれこれ考え文章を作る。16時から病室に戻り、持ってきて貰った夏以降の同人誌を読む。「ラフスケッチ15」Digital-Lover、これはコスカの新刊。なかじまゆかさんのイラストの良さはキャラクターのポーズに鍵があるような気がする、これがどんどん巧くなっていて楽しみだ、何気ない足のふっくらとした柔らかい感じが素晴らしい。「INTRODUCTION1012」転位21&Fire-Cracker、もしかすると入院前最後に自分で買った本かも(笑)。予感のような入院している幸村ってどうよ、病室風景特にベッド周りは少し違います(笑)。「DWH3+」スカポン堂、ネコミミ本、何を言えば良いかな、病院のベッドで読むには不釣合いかな(笑)。ネコミミ少女のなんと言うか柔らかさ(心も身体も)が面白い。「ねこねこちゃんねる」Fire-Cracker&クズ斬り一党、こっちもネコミミなんだ…ちょっと違うか(笑)。忍跡で、跡部がネコ。「STYLY-STYLE」「Laugh-Life-2」apricot+、最近期待している蒼樹うめさんの本2冊。柔らかな描線と少し力を抜いたキャラクターとストーリーが持ち味か。これで少しづつ長い作品をまとめながら力を抜きつつ描ければ、相当に評価が上がるような気がする。ただ、描線の決めがちょっと弱いので、もっと描くと良くなると思う。「005+」command-Z、あるまじろうさんの、おねティー本、濃密なHシーンとボリュームが鮮やか、これには参ってしまう。
 同人誌は二時間以上読むと感性が摩滅しやすい、それは濃度が著しく高いからで、濃縮50%のジュースを一気飲み出来ないのに似ている。濃度が薄い単なるイラスト・落書き本だったら水のようなものだけど(笑)。夕食直後、MO君来る。状況報告と雑談、とある事情で叱られる(笑)。19時20分MO君お帰りに。その後はメール作成とあれこれ思案。21時にベッドに戻り様々な自分自身の問題を反芻する。22時半就寝。

11月15日(土):入院27日目

 4時ちょっと前にうつらうつらしていたら、地震で目が覚める、早いけれど起床してあれこれ片付ける、検査の影響か喉の違和感が消えない、あと気管支あたりの絡むような幹事があって少し咳が出てしまう。やはり今回の検査は少し負荷が高かったようだ。両足にあった引っ掻き傷とかさぶたは、入院後徐々にきれいになってきている、麻痺があったので何かむず痒い感じで夜中に引っ掻いていたのだが、今は麻痺が緩和されてきているのと規則正しい生活で状況が良くなっているようだ。
 朝食後に少しゆっくりする、今日は検査が無いので本を読むにも余裕がある。日記の修正やメールの作成を継続する、ようやく私自身の問題も見えてきたし。昼食後、服を着替える、今日は一時外出許可が下りているのだ。12時半に、B君、KI君がお見えに、状況報告や雑談、元気そうと言われ安心する。
 13時に外出、本日の目的はATMでの引き出し(入院費用の支払い分)と、お買い物なのだ。KI君とB君が私が予想もしなかったようなルートを通るので驚く、曰く「事前にルートの下見は済ませてある」、もう、これには参ってしまう、来る前に事前に段差が無くエレベーターで移動可能なルートまで調べ済みだとは。最初にいきなり某ホテルのエレベーターを使い始めたのは驚いたけれど(笑)。書店と総合バラエティショップでお買い物、欲しい雑誌が2冊、それにプラスチックのカゴとか、ローリングクリーナーとか、細かいもの多数、みんなコンビニでは売っていない。店内を移動している時に、何で今日は二人で着たのか突然判った、B君が車椅子を押している時に、KI君は前の誘導と荷物持ちをやっているのだ。歩道とかコンビニ店内だったら一人でも可能だけれど、混んでいる書店やショップでは不可能だ。それが判ったときにはちょっと心を強く打たれた。うん、もう負けた(笑)、私は愛されているんだね。でも、サンタクロースのイルミネーションをベッドに飾ったり、サンタのコスプレはしないんでよろしく(笑)。14時に病院に戻り、外出終了、お二人はお帰りに。本当にありがたいことだ、感謝してもしきれない。
 15時に母が来る、明後日の面談をよろしく頼む、あとは父を励ますようお願いする。メソメソしては私の方が大変なんだから(苦笑)。15時40分に母帰る、何も欲しいものは無いので、疲れないように早く帰りなさいと即す。短期の入院治療じゃ無いので、今から気張ると持たないからね。管理センターに行って届いたアマゾンからの荷物を受け取る、ますます安楽な世界に。しかし、本屋で選ぶのとは異なり、タイトルと要約で買うとつまらない本も混じってしまうな、実は1冊は10分で不要と判断、そのままデイセンターの本棚に出してしまう、岩波新書は玉石混交だね。16時三崎君にメールで入院日記第一次修正版を送る。
 16時20分RTさんお見えに、本当にうれしい、何を言うのもうれしいのだ、20年のあれこれが頭を過ぎる、もう悩むのは無しにしよう。延々と話、18時にRTさんお帰りに、話は全然足りないので、また24日頃に来ると言うことに。夕食後、TY君、KS君お見えに、またしてもTY君の差し入れはマックのチーズバーガー3個、これは嫌がらせか(笑)、食後なんですけれど。「今からと、お夜食と、明日食べればバッチリですよ」、勘弁してください。でも食べたけど(笑)。マックのバーガーが美味しく食べられるのは病院ならではかな、個人的には朝マックのハムエッグマフィンが好みだが(笑)。18時半 にお二人お帰り、隠れていた(笑)RTさんがペットボトルのお茶を4本ほど差し入れて電光石火帰る、負けた(笑)。今日は実に気分が良い、読書後21時すぐに就寝。

11月16日(日):入院28日目

 5時10分起床、シャワー、洗濯からいつものコース。だんだん手順が自然に身についてきたようで、朝は流れるように進めることが出来るようになってきた、こうなればストレスも負荷も少なくなるな。
 朝食後、メールの処理と11/18に送信する同報報告メールの作成作業、終わってほっとする。昼食後は同人誌を読み耽る、14時姉が見える、頼んでいた静電気対策のグッズを貰う、これが欲しかったのだ、車椅子でワックスがけの床を軽快に移動していると、乾燥している日は静電気が結構発生するようで、エレベータボタンで押すのがちょっと嫌になる。明日の面談についてお願いをする。14時半姉もお帰りに、今日、明日とお時間取らせて申し訳なし。
 看護婦さんが麻酔科の説明書を持ってくる、別に問題ないのだけれど、ちょっと手順として納得いかないものを感じたので、不満を述べる。要はもう少し計画的に面談や承諾書、あるいは調査書を出して欲しいと言うことなのだ。検査をする場合、それが所定の目的を果たす率が99%というなら、二段階目の説明は必要無いが、90%程度だったら、10%の時に二段階目は何をするのか、その説明も承諾書も書類も、全部事前に渡して欲しいと思っているのだ。検査を行う、そこで面談、その結果が巧くいかない、そこでまた面談、というような形では無く、最初の面談で全部手順とプロセスと承諾書を用意して欲しいのだね。承諾書は患者側が用意し、あとは連絡だけで患者が出せば、家族や準備の負荷は減るのだ。
 しかし、それを看護婦さんに言ってしまったのは間違い、これは面談で言うべき内容だね。というよりも面談の時間から見て後でも良いような気がする。過ぎたことをあれこれ言っても仕方ない(笑)、未来につなげるようにしよう。後で看護婦さんに謝っておいたが、申し訳なし。これは患者としてのワガママの範囲だ、深く反省。
 15時にMO君、YN君、TKさん、MMさん、お見えに。COMITIAの中村君の結婚パーティー以来だからお久しぶりじゃないかな。MO君に聞いたら入院したと言うことしか教えてないと言うので、状況を全て説明、驚かれましたが、それは当然かも。でも、元気そうなので少し安心して頂いたのには助かる。YN君は、「岩田さんは強い」と言われたが、強いんじゃなくて、もう子供のようになっているのだ、好奇心が旺盛で、チャレンジが大好きで、そして全てが楽しくて仕方が無い子供のようになっているのだ、ちっとも可愛くないが(笑)。お見舞いでお菓子を沢山頂く、ああ嬉しいな、これが楽しみなんだ(笑)。17時40分まで笑いながら雑談。部屋に戻ってあれこれ話している最中にNS君がお見えになり、COMITIAとコスカの戦果をお持ちになる、もう何がなんだか判らない状態に。みなさんがお帰りになる寸前にさらにCTさん、YYさんがお見えに、すいませんベッドの前は総勢7人でどうすりゃ良いのか状態(笑)。MO君たちはちょうど帰るところだったので、そのままお帰りに、SN君も離脱、CTさん、YYさんには夕食なんで、18時半に来てね、とお願いする、もう滅茶苦茶だな。夕食後ベッドに戻るとベッド周りは混乱の極地(笑)。整理しないでデイルームに避難。18時半にCTさん、YYさん再訪、結局20時まで雑談で終始、とても病院では無いような話ばかり。CTさん、少し疲れ気味なんで心配、締め切り連続だものね。20時にお二人お帰り。病室に戻りベッド周りの整理と、NS君から頂いたCOMITIAでの連絡カードを整理する。1時間近くかかって整理し、知人関係に電話連絡を数件。この忙しさ、来週以後は怖いな。22時半に就寝。

11月17日(月):入院29日目

 4時半起床、直ちにシャワーを浴びる、5時にナースステーションに寄り、採血と消毒薬のチェックを受ける、消毒薬のチェックの結果は24時間後。朝のスケジュールを淡々とこなす、朝食後、採血検査室に行って出血チェック、耳たぶに針を刺して血が止まる時間を計るのだが、良好な結果。どうも私は傷からは出血するが直に止まる体質らしい。気管支鏡検査でもそうだったし。午前中はデイルームで日記の入力、途中看護婦さんがお見えになり、抗生物質のアレルギーチェックを行う、皮下に4本ほど注射して反応を見る。売店に行き飲み物を買う、1日にペットボトルで3〜4本飲んでいる計算になるな。昼食後は読書、ついでにアマゾンで文庫本や新書類をまとめて頼む。15時H先生との面談、これはちょっと省略。
 結局リスクとメリットを総合的に考慮して肺の扁平上皮癌としての治療開始に同意した、諸般の事情を考慮すると、治療開始のほうがリスクは少ないと判断できたから。これにより、胸腔鏡検査(手術)は中止し、明日より化学療法を開始する方向で了解。16時面談終了、すっきりした気分でちょっとハイになる。だって待ちに待った治療開始じゃないですか、結構際どい賭けなんだけれど。私の過去の亡霊がいるんじゃ仕方ない。何よりシャワーも食事も今まで通りとれるんだから(笑)。16時50分RTさんお見えに、お買い物ついでにちょこっと寄ったとのこと、でも実際は胸腔鏡手術が心配だとのこと。まぁうれしい、ご心配かけてすいません。あれこれ1時間ほど雑談、お帰りに。夕食を食べのんびりしながらメールチェック。
 20時半に母と姉が見える、H先生は待っていてすぐに面談開始、H先生の説明も丁寧で、母も姉も私の意向に全面的に賛同して貰える。その後、抗がん剤の説明とリスクについての説明を受ける。点滴2本を明日の午前中から始めるので、注意とか、これによる副作用とかを説明される、なるほど、脱毛なんて治療では関係ない話なのね(笑)。吐き気も抑えられるとのことですが最大の問題はアレルギー反応で、それは細心の注意を払ってチェックするが、強い毒性がある抗がん剤では私も注意が必要と言われる、気分が悪くなったり、少しでも異常や違和感があれば直にコールするよう、特に強く言われる。H先生からは、抗がん剤は2週間に1回の点滴を行うだけ(もちろん採血などの検査は行う)なので、最初の1クールが終わるまでは入院し、ある程度体調やパターンが掴めたら2クール目を外来で行うことも可能だと言われる。というよりも早めに退院しなさいと(笑)。H先生の主張はQOL(Quority of Life)を維持するために、日常生活に治療を組み込んで社会復帰して頂きたいとの主張でした。抗がん剤治療は基本的には7クール(3ヵ月半)なので、後半の3ヶ月は外来で問題ないということ。賛同できる部分も多々ありますが、足の運動障害をどう評価するかが難しいところ、H先生はその部分も2週間の中でどの程度日常生活が可能か評価して、どのようなスタイルが作れるか努力して欲しいと言われる。これは今月末か来月初めに判断しよう。また胸椎は放射線治療で行う可能性が高いが、抗がん剤と放射線の相性もあるので、化学療法の7クールが終わった段階で、効果測定を行い、そこで1ヵ月半ほど入院して放射線治療を行う可能性が高いと言われた、この時でも月〜金の1日1時間もあれば可能なので、外来でも不可能ではないとも言われる。うーん、最近の医療って面白いな、病院に縛って治療以外させないのでは無く日常生活の中に治療を織り込む形か。しかし、私の日常生活ってとんでもないんですが、H先生はご存知なのか(笑)。21時半面談終了、実に満足、母と姉はお帰りに。私は入力をして一段落。
 実際に自宅療養や外来治療に移るかどうかは、治療状況を見てから考えよう。とりあえず2クール目までは入院を保つことを考えておきたい。しかし年末まで入院してのんびり休暇と思っていたのになぁ(笑)。最もこれは病気が軽いということじゃないからね、実際にこの抗がん剤だって有効率は30〜40%程度で、半分以上の人には効かない、まぁそうなると次の組み合わせで治療と言うことになる。まぁ人生は様々だ、私に有効であることと、副作用が少ないことを祈ろう。24時就寝。

11月18日(火):入院30日目

 4時半起床、少し睡眠時間を短くし、点滴中に寝ていることも可能にしておこう、要するに昼寝作戦。5時に消毒薬チェック、意味がなくなったが、一応結果を返さなくては。朝食を取るはずが来ていない、胸腔鏡手術のキャンセル、ICUのキャンセルは済んでいたが、食事の復活入力を忘れたみたい(苦笑)、「すぐに来ます」と言われたのでデイルームで待っていたら、20分以上待たされ、周りの患者は暇なオヤジ連中なので晒し者扱い、待つのは辛くは無いけれど、からかわれるのは嫌だな、患者には注意も出来ないしね(笑)。少し度を越してきたので、食事を取らぬと言って病室に戻る。25分過ぎに看護婦さんが持ってきたが、申し訳ないけど気分が悪い食事は食べたくないと言って下げさせる。こういう時は、まず何分ぐらいかかるかを調理センターに確認して、その時間の倍を計算してはっきり告げるのが賢明、それだったら私は即時病室に戻って、食事が来たら呼んで貰えれば良かったのだから。「すぐに来ます」は10分が限界だろう。デイルームは食事を取ったり、面会をしたり、昼間休む場所であって、検査室とか待合室のように呼ばれるのを待つ場所ではない。看護婦長さんが謝りに見えたが、本当は患者さん側の問題なので謝られてもね。どうも私はオヤジたちにとっては面会人も多く、エネルギッシュでいつも楽しそうに振舞っているので、少し不快に思っているのかも(笑)。病院としてのミスに関しては、誰かが責任追及されるのも嫌なので触れずに済ませる。
 9時にH先生がお見えになり、直ちに点滴開始、ちょっと驚く、売店でパンか何か買ってこようと思っていたのに(笑)。まず吐き気止めから始まり、2種類の抗がん剤を3時間かけて点滴、その最中は確かに暇だ、猛烈に。ただ流れ込むのを見るばかり、仕方ないので読書に耽る。しかし、最初は5分おきに血圧と血中酸素を計るので忙しくて仕方が無い。アナフィラキーショック対策なんだろうけれど。抗がん剤は生理食塩水に溶けているので、まるでただの水のよう。トータルで吐き気止めとかと合わせて1.1リットルが点滴される。血圧上がる上がる(笑)。最高血圧は通常が128程度の私が、140へ、さらに148へと、アーップ。点滴中に昼食になったので、やむを得ず久し振りにベッドで食べる。食べ終わるのと、点滴終了が同時。点滴終了と共にトイレに、ペットボトル2本分の生理食塩水だものね(笑)。2時に血圧を測ると130に戻って通常の状態。午後はメール処理とか、文書作成とか。夕方までで何の異常も無いのでとりあえず点滴管も外してもらう。今現在で副作用とか全く無し、ちょっと期待はずれかな(苦笑)。17時にRTさんお見えに、印刷所との打ち合わせの前に寄ったとのこと、抗がん剤点滴についてあれこれお話、30分ほどでお帰りに。夕食後にメール処理継続、なにしろ200通もメール送ったんだから、その返信処理で大変。ふと、身体全体が重く感じていることに気がつく、これが副作用なのかなぁ、良く判らん。メール処理で時間を取られ、一度21時半に就寝したが、23時から2時までメール処理(遅すぎ)。

11月19日(水):入院31日目

 4時起床、メール処理、昨日はTY君とのメールやり取りでちょっと睡眠不足気味。朝も大量のメール処理継続、送られてくる励ましやお見舞いのメールには、定型ではなく、ちゃんと一つ一つ返すようにしている、それが誠実さの証のような気がする。大切な人たちから声をかけられた時に、「おはよう」だけを言うような傲慢さは避けたい。5時に処理終了、シャワーを浴びてリフレッシュすると、朝の定型メニュー。午前中は同人誌をゆっくりと読み、昼食後はメール処理。
 15時にデイルームで本を読んでいたら、サークルの方、R君、A君がお見えに、A君に至ってはデイルームで座っている私に気が付かない、そりゃA君失礼だぞ(笑)。確かに、げっそりと痩せ、真っ青な顔をしてベッドで寝つつ点滴管や酸素マスクが身体から伸びている姿を想像したら、実際に見たのは血色が良く頬もふっくらしている健康そうなオヤジだものな(笑)。「こんなの本物の岩田さんじゃな〜い」と言われるが、確かにここ半年は尋常ではなかったもの。お二人から素晴らしいお花を頂く、私を甘やかしすぎだよ(笑)。状況報告と雑談、途中、H先生が見える「どう?」「全く平気」「はっはっは、一週間後だよ、一週間後」そんな副作用のことで、脅してどうする(笑)。17時にお二人お帰りになる。その後はメール処理とかあれこれ。夕食後少し落ち着いてETベルの「数学を作った人たち」を読む、もう随分前に既読の本だが、今でも新鮮だ。22時半、疲れたのか急に眠くなったので就寝。

11月20日(木):入院32日目

 4時起床、メール処理、少し減ったかな、まぁこれから公開があると増えそうではあるのだが。5時に処理終了、シャワーを浴びてからベッド周りの片付け。その後は朝の定型メニュー、もう定型メニューがちっとも辛くない。自然に流れるように過ごせている、このパターンを仮に退院しても維持しよう。三崎君のサイトにアップされたことを確認する、さてはてどうなるか。朝食後にメールチェックと返信、この時点までのメールには概ね答えきったことになる、これで後は随時やれば良いので、ほっとする。足の感覚は、まだ左足は薄皮1枚越しの感覚だが、右足はほぼ正常に近い感覚まで戻ってきている。足先は両足ともまだ鈍い感覚だが。また右足は力が入りつつあるので、立ち上がるときにも手摺は不要になりつつある。
 9時20分H先生回診、現状の状態報告を行う。その後webサイトを見てまわる10時読書、アマゾンで注文した「鋼の錬金術師」1〜6巻一気読み、うん巧いし面白い。11時まで読みつづける。昼食後すこし落ち着いてwebの状況を見る、どこも私の報告や日記をどう扱って良いのか、距離を測りきれていない感じがする。重いテーマと軽いスタイルというのはnetでは苦手なのか。14時母見える、雑談あれこれ。15時半にお帰り。看護婦さんとお話した時にマスクの用意を薦められる、確かに白血球減少とかで日和見感染があったら困るからね。うがい液も用意したほうが良いかな?
 17時にCOさんとRKさんがお見舞いにお見えに、もう本当に嬉しい。で、何故か約束もしていないし病院も教えていない某印刷所のSが来る、君と面会予定は無いんだが(苦笑)。COさん、RKさんも面識が無い人なので困ったな、とは思ったが、無下にするのも大人気ないと思ってデイルームで話を始めたのだが、私が状況説明とかしていると、Sが私とCOさん、RKさん二人の会話に話に割り込むこと。しかもSが話すのは自分の病気の話ばかり。お前は見舞いに来ているのか、自分の病気語りをしたいのかと言いたくなるくらい。事前に連絡もしないで、いきなり来て、話を邪魔されちゃ我慢できない。その場で「S、帰りなさい」と宣告しました。それでも中々帰らなかったので、「早く帰れ」と厳しく言って追い出した。COさんと、RKさんは「あのーご親戚の方を追い出して良かったんでしょうか…」と言っていたことで、Sの状態が判るでしょ(笑)。印刷所のオヤジだと言ったら目が点に(爆笑)。
 Sの気持ちも判らないでもない、自分の病気の話、苦労、恐怖とかは誰かに話して「うんうん、判っているよ」と受け止めて欲しいと言う気持ちがある。しかしこの業界では、そんなことを受け止められるような雰囲気は無い。そこで機会があれば自分の病気語りを始めて止まらなくなるのね。今回は私のように動けないし、病気について話を聞いてくれそうだと言う格好のターゲットが居たから、見舞いに事寄せて病気語りをしに来たということね。だから見舞いで何をするかと言うことも何も無かったのね。でもこんなのは勘弁してくれ(笑)。COさん、RKさんとお話して気分は解消。夕食後に頂いたお花の整理。 19時半中々連絡が取れなかったAKさんとついに連絡に成功、当然ながら、状況報告から始まるので長電話になる、でも、これでやっとすっきりした、私の口から連絡を取りたい人だったからね。うん、思い出が何度も過ぎるね。20時半また来週電話すると伝えて電話を終える。何か定時連絡表でも作ろうかな。20時40分寝ようと思ってベッド回りのカーテンを閉めようと思ったらビスが抜けかかって閉まらない、もう明日修理しないと収拾がつかないような状態。あれあれ、とりあえず閉めないで寝ることにするが、明かりが漏れてちょっと寝難い、でも22時就寝。

11月21日(金):入院33日目

 4時起床、メール処理、昨日の日記アップの反響確認、さすがに扱い難いネタだから、どこも距離感を計るのに苦労している雰囲気。5時に終えてシャワーを浴びてから朝の定型メニュー。このパターンを仮に退院しても維持しよう、時間は多少は前後するだろうが。足の感覚は、本当に少しづつ良くなっているという実感がある。6時に採血、さぁこの結果が楽しみ、血球数がどう変動するか、どれくらい低下するかが化学療法の肝でもあるのだから。私としては、2割以下の減少でとどまれば良しというところ、理想は1割以下かな。
 朝食後、妙に身体が重く感じられる、デイルームで11/19分の日記入力をしていたら、急に何か身体が動きつらい状態になってきた、これかー、副作用キターと半分ワクワクしながら病室のベッドに戻ると、それより眠い感じがする。じゃと昼寝をしたら2時間ぐっすり睡眠、目が覚めるとちょうど回診のH先生がお見えに。「岩田さん、どうですか、出ましたか」先生嬉しそうです(笑)。「何か身体が重いと思って昼寝したら直りました、体調は大変良く、昨日睡眠不足気味だったみたいです、昼寝でスッキリしてます」と答える。H先生何かがっかりしているような雰囲気があるんですが(笑)。H先生には朝6時に取った採血結果をもうお持ちいただく。
11/17点滴前 11/21点滴後 標準値
WBC(白血球数) 6200 6400 4000〜9000 10^4/μl
HBG(ヘモグロビン) 11.9(L) 12.5(L) 14.0〜17.0 g/dl
PLT(血小板) 353 341 12〜38 10^4/μl
 ヘモグロビンは昔から低かったんだけど、この12.5という数値は過去最高。点滴前に比べると、白血球数が増えているんですけれど…。H先生「これだと予定通りに進められますね、じゃあと3日がんばって」また副作用の話かい(笑)。嬉しいな、治療が進められるのは良いことだ。しかし、私の身体は謎だ…笑。昼食後、勤務先にもメールで状況報告。
 16時、MIさんお見えに、差し入れがエロゲー「夜勤病棟」ってどうよ、これやっているのを看護婦さんに見つかれば、即退去だぞ(笑)。そんなに私にエロゲーをみんなやらせたいのか…。状況報告と雑談、「まぁこんなにでぶになって…」といわれるが反論できない、背中にまで肉がついたものなぁ。雑談中の16時半、さらにTCさん、YMさんお見えに、3人で雑談継続、いや楽しいな。でもこんなに大切にされちゃってもう申し訳ないこと限りなし。
 17時半みなさんお帰りに。ゆっくりする間もなくに夕食に。18時半にKS君とサークルTのKさん、Hさんがお見えに。本当に百聞は一見に如かずという通りなんだよね、私を見ると誰もが安心できる(笑)。雑談というより、冬コミの話題で盛り上がる。以前あった実話「恐怖のシャッター前」という話もあるし(笑)。20時半みなさんお帰りに。これであとは寝るだけかな、と思っていたら少しキツイ状況があって、対応で少しドタバタする。
 どうも、私が書いた文章を読んだ方とか、実際に面会された方で、過度の期待や楽観論を持ちすぎる方が少なくない。ここではっきり書いてしまえば、私の癌の状況では完治も全快も治癒も絶対無い、というかできない(笑)。これは少し調べれば判ることだろう、両肺に転移している多発性肺腫瘍で、胸椎に転移している事態は外科手術は不能で、化学療法や放射線療法も予後は決して良くないし、完治もありえない。ただ延命治療というか、癌との共存と転移を防ぐ対処両方なのだ、ただ今の医学の進歩は凄いので、昔だったら余命数ヶ月レベルだった状況でも年単位の延命が可能になりつつあるというところ。だからこそ日記では生存目標年を書いていたのだね。
 実は簡単に言えば、私は「見えない悪魔」と賭けをしているのだ、掛け金は私の命、賭けは次から次へと来る選択であったり、治療の結果であったり、言わば籤を引くのに似ている、「あたり」が出ればもう一本(笑)で次の籤を引ける、「はずれ」だとでかい賭けだったら一気に掛け金を失うし、小さな賭けでも元手が減ってしまう。今のところ賭けにはかろうじて負けてないところかな。私の味方は時間なのだ、勝負に決着がつかないで引き分けだったら、まだ続けられるのだから。そう、私は勝つより負けない選択を重視しているのだ。そのうち有利になる賭けもでてきそうだし。でも、最後は「見えない悪魔」に負けるのね、でもこれは全ての人に言えることなんだけど(笑)。
 疲労して寝る、22時半。

11月22日(土):入院34日目

 4時起床、メール処理とあれこれ、前日の負荷か、ややすっきりしない状態。やはりメンタルな面が今はすぐに体調に出る傾向があるようだ。とりあえず片付けて朝の定例メニュー、朝食後、H先生回診。ここで重要な内容を告げられる。

・副作用も全く無く、点滴後の血液検査やレントゲンの状況も悪くない、というよりも大変良い
・肺の結節の増加も、腫瘍の進行も現在は無い
・化学療法は14週実施することが見えたので、予定通り進めたい
・この状態だと入院している意味が少ないので、退院して抗がん剤点滴時に通院外来で対応したい、隔週で1日だけ通院して、点滴と検査を行えば充分
・岩田さんは退院プログラムと通院プログラムを用意してください
・病院で上げ膳据え膳で暮らしていると社会復帰が難しくなるので、日常生活復帰を行ってください
・運動障害に関しては、今月末から来月初めの状況を見て判断する、とりあえず整形外科と相談して障害者申請を行うほうが良いでしょう

 いや、ついに元気そうな患者は追い出されると(笑)、入院していると楽なのになぁ。私のほうからは以下のような内容で答えました。

・退院プログラム・通院プログラムは大至急作成します
・しかし、自宅自室の改装とかがあるので、もう少し時間がかかると思います
・家族及び勤務先と急ぎ相談をいたします
・火曜日に概略をお答えします。

 これでH先生は一応納得されたが、できれば12/2ぐらいに退院させようという気持ちがありあり、そんなに私を追い出したいのか〜(笑)。しょうがないので、今の予定を考えるが、問題は二つある、自宅自室の改装が必須であること、運動障害の程度による対応が必要なことだろう。自宅自室の改装は、不要な書籍やゴミ撤去、本棚の過半撤去及び移動、ベッド導入、自室レイアウト一部変更、自宅の階段(2階にある)に手摺の設置などがある。これをするために、一時帰宅で12/2手順作成、12/6大掃除&レイアウト変更を行うしかないな。これだと12/10〜12/14に全ての準備が整うので、12/16か12/17退院という計画になる。運動障害が今のレベルであれば、自宅内はステッキ+伝え歩きで問題無し、自宅から1階までは手摺&ステッキ、外は車椅子で行動可能だろう。リハビリが進めば外出用ステッキで近隣の移動は可能になる。これらの評価は12月上旬で考えればよいことだろう。障害者申請は急がないと困るな。今後の抗がん剤点滴は以下のようになると予想している(前後1日のずれはあるかもしれない)。

12/1第2回(入院)、12/15第3回(入院)、12/26第4回(通院)、1/12第5回(通院)、1/26第6回(通院)、2/9第7回(通院)

 これだと勤務開始も来年初めから可能になるかもしれない。やはり可能ならば仕事も続けたいし、今は仕事に対しても凄く新鮮な気分になっているのだ。ただ、日程はあくまでも概略なので、確定は12月になってからだろう。

 少し眠くなったので昼寝、1時間ほど寝た後、昼食後も昼寝を1時間ほどする。睡眠不足は良くないね。昼寝後、日記の11/20分まで入力。
 15時SさんOさんお見えに、状況報告して雑談、Sさん曰く「今まで長い付き合いだけど、今の岩田さんが一番健康そう」、Oさん曰く「もう見て絶対安心するよ」、そんなに私は今まで不健康そうだったか(笑)。17時ご安心頂いてお二人お帰り。夕食後に出向元の関係者お二人がお見えに、状況報告と今後の計画を説明する。色々とやらねばならないことも明らかになったのですっきりした。本当にお迷惑かけて申し訳ないことだ。20時お二人お帰りになる。20時50分就寝。

(おまけ)感傷的なワルツ

 これからは、私のプライベートなことを書いてみます、読みたくない方は飛ばしてね、ちょっと感傷的な文章だから。

 私は子供の頃、虚弱児童だった、重い小児喘息で何度も死線をさまよっている。 亡くなった祖父が夜に酸素ボンベを取りに病院に走り、一晩中マスクを当て続けていたことを鮮明に覚えている。どてらに包まれて深夜に病院に駆け込んでいったことさえ覚えている。子供の頃の記憶の半分は布団から見ている天井の模様だった。小学校に行っても2年生の頃は半分も通学できずに、確か先生が来て療養学校に行くことを進められたくらいだった。当時、千葉の富津かどこかにそんな全寮制の学校があったようだ。祖父も母も必死に反対したと聞いている。ようやくちゃんと通えるようになったのは小学校5年頃から、こうした子供は当時は子供社会には入れて貰えず、孤独だった。学校で存在感を示すには勉強しか無くて、クラスで1,2番の成績を取っていたが、それは反って孤立感を深めるだけ、今でも私には小中学校の友人は皆無だ。

 家ではとても大切にされたが、何となくそれは「私が虚弱でいるからだ」という意識が身について離れなかった。両親がとても大切にしてくれる、心配するのは私が弱いからで、心配させたく無いときは強く生きなければならないという相反した気持ちがずっとあったような気がする。

 高校生の頃、私は学生運動にのめり込んだ、それは今まで疎外されていたのが、多少弁が立つだけで尊敬されたり、仲間に入れてくれたからだ。そこに何か素晴らしいものがある、そう思えた。そして身を粉にしてやると、誰もが「凄い」「偉い」と言ってくれるのだ。はじめて何か私が生きている場を見つけられたような気さえした。それでも、セクトに入っていかなかったのは、そこには別の論理、力とか組織力とか仲間作りとかの、私が小中学校で一度も体験したことが無いものが重んじられていたことがあったからだった、臆病で保身が強かったのだ。

 大学に行くと、そんな仲間も無く、困っていた私に生協の人達が近づいてきてくれたのだ、彼らは私を仲間として扱ってくれたし、生協は「一人は万人の為に、万人は一人の為に」という素晴らしいスローガンを掲げていた。組織部に入り、学生理事になり、家にも帰らず全てを投げ打って生協運動に全力を尽くていた。

 この時、小学校時代の「私は虚弱だから愛される」という心理が働いたのだ。つまり、倒れそうになるまで頑張り、周りの人に尽くせば、大事にされるんだ、それは愛されていないかもしれないけれど、愛されることにいつかなるんだ、というような思考が生まれたのだ。さすがに大学生の頃ですから不器用だったが、多くの人が私についてきてくれた。嬉しかった、本当に。でもこんな考えで愛情は生まれない、だって誰も愛してはいないんだから。愛されることを望むだけで、それも自己満足の愛情を求めているだけで。

 何か埋められないままに、それでも初めて自分の居られる場が得られた大学生協に就職し、埼玉大学生協、電通大生協、早稲田大学生協と移籍して行った、どこでも「岩田さん来て欲しい」という言葉に魅せられて。今の所属の地域生協に移籍したのも、全く同じことだった。

 そして、この頃、コミケットを知ったのだ。

 コミケットは最初趣味だった、一般参加やサークル参加で遊びに行っていた、しかし、運営への不満や疑問を持つ中で、86年にスタッフで参加することになった。その時に、大学時代の快感の数倍を一気に得たのだった。やろうと試みることはいくらでもあり、そうしたチャレンジは次々と成果を生み出す、そして自分自身が倒れるまでやる、3時間睡眠でも貫徹する、ありとあらゆるシステムを再構築する、そんな尋常でない行動を取ると、多くの人が尊敬し大切にしてくれる。サークルの方から、作家の方から、友人から頼まれれば何とかする、皆が満足出来るようにする、そうすると、もっと大切にされ、もっと愛されるような感覚が得られた、もうまるで麻薬中毒患者だ。

 でも、決して愛されてはいないんだ、そう心は叫んでいたような気がしている。92年にスタッフの現役を引いて、裏方に回っても、サークルやみなとのつながりを消せないのは、麻薬のような快感が抜けなかったから。愛している振りをしているだけで、愛されているような快感。この頃は精神的に病気のような状態だったかも知れない。

 もちろん、こんな状態で愛する人が出来るわけは無い、「好きだよ」と言った人は何人かいましたが、みな私の嘘を見抜いていた。ある人は「あなたは本当は誰も必要としていない」という言葉を残した、「あなたは私を見ていない」とも言わた。そのうちにすっかり臆病になっていた、「誰かを好きと、愛していると言うからいけない、私は愛される人間では無いし、愛することもできないんだ」というようなことさえ思っていました。これは女性だけで無く、友人でもそうだったのだ。

 今年の初めに仕事をやめると言出だした時に、実は本当は辞めて失踪してしまおうと思っていたのだった。辞めると言うだけで次の仕事を本気で探そうともしてなかったのだから。今の出向先で「岩田さんが必要だ」と言われ、微かな例の「必要とされることで何か満足する」と言う麻薬が効いたのか、1年程度はお世話になるかと思ったりしていた、でも五十歳で区切りをつけて、あとは自分を捨てて機械のように、人から言われるままの生き方で良いかと思ってたのだった。

 そして、今回この病気で、誰もフォローできない、自分のことさえ満足にコントロールできない無力な一個人に初めてなった時に、私は自分が本当に愛されていたことを知ったのだ。多くの人が本気で心配し、次々と助けてくれる、そのどれもが何の見返りを何も求めない。知人に「俺はみんなに愛されていたのに初めて気がついた」と言ったら強く怒られた。「僕は純粋に思っているんだよ、ずっとそうだ、みんなも同じだ」泣きそうになった。何でもっと早く気がつかなかったんだろうと。私が愛せばそれだけで良い、倒れるまで無理しないでも、みんな見ていてくれる、もし甘えたいときは甘えれば良い、お願いしたい時は素直に頼めばよい。そんなことに気がついたのだ。馬鹿でしたね、こんな簡単なことを気がつかないのは。これからは好きな人みんなに言っていくつもりだ、「君のこと大好きなんだ」。愛する人には「君のこと愛しているよ」そう言おうと。

 見舞いに来てくれる人に元気な姿を見せるのは、最初は例の麻薬のせいだったと思う、「私に同情して、愛してね」という大馬鹿なパターンだね、でも、見舞いに来てくれる人はそんな素振りも見せず、みなが心配し、私を見て安心してくれるのだ。私が元気で安心してくれると最初は思っていたが、今はわかる、みんな私を好きで愛していて、心の底から心配していて、そんな私が元気を見せるので、わかって優しくしてくれたのだ。本当に私のことを無条件に大切に、愛してくれていたのだ。

 私には生きているうちにやらなくてはならないことがまだたくさん残っていることに気がついた。もっと多くの人に私の想いを伝えなくちゃいけない、それは、家族や親戚であり、職場の多くの仲間であり、コミケットのスタッフであり、多くの同人誌関係者であり、数え切れないサークルの人たちであり、知己の作家の方であり、出版関係の方であり、何よりも私の大切な人たちに。まずは一人づつ想いを真剣に伝えようと思っている。

 それが余りにも迂遠な回り道をした私にとって一番必要なことなのだ。

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