花のかげ辿りてうらら嵯峨野ゆく む三四

 二日目は嵯峨野から嵐山へ花を訪ねるコースだ。嵯峨野は平安時代貴族の別荘 や山荘が多く建てられたところで、いまも古都の面影を色濃く残している。
 桜や紅葉に彩られた社寺がほどよく点在し、その間を竹林を渡る風が案内して くれる。素晴らしい歴史と自然の調和が辿る人々のこころをなごませてくれる安 らぎのエリアでもある。

 先ず訪れたのは「大覚寺」である。大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門 跡」という。貞観18年(876)に嵯峨天皇の離宮を寺に改めた門跡寺院であ る。鎌倉時代には後嵯峨・亀山・後宇多法皇が院政を行なったので嵯峨御所と呼 ばれていた。
 真言宗大覚寺派の本山で、心経写経の根本道場・いけばな嵯峨御流の総司所と いう側面も持つ。門跡寺院というのは天皇または皇族が住職に就かれた寺院のこ とであるが、もともと嵯峨天皇の離宮として建立された経緯もあって御所風の雅 な雰囲気があふれ文化的な香が漂う寺院である。

 格式高い玄関を入ると、狩野永徳筆の金碧画「松に山鳥」図が目に入る。宸殿 の前庭には左近の梅(桜ではない)、右近の橘が配されている。また、重文の襖 絵なども有名である。さらに客殿、御影堂、安井堂、本堂と五大堂が続き、境内 の東側に大沢池がある。
 大沢池は奈良の猿沢池、大津の石山寺と並ぶ月見の名所として知られる。嵯峨 天皇が中国の洞庭湖を模して造らせたとされ、日本最古の庭苑池といわれる。
 池のほとりには心経宝塔、石仏、小倉百人一首に「滝の糸はたえて久しくなり ぬれど なこそ流れてなほ聞こえけれ」(大納言公任)と詠われた名古曽滝跡も あり、池をとりまく桜とともに見どころが多い。

  経堂の桜かすみに浮ぶかな  む三四

 次に訪れたのは地元で「釈迦堂さん」と呼ばれ親しまれている清涼寺である。 五台山清涼時は「源氏物語」の光源氏のモデルといわれる源融(みなもとのとお る)の別荘・棲霞観があったところといわれる。
 ご本尊は東大寺の僧・「然(ちょうねん)上人が中国より持ち返った釈迦如来 像で国宝に指定されている。この尊像は釈迦37歳の時の生き姿を刻み、インド から中国に伝わっていた尊像を、寛和元年(985)中国に渡っていた「然上人 が模刻して持ち帰ったものである。
 特筆すべきは、この尊像が模刻されたとき、中国の五人の尼僧により絹で作ら れた五臓六腑等が釈迦如来像体内に施入され、そのことが昭和28年の調査で発 見されたのだ。これは中国において千年の昔に、人間の体の構造が知られていた ことを物語るもので驚きである。赤や青の絹布で縫い上げられた内臓を霊宝館で 拝観することができた。むろん国宝である。
 3月15日のお松明式、4月の嵯峨大念仏狂言は、それぞれ京都三大火祭、京 都三大狂言として知られている。
 桜も写真のように多宝塔や鐘楼など境内にほどよく配され、春の寺として面目 躍如といえよう。

  釈尊の五臓六腑や花の影   む三四

 釈迦堂から嵯峨野道を15分余り歩いて名物の湯豆腐で昼食をとった。湯葉の 刺身など印象に残ったとっても美味しい精進料理であったが、食後の休憩時間に 徒歩10分ほどの落柿舎を訪ねることにした。
 土産物屋の店頭を横目で見ながら、ちょっと釈迦堂方向に戻るように進み、ニ 尊院の角を曲がると鄙びた小道に向井去来の墓の標識が見える。折角であるから 「去来」とだけ彫られた小さな自然石の墓石に手を合わせ「・・・・・・・」 (内緒!)。

 木立の中の小道が開けた田畑に変わる角を曲がると、茅葺屋根の小屋が見えて きた。蕉門十哲の一人、向井去来の庵「落柿舎」である。
 芭蕉も度々訪れたというが、茅葺二棟の質素な庵である。敷地内にはその名の ように柿の木がたくさんある。芭蕉の句碑、去来の句碑をはじめ8基の句・歌碑 が配された庭は広くはないが、整然と整備され落ち着いた雰囲気だ。玄関前にあ る去来の句碑には『柿主やこずゑはちかきあらし山』とある。玄関には、去来が 往時在宅を知らせるためにしたように、簑と笠が今も掛けられている。
 落柿舎の佇まいだけでなく、周囲の田畑の風情もなんとなく遠い昔を偲ばせる ものがあり、時間があれば半日でも庭のスツールにぼんやりと掛けていたい誘惑 にかられる。 桜は背戸に一本、ちょっと寂しげに花をつけていた。
 ところで「落柿舎」の名前のいわれは、江戸時代のある秋、去来が商人に庭の 柿を売る契約をしたが、この夜に嵐が吹き荒れ、柿の実が全て落ちてしまったた め、去来が代金を返したということからこの名前をつけたとされている。

  落柿舎の背戸のさくらや人恋し  む三四

 次ぎの訪問予定は、化野念仏寺である。嵯峨野の町並み保存地区を散策しなが ら緩やかな坂道をのぼって行く。趣向をこらした土産物店や名物の湯豆腐の店が 軒を連ねている。竹や和紙の手作りグッヅが目を引く。
 化野念仏寺は寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは約千百年前、弘 法大師が五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したという。 その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、正式名は浄土宗の華西山東漸院念 仏寺と称している。
 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々の お墓である。何百年という歳月を経て無縁仏化して、あだし野の山野に散乱埋没 していた石仏を明治中期に地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人 々になぞらえて配列安祀してあるという。
 思わばこの地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり 人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ場所なのだ。
 おびただしい石仏を拝するにつけ、限りある命、命のはかなさを思わざるをえ ない。西行法師も『誰とても留るべきかはあだし野の草の葉毎にすがる白露』と 詠われている。
 8月の23、24日に行なわれる千灯供養は荘厳、幻想的な行事として知られ ている。桜も数は多くないが、周囲や背景が石仏だけに一段と華やかに輝いて見 える。

  あだし野の仏の空もさくら色  む三四

 京都五山の第一位に列せられる天竜寺は足利尊氏が後醍醐天皇の供養のために 建立した歴史の寺である。ただ度重なる戦火により創建当時の建物はなく、現存 する諸堂は明治になって再建されたものという。現在も大方丈は改修中であった。

 特別名勝として名を馳せているのは、夢窓国師の作庭と伝えられる曹源池庭園 で、嵐山、亀山などを巧みに借景としてとり入れた池泉回遊式庭園としては最も 古い遺構といわれる。
 優美な王朝の大和絵風の伝統文化と宋元画風の禅文化とが融けあって、独特の 美を形成しているといわれる。松の緑と白砂、それぞれの意味をもって配された 岩石、水面に映る遠近の影、点景として華やぎを加える桜、たしかに落ち着いた 美しさに、こころが洗われるような感慨を催す。
 広い境内には桜も多く春らしい華やぎを演出している。かっては嵐山も天竜寺 の境内であったとか。

  花かゝる小屋根鋭し天竜寺   む三四

 広い天竜寺境内の桜を追って、裏門から竹林の緑のトンネルを抜けると「大河 内山荘」の入り口だ。
 大河内山荘は、かっての時代劇の名優・大河内伝次郎が百人一首で有名な小倉 山の南面6千坪の荒地に、昭和6年から(34才)亡くなるまでの30年間に心 血を潅いで作り上げた芸術的とも云える山荘なのだ。
 お抱えの庭師とともに日本の伝統の美を求めて、こつこつと映画出演料の大半 を注ぎこみ、いのちをかけて作り上げた作品ともいうべき山荘である。
 庭園には数多くの松、桜、楓などが巧みに配され、大乗閣、滴水庵などの和風 建築も見応えがある。就中、入園直後に出会う芝生の上の枝垂桜は息を呑むほど 美しく見事だ。

 展望も素晴らしく、近景の桜霞の彼方に洛西の街並み、徒然草ゆかりの双ヶ丘、 大文字、東山から比叡の峰峯まで、古都に浮んでたなびく雲のように眺められる のである。しかも、朝な夕な彩を変えるであろう嵐山を背にして・・・・・。
 入園料には抹茶と茶菓子のサービスがついているので、散策での疲れと興奮を 緋毛氈の上で癒し、記念館に向う。
 記念館には懐かしい「丹下左膳」のポスターや大河内伝次郎の芸歴を伝える展 示がなされている。一世を風靡した名優の足跡を辿ることが出来るのだ。

  山荘の春のいのちのしだれかな  む三四

 大河内山荘をあとに、大堰川畔にくだると、さすが「嵐山」、休日でもないの に大変な人出である。渡月橋の彼方、中ノ島公園あたりは満開の桜の下、人人人 の大混雑の模様。万歩計はすでに1万8千歩を指している、嵐山遠望で渡月橋も 渡らずに退散することにした次第。

 夕食後も、折角の京都の夜であるが、軽く祇園を散策するに止め、翌日の「哲 学の道」を初めとする遊歩に備えたのであった。

  花酔ひの人の流れや渡月橋  む三四

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