42.土佐国 高知県南国市比江  JR土讃線後免駅  02.11.2


男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。 
それの年の、十二月の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。そのよしいささかに、もの
に書きつく。
ある人、県の四年五年はてて、例のことどもみなし終へて、
解由などとりて、住む館より出でて、
船に乗るべきところへ渡る。かれこれ、知る知らぬ、おくりす。年ごろ、よく比べつる人々なむ、
別れがたく思ひて、日しきりに、とかくしつつののしるうちに、夜ふけぬ。 ...中略....
二十四日。
講師馬のはなむけしにいでませり。ありとある上下、童まで酔ひ痴れて、一文字を
だに知らぬ者しが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。


土佐日記の冒頭である。もちろん原文は仮名ばかりであるが、ここでは読みやすく仮名交じり文
にしてある。文中の解由はゲユと読み、国司交代の時に新任国司から受け取る書類で、任期中
過怠の無かったことを証明する書類。講師は国分寺の住職のこと。馬のはなむけとは餞別のこと。

土佐日記の著者紀貫之は延長八年(930)土佐守として赴任する。60歳を過ぎてからの遠国
赴任であった。延喜五年(905)に
古今和歌集を選進し、歌人としては当代随一であった彼も、
藤原氏全盛のこの時代では、官位はなかなか上がらなかったものと見える。

『土佐日記』の写本


土佐国府跡


土佐国府は高知県南国市の旧国府村にあったとされている。残念ながら国庁の遺構はまだ発掘
されていない。しかし、国庁をはじめ府中、内裏、くげ、神ノ木などの地名が残っており、古代
この地に土佐国府が置かれたことは、ほぼ間違いがないであろう。

国庁跡の説明版 土佐国衙跡の碑


土佐国府はここに眠っているのだろうか 地元の保存会による案内板


国司館跡


国庁から北へ少し行くと国司館の跡がある。歴代の国司の館であるが、いまでは最も有名人であ
紀貫之邸跡として保存されている。周囲は古今集の庭として、小さな公園になっている。これも
地元の国府保存会によって維持されている。地元の人々の土佐国府と紀貫之に対する愛着が
偲ばれる。

国司館跡
一面のコスモスが満開であった。
国府の碑
土佐のまほろば ここに都ありき


古今集の庭 庭にはきれいな小川も流れている


古今集に出てくる植物を歌と対比している。 楽しい趣向だ。
藤袴
やどりせし ひとの形見か 藤袴
  わすられがたき 香ににほひつつ
すすき
秋の野の 草の袂か 花すすき
  穂に出でて 招く 袖と見ゆらむ




土佐総社


土佐総社は国分寺の境内に、ひっそりとある。かっては国庁の近くにあったが、のちにこの地に
遷された。土佐の式内社21社を祀る。

土佐総社
満開のコスモスの向こうにこぢんまりと鎮座する
土佐総社本殿




土佐国分寺


天平十三年(741)の創建と伝えるから、諸国の国分寺の中でも早いほうだろう。
後に弘法大師により真言宗の寺として中興され、以来四国八十八カ所の第二十九番札所として、
今に至るもお遍路さんの鈴の音が絶えない。長宗我部氏、山内氏により寺領が与えられ、伽藍の
維持が図られてきた。大正十一年(1922)に境内全域が国の史跡として文化財指定を受けた。

仁王門
明暦元年(1655)山内家二代目忠義の寄贈
金堂(重要文化財)
長宗我部元親が永禄元年(1558)に寄進した。
寄せ棟造りこけら葺き。千手観音を祀る。


仁王像
明暦元年(1655)檜材寄せ木造り。
梵鐘
三河、讃岐の両国分寺の梵鐘とともに、創建
当時の様式を伝える。


大書院の庭
古代国分寺の塔の心礎を庭石にしている。
塔心礎
かなり大きなものだ。


土佐国地図



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