9.陸奥国 JR東北本線国府多賀城駅 宮城県多賀城市 ’97.5.28  '97.8.23 '01.11.16
                                          '05.10.15


陸奥国の国府は宮城県多賀城市にあった。多賀城碑によれば、鎮守府将軍大野東人によって、神亀元年(724)に初めて多賀城がこの地に築かれた。

多賀城は陸奥国府であるとともに、北方の蝦夷に対する前線基地でもあった。

延暦16年(797)、坂上田村麻呂は征夷大将軍として3万の軍を率いて多賀城に至る。それまで4次にわたる征夷軍は、時には10万を超える大軍を派遣したにもかかわらず、はかばかしい戦果を挙げられなかった。蝦夷はまつろわぬ民として、平安朝廷の頭痛の種であった。田村麻呂の第5次征夷軍は、激戦の末に蝦夷の本拠地胆沢城(岩手県水沢市)を攻略して、アテルイ、モレの敵将2人と、500人の捕虜とともに平安京に凱旋した。

永保3年(1083)陸奥守として多賀城にあった源義家は、北方の豪族清原氏の内紛である後3年の役に介入、義家の調停に反抗した家衡、武衡を討ち、清衡を助けて陸奥の地に勢力を築く。


多賀城碑

江戸時代初期に発見された多賀城碑は、天平宝字六年(762)の銘がある石碑で、那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)とともに、日本三古碑の一つといわれ、壷碑(つぼのいしぶみ)とも呼ばれる。

多賀城碑 多賀城碑の拓本

天平宝字六年、鎮守府将軍 藤原恵美朝臣が多賀城を修造した記念に建てられた。
高さ2メートル、幅90センチの自然石に碑文が刻まれている。

多賀城碑の拓本によると、下記のように刻まれている。

多賀城去京一千五百里
     去蝦夷国界一百二十里
     去常陸国界四百十二里
     去下野国界二百七十四里
     去靺鞨国界三千里
此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人所置
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝獲修造也

天平宝字六年十二月一日

ここで面白いのは五行目の靺鞨国である。まっかつ国と読むが、中国大陸沿海州の国であるという。最辺境の地にありながら国際的視野がみえるのが興味深い。


藤原恵美朝臣朝獲の最後の字はけもの扁に葛とすべきところ、字体がないので似た字をあてている。
仁部省は民部省のこと。恵美押勝が唐風に改めた。この時代の1里は約530メートル。

水戸光圀のアドバイスにより、碑を保護するように覆屋が造られた。(2005.10.15.撮影)



松尾芭蕉「おくのほそ道」にもこの碑は登場する。芭蕉がここ「壷碑」を訪れた
のは、元禄2年(1689)旧暦5月8日(6月24日)のことであった。

壷碑 市川村多賀城にあり。 
つぼの石ぶみは高さ六尺余 横三尺ばかりか苔を穿ちて文字幽(かすか)也。
四維国界之数里をしるす。この城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣
東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍惠美朝臣・修造而、
十二月朔日と有。聖武皇帝の御時に当たれり。
むかしより詠みおくる歌枕、おほく語伝えるといへども、山崩れ川流れて、
道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老いて若木に変はれば、時移り代変じて、
其跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳の記念 今、眼前に古人の
心を閲(けみ)す。
行脚の一徳 存命の悦び 羇旅(きりょ)の労をわすれて 泪もおつるばかり也。


この時から200年後、明治26年(1893)7月30日には正岡子規が、
ここを訪ねている。「はて知らず記」に彼はこんな風に記した。

市川村に多賀城の壷碑を見る、小さき堂を建てて風雨を防ぎたれば、
格子窓より覗くに文字定かならねど、流布の石摺によって大方はかねて
より知りたり。


  のぞく目に 一千年の 風すずし

昭和9年(1934)には歌人土屋文明が、次の歌を残した。

  麦生ふる 岡の芝生の のこされて 多賀城あとの 黒きいしずえ



陸奥国府(多賀城)跡


多賀城は神亀元年(724)、陸奥の国府及び鎮守府として創建された。ここは、一時出羽國も統括する按察使(あぜち)が置かれたことから、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた。

面積は30万坪、1辺約900mの築地塀で囲まれ、中央100m四方が政庁跡だ。

多賀城に赴任した官人には、著名人が多い。
八幡太郎義家は別格だが、日本初の金を産出した百済王敬福、万葉歌人大伴家持、征夷大将軍坂上田村麻呂北畠顕家、そして後醍醐帝により陸奥国守に任ぜられた義良親王(のちの後村上天皇)も、ここ多賀城に赴任している。

多賀城正殿基壇


正殿礎石 石敷き広場


南門跡 西脇殿発掘現場


政庁に至る階段


多賀城政庁復元模型


多賀城址は国の特別史跡に指定されていて、宮城県多賀城跡調査研究所が継続して発掘調査を続けている。また、史跡の整備や公開講座などにも積極的に取り組んでいる。

陸奥国府は多賀城とするのが通説であるが、近年、仙台市長町の郡山遺跡の発掘調査から、鎮守府を兼ねた国府が多賀城に先行して設置されていた可能性も出てきた。

ほかにも、岩沼市や福島市に置かれたという説もあり、たしかに国府に関連した地名が残っている。しかし、これらは南北朝時代の陸奥守北畠顕家の所縁の地名であると思う。このHPは律令時代の国府を扱っているので、中世以降の国府関連地名に関しては、詳細を省いている。


東北歴史博物館


多賀城址から東北本線の線路を南に渡って、少し東に行くと東北歴史博物館に出る。
これはびっくりするほど立派な建物だ。中の展示も充実していてすばらしい。

東北歴史博物館のエントランス


多賀城址から発掘された土器
中国産の陶磁器や、石製の帯飾り。
いずれも高位高官の使ったモノだ。
発掘された武器
後ろの黒漆剣は坂上田村麻呂のもの。
本物は京都鞍馬寺にあるという。


境の神
村々の境に建てられたワラ人形。お人形様と呼ばれるそうだ。


ワラの神々
村境に建てられる道祖神や、害虫や疫病退散を祈る行事に登場する。


食堂
池の向こうに江戸の民家が見える。
そば定食
1時間早く作ってもらったそば定食。
古代米のおにぎりが美味しかった。

陸奥総社宮


陸奥総社宮
政庁跡からさらに北へ行くと、陸奥総社宮に着く。 現在の社殿は、享保19年(1716)
の建立で、立派な日吉造りである。いままで見てきた総社は、いずれも5社か6社を合祠
したものだったが、陸奥総社はなんと100社が祀られている。当時の威勢がしのばれる。

掲額
陸奥総社宮は、陸奥国31郡の延喜式
神名帳記載の100社を祀る。
神木
境内には樹齢600年の老杉(奥)が、
220年の白木蓮と対のように並んでいる。
家族円満幸せの神樹として愛されてきた。

老杉に白木蓮の花化粧



歌枕二題

多賀城駅の反対側に、有名な歌枕の名所が2カ所あった。ついでにちょっと立ち寄ってみた。


沖の石
沖の石である。
なんとも興ざめな風景だが、平安時代は
海の中で風雅な景色だったのだろう。


我が袖は潮干に見えぬ沖の石の
人こそ知らね乾く間も無し
                二条院讃岐


百人一首に採られた名歌で、
千載集恋の歌にみえる。
二条院讃岐は、あの源三位頼政
娘である。

沖の石は若狭にもあるそうだ。
末の松山

さて、こちらは末の松山。

古今集巻二〇東歌に
君をおきて あだし心を我がもたば
末の松山 波もこえなむ

という有名な歌がある。

これを本歌とした
ちぎりきな かたみに袖をしぼりつつ
末の松山 浪こさじとは

は、後拾遺集に採られた清原元輔の歌。
元輔は清少納言の父である。


貞観の大津波
三代実録によると貞観11年(869)5月26日に、陸奥国に光をともなった大地震が起き、多くの家は倒れて人々は圧死し、城郭倉庫も壊滅した。さらに、雷のような大音響と共に海が盛り上がり、高潮が国府城下まで押し寄せ、1千人を超える溺死者が出たという。

のちに貞観の大津波と呼ばれる大災害であった。この時、国府の近くの小高い丘の上に一本の松が生えていた。大津波にも侵されず、見事に残ったと言われている。これが末の松山である。歌枕となって後世に伝えられた。古代の大災害が伝承として残った希有な例である。

この災害の記憶を踏まえて、上の古歌を読むとまた違った感興が沸いてくる。



陸奥国分寺

陸奥国分寺跡は、仙台市の東、木の下というところにあった。
仁王門

奥の薬師堂とともに、伊達政宗の寄進とされる。創建寺院の南大門の跡に建てられた。
間口3間(5.4M)奥行き2間(3.6M)の茅葺きで、左右の仁王像は運慶作と伝えられている。
仁王像に足が強くなるようにと、大わらじが奉納される。

薬師堂

紅葉が美しい。
慶長12年(1607)伊達政宗が、陸奥国分寺講堂跡に再建した。
桃山様式の単層入母屋造り。仙台最古の建造物である。(2001.11.16.撮影)


準胝観音堂

陸奥国分寺18伽藍の一つで文治5年(1189)に焼失したが、
享保4年(1719)伊達吉村の夫人長松院の宿願により建立、
現在の観音堂は伊達宗村が、延享2年(1745)長松院の菩提
を弔うため再建したもの。こぢんまりとして目立たないが、よくみ
ると趣のある建物である。


陸奥国分寺跡
古代の陸奥国分寺は、薬師堂の前にねむっている。
古代の陸奥国分寺伽藍配置
陸奥国分寺の想像図
七重の塔を回廊で囲んでいる。
金堂の奥の講堂の上に、伊達政宗が現在残っている薬師堂を建てた。

「飛鳥の寺と国分寺」
坪井清足著

金堂礎石

薬師堂の前には中門や金堂の礎石が、見事に保存されており
往時を偲ばせる。奥に見えるのは鐘楼。




塔跡
創建当時は威容を誇ったであろう七重塔の基壇と心礎。
七重塔は承平4年(934)に落雷のため焼失。

七重塔基壇 塔の心礎


盬竈神社(陸奥国一ノ宮)

陸奥国の一ノ宮は盬竈(しおがま)神社である。主祭神は鹿島神武甕槌神(たけみかづちのかみ)と香取神経津主神(ふつぬしのかみ)だが、
本来は別宮に祀られる盬土老翁(しおつちおぢ)だと思われる。
古くから塩業や漁業の神として(あが)められてきた。不思議なことに延喜式神名帳には記載されて
おらず、それより古い弘仁式(こうにんしき)主税式に祭祀料1万束とある。元禄4年(1691)正一位。

表参道
100段を超える石段を登る。
隋神門
表側に隋神、奥側に鹿の像を置く。

拝殿
朱漆塗りの社殿は銅板葺き入母屋造り。宝永元年(1704)竣工。国の重要文化財だ。

左宮本殿
武甕槌神を祀る。
右宮本殿
経津主神を祀る。
左宮、右宮とも檜皮葺三間社流造で、素木の簡素なたたずまいを見せる。
拝殿と同じく宝永元年の竣工で、国の重要文化財である。

別宮拝殿
塩土老翁を祀る。
武甕槌、経津主の両神を案内したとされる。
献魚台
大漁になると、漁師から捕れた魚が
奉献される。
面白い狛犬 なで牛

ぷちベート-ベン


97年8月23日は、仙台は国分町の「ぷちべーとーべん」の10周年というので
飲み仲間が集まってママの三千子さんを祝った。東北大学の吉野教授、
銀座の「あうん」のマスター矢作さんなどと楽しい夜を過ごした。
うーん、せっかくの美女も写真の腕が悪いから
形無しだ。ごめんなさい。

左は銀座は「あうん」のマスター矢作さん。

あれから8年の歳月が流れたが、三千子ママは相変わらず美しい。
上の写真の罪滅ぼしに再掲する。時は2005年10月14日。
左から湘南の杉浦君、京都の横田君、千葉の吉田君と。
参考までにプチベートーベンは、仙台の広瀬通から国分町を北に入ってすぐ右にある。
電話は022-263-3204。BGMはクラシック。静かで落ち着いた店だ。




多賀城付近地図


陸奥国分寺付近



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