1.三河国 愛知県豊川市国府 名鉄本線国府駅 '96.6.19  '97.8.27 '02.06.01
                            06.04.08

三河国は今の愛知県の東半分である。豊田市を発して衣浦港に注ぐ境川の東、岡崎市、
豊橋市、安城市、豊川市、豊田市、刈谷 市などが現代の市街地である。

この国の国府は、名鉄本線急行で豊橋から名古屋に向かって2駅目に「国府」 という駅
があるので知れる。「国府」と書いて「こう」と読む。


三河国府跡(02.06.01,06.04.08)

三河国府は平成3年(1991)から、13次にわたる発掘調査の結果、ほぼ全容が現れてきた。少なくとも、3回建て替えられたらしいことも判明した。8世紀の半ばから10世紀の中頃まで、この地に三河国府の国庁があったことが確認されたのである。


三河総社の東側に無住の寺、曹源寺がある。三河の国庁は、この曹源寺の境内に眠っていた。

前殿、正殿、後殿を南北直線上に配し、東西に脇殿を有する典型的な国庁建物で、第1期、第2期までは、瓦葺きの掘立柱建物であったが、第3期になると礎石建物になっている。第1期は8世紀後半から9世紀前半、第2期は9世紀後半まで、第3期は10世紀中頃までと考えられる。


曹源寺(06.04.08撮影)
総社の隣にある。いまにも朽ち果てそうだ。この寺の境内に三河国府の
正殿が眠っていた。


正殿跡
曹源寺の本堂。正殿跡が発掘された。
東脇殿跡
曹源寺の前の民有地から発掘された。


前殿跡
前殿が発掘されたところは花畑になっている。

羊形硯出土品 羊形硯復元模型
羊形硯は三河国庁の東200mの地点から出土した。
平成12年(2000)の発掘調査で8世紀後半の遺構から発見された。
羊形硯は平城宮跡から2点、三重の齊宮跡から1点、岐阜県美濃加茂市
から1点の4点しか出土例がない貴重なもので、平城宮や齊宮跡から出土
したものと共通点も多く、愛知県の猿投窯産と推定されている。


三河国府発掘現場(三河国府第13次調査報告書より)

小野小町と三河

ところで貞観年間(860年代)に、文屋康秀が三河国の掾に任ぜられ、任地に向かう時に、
小野小町に一緒に行かないかと誘った。その時の小町の返歌が古今集巻十八にある。

文屋のやすひで みかはのぞうになりて、あがた見には えいでたたじやと、いひやれりける返り事によめる。                             小野小町

わびぬれば 身を浮き草の 根をたえて
              誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ

この時の小町は何才の頃だろうか。50才は超えていただろうか。小町は康秀の誘いにより、この三河の国府に来たのであろうか。その後の結果はどの古文書にも記載されていない。

文屋康秀は、六歌仙のひとり。古今集仮名序に
「言葉は巧みにて、そのさま身におはず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし」
と評されている。下記の歌は百人一首に採られた。

吹くからに 秋の草木の しほるれば 
                むべ山風を 嵐といふらむ

小町ももちろん六歌仙の一人だ。古今集仮名序は
「いにしえの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩める
 ところあるに似たり」

と好意的である。百人一首に採られた小町の歌は私の得意札である。

花の色は うつりにけりな いたずらに 
                我が身よにふる ながめせしまに

 


三河国総社


三河国府に隣接して、三河国総社がある。南北朝期の棟札に、総社五八社大明神宮とみえる。


鳥居
県社総社の碑が立つ。脇には地元の小学校のクラスが植えた花壇がある。


拝所
社殿は垣に囲まれていて、垣の外から参拝することになる。狛犬に守られて堂々としている。
かたわらに村社本国総社の碑が立つ。県社に昇格前の碑であろう。


本殿
尾張造りの拝殿を持つかなり大きい建物だ。
国府遺構出土地
東側の林。国府の西脇殿が発掘された。


三河国分寺


三河国分寺は近年活発に発掘作業が実施され、ほぼ全容がわかってきた。
金堂、講堂を南北に配し、金堂の南に回廊を巡らし、回廊の西に塔を置いている。


三河国分寺跡
寺域は180m四方で、築地に囲まれていたらしい。
平成13年の調査では、寺域の北側からも、律令期のものと見られる大型の遺構が発掘され、寺の経営地域として独立した部署(院)を形成していたのだろうと推測されている。


現国分寺
この寺の本堂の下に天平の金堂が眠っている。天平9年(737)創建と伝える。
現存寺は確か曹洞宗の筈だったが、なぜか門前に南無大師遍照金剛の幟が
はためいていた。真言宗に変わったのかしら。


現国分寺本堂
この下に古代寺院の金堂がある。
梵鐘
平安時代の作と思われ、銅製で
重さ678キロ。国の重要文化財。

公民館の隣に塔跡の碑があるが説明版も無く、ただ荒れ果てたままである。
今後整備されるのだろうか。

塔跡の碑 塔の礎石


文化財保護用地
古代寺院の回廊の西南隅に
当たる部分にこの表示があった。
三河国分寺
ご住職が花がお好きらしく、
春の花が満開だった。


三河国分尼寺


三河国分尼寺の遺構は豊川市八幡町忍地に眠っていた。大正時代に忍地という地名から尼寺跡ではないかと発想して、最初の調査の鍬が入った。大正11年(1922)には隣接する国分寺跡とともに国の指定史跡とされた。
昭和42年(1967)から愛知県による本格的調査が行われ、平成に入って豊川市教育委員会が引き続き調査を進め、平成10年(1998)にほぼ全体の確認が終了した。平成11年(1999)から史跡公園への整備事業が始まった。

三河国分尼寺跡の整備がやっと終わり、史跡公園と資料館がオープンしたとの知らせを受けて、平成18年(2006)4月8日(土)訪問した。平成11年(1999)から6年がかりで、遺構上にあった清光寺を西に移転させるなど、かなり大規模な整備事業であった。

復元された国分尼寺中門
古代遺構の上に復元された。国産のヒノキ材を使い、古代と同じヤリガンナで仕
上げている。朱塗りの柱と緑の連子窓が美しい。連子窓を有する回廊は複式回廊
で内側、外側両側を通れる贅沢な回廊であった。


金堂の礎石
基壇上に置かれた金堂の礎石。
中央に須弥壇跡がある。
本尊阿弥陀三尊像が安置されて
いたはずだ。
この金堂の規模は国分尼寺としては
最大級の規模で、唐招提寺の金堂に
匹敵する。
鐘楼跡
金堂と講堂の間から発掘された。
左右対称に置かれ、西が鐘楼、
東が経堂だったと推定されている。
これは西の建物である。
桁行9m、梁行6mの礎石建物。
この遺構の上に清光寺の庫裏が
あったため比較的良く保存されていた。


講堂の礎石
経典の講義などを行った講堂跡。
北方建物跡
倉庫か書庫か、尼房の裏から発掘された。

尼僧の定員は10人。みな三河国の有力豪族の子女達で、一人に4人ぐらいの従者が居たという。
尼房は講堂の北側に建てられた。彼女たちは東大寺の戒壇で戒律を受けたのだろうか?


三河国分尼寺史跡公園全景
尼房、講堂、金堂、中門が見渡せる。手前の板塀も寺域を囲んだ塀の復元である。
寺域は150m四方で、周囲を板塀で囲んである。

三河国分寺(奥)と国分尼寺(手前)のイメージ図(三河天平の里資料館)


三河天平の里資料館
平成17年(2005)に開館した。
出土品の展示や研究資料を提供
している。写真撮影可も嬉しい。
新井さん
親切に案内していただいた。
30名のボランティアが協力していると
いう。

砥鹿神社(三河国一之宮)

三河の一之宮は砥鹿神社(とがじんじゃ)である。
豊川インターを降りて北へ行くとすぐである。
主祭神は大己貴命。標高789mの本宮山上に奥宮がある。

鳥居 神門


拝殿
折からの交通安全週間で、お祓いを受ける自動車が多く、
巫女さんは大忙しであった。


本殿
どうしても全体が見えない。
屋根が美しいのでどうしても見たくなる。
本殿
連子窓からレンズを入れて撮した。
檜皮葺流れ造りだ。

摂社えびす神社
主神大己貴命の子供の事代主神(えびす)
建御名方神(諏訪神)を祀る。
巨大なさざれ石
これは大きいさざれ石だ。
溶けた石灰石に小石が混じって固まったのが
さざれ石だがこんな大きいのは珍しい


豊川稲荷(おまけ2002.06.01)


豊川稲荷は、日本三大稲荷として東京、大阪にも別院を持つ。
豊川閣妙厳寺と称する曹洞宗の名刹である。
稲荷というと、宇賀神を祀る神社というのが普通だが、ここは、
仏教の守護神、ダ枳尼真天を祀る仏寺である。




境内は3万5千坪。本堂は総檜造りの堂々とした建物である。
「ワンシラバッタニリウンソワカ」と真言を唱えておまいりすると、
悪事災難は除かれ、福徳知恵がさずかるという。

三河国地図

             
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