金印の謎

天明四年(1784)、十代将軍家治の治世、中央では田沼意次が権勢をふるっていた。

三月十六日、筑前国那珂郡役所に志賀島甚兵衛という百姓が、田んぼの中から金印を発見したと届け出た。「先月二十三日に、叶の崎というところの自分の所有地の水はけが悪かったので、修理していたところ、石の間から金の印判のようなものが出てきた」というのだ、

鑑定を依頼された福岡藩校「甘棠館(かんとうかん)」の館長で儒学者の亀井南冥は、中国の史書「後漢書・倭伝」に書かれた次の記事に注目する。

建武中元二年(57)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。
倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。


光武は後漢を建国した光武帝。亀井南冥は持ち込まれた金印を見て、この後漢書の記事に思い当たったわけで、彼の博識と慧眼には感服するばかりである。彼のおかげで、この金印が大変貴重なものであることが日本中に広まり、福岡藩は発見者の甚兵衛に白銀五枚の褒美を与えた。

一辺2.347p。(漢代の一寸)
蛇の形をした紐通しがついている。
蛇の紐通し(蛇紐)は東夷南蛮の王に与えた。
紫綬金印を外臣の王に賜った例は少なく、
漢代を通じて、わずかに3例あるだけである。
破格の待遇といえよう。


「漢委奴国王」と彫られてある。
材質 金95%、銀4.5%、銅0.5%
質量 108.729g 比重 17.94
委奴国を倭の奴国と読むか、
伊都国と読むか論争が起こった。
印面は凹版で、日本の印鑑のような凸版
ではない。


金印の謎

1.発見者は誰?
  福岡藩の公文書にはっきり百姓甚兵衛と書かれてあり、庄屋の署名まである。
  ところが不思議なことに、志賀島村の当時の寺の過去帳に甚兵衛という名が
  見あたらない。当時の田畑名寄帳にも甚兵衛の田んぼが載っていない。

  さらに、当時の聖福寺の住職仙腰a尚は、書幅に「志賀島農民、秀治・喜平
  叶崎より掘り出す」と書いた。志賀海神社宮司の阿曇家に伝わる古文書にも、
  農民秀治が掘り出したとの一文がある。

  甚兵衛は百姓ではなく商人ではなかったか、そしてその土地の所有者では
  なかったか、百姓秀治と喜平が掘り出し、地主の甚兵衛を通じて役所に届け
  たのではないかというのが、推理としては面白い。
  
  「黒田家家譜」によると、文化六年(1809)、甚兵衛火事と呼ばれる火事があり
  110戸が延焼した。火元が甚兵衛だったらしく、火事のあと甚兵衛は島を去った。

2.委奴国とは?
  委は倭の略字で、奴は「の」と読むとして、「倭の国」だという説。
  音韻論から「伊都国」とする説。
  「倭の奴の国」と読む説。
  「わたくに」と読んで「海国」だとする説。などなど、、、
  
  光武帝の頃、「」という名で呼ばれる地域は、日本よりも広い概念で、
  内蒙古や南朝鮮、さらには南方の倭もあった。

  明治の学者三宅米吉の
  「委は倭なり。奴国はいにしえの儺県(なのあがた)、今の那珂郡なり。」
  というのが学会のおおかたの支持を得て定説となっている。

3.本物?偽物?
  志賀島から出た金印は、蛇の紐通しがついている。蛇紐の金印はそれまで
  中国本土はもとより、世界のどこからも発見されたことがなかった。
  そのため発見当初から近代まで、この金印は偽物ではないかという疑いが
  晴れなかった。

  1956年に中国雲南省で前漢代の「てん(さんずいに眞)王之印」が発見され
  これが蛇紐であったために、疑問は一気に氷解した。
  漢代の印綬制度では、漢王朝に仕える諸侯(内臣)は、黄金印に亀の紐。
  異民族の国家で漢に臣従したもの(外臣)は、、北方民族には駱駝や羊の紐、
  そして東夷南蛮の王には蛇紐の金印が下賜されたことが証明されたのである。

  唐時代の辞書「翰苑」の巻三〇蛮夷の部が、太宰府天満宮に伝わっている。
  それによると、倭国の記事の中に「中元之際紫綬之栄」とあって、紫綬の金印
  が光武帝より授けられたことが確かめられた。

4.なぜ志賀島に?
  最後の難問は、そんなに貴重な金印が、なぜ志賀島のような辺鄙な場所に
  埋められていたのかという疑問である。

  奴国が没落するときに、貴重な金印を奪われないように、わざと辺鄙なところに
  隠したのだとする説。石に挟まったように出てきたので、石棺と見て奴国の王墓
  とする説。志賀海神社の磐座だとする説、航海安全を祈願する、呪術的な祭祀
  遺跡とみる説などがあり、まだ定説にはいたっていない。

                         (参考資料岡本顕実著「志賀島の金印」)      

志賀島
(しかのしま)と呼ぶ。箱崎港から望む。
高速道路が邪魔だなあ。

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