![]()  | 
    
| 2007.11.03 2008.05.17 | 
| 三内丸山遺跡 | 亀ヶ岡遺跡 | 是川遺跡 | 
| 岩木山 美しい山だ。縄文の人たちもこの山を眺めて暮らしていたのだ。神の山に見えたことだろう。  | 
    
![]()  | 
    
| 三内丸山遺跡(縄文前期−中期 BC3,700-BC1,800) | 
| 縄文文化は1万年も前に始まるのだが、いまから5千年ほど前の時代、日本列島の最北端で華やかな文化が花開く。縄文前期と呼ばれる時代だ。その代表的遺跡が三内丸山遺跡。青森市の市街地から車で10分ほどのところにある。 | 
![]()  | 
    
| 三内丸山遺跡 縄文時遊館という立派な展示館から、遺跡に案内される。すべて無料というのは嬉しい。時遊館から外に出ると、縄文の集落が迎えてくれる。 三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期にかけて営まれた集落の跡である。精密な年代測定によると、集落の開始は約5,700年前、終末は3,800年前である。 この遺跡は江戸時代から知られていたが、平成4年(1992)から本格的な発掘調査が始まり、ほぼその全貌が見えてきた。栗、豆、ゴボウなどを栽培していたらしい。縄文時代といっても、狩猟一辺倒ではなかったわけだ。遺跡からは大規模な栗林が栽培されていたあとが発見された。 国の特別史跡である。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 高床式掘立柱建物 地面に生活の痕跡が無いので 高床式で倉庫に使われたと推定 されている。  | 
      茅葺き住居 柱は栗材を用い、萱を葺いた上を藤の 繊維やツルで作った縄で縛っている。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 樹皮葺き住居 栗やコナラの樹皮で屋根を葺いた住居。  | 
      土葺き住居 萱で葺いた上から、土を葺いてある。 断熱効果があるという。  | 
    
![]()  | 
    
| 六本柱建物と大型竪穴住居 左の建物は大型の掘立柱建物で、柱穴は直径2M、深さ2M、柱の間隔はすべて4.2M。柱は腐食を防ぐため周囲を焦がしてあった。 右は長さ32M、幅10Mの大型竪穴住居。長さ10M以上の竪穴住居は10数棟検出されている。集会所か冬期の共同住居と考えられている。 遺跡の寸法は、ヒトの肘から指先までの長さ35センチを基本寸法にしている。柱の間隔の4.2Mは35センチの12倍である。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 土偶 三内丸山遺跡から出土した土偶は、1,600点にのぼり日本最多である。 ちなみに第2位は、山梨県の釈迦堂遺跡だ。何らかの祭祀が行われていたのだろう。  | 
    |
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 台付き浅鉢土器 | 炉に使われた土器 | 
| 縄文中期の土器は、新潟や山梨などから出土する華やかな土器が印象的だ。それに比べると三内丸山遺跡出土の土器は地味だが、口縁上に波形が施され、胴部の文様も力強い。 | 
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 壺型土器 | 円筒上層e土器 | 
| 亀ヶ岡遺跡(縄文晩期 BC1,300-BC400) | 
| 三内丸山で栄えていた縄文中期の文化が衰え、今から3千年前ぐらいから、亀ヶ岡文化と呼ばれる縄文晩期の時代層が現れる。北海道から東北南部にわたる広大な範囲で、同質の文化が営まれた。その記念すべき遺跡が、亀ヶ岡遺跡である。大きな眼鏡をかけたような遮光器土偶でおなじみの遺跡だ。 | 
![]()  | 
    
| 亀ヶ岡遺跡公園 遺跡の跡は小さな公園に整備されている。近くに亀ヶ岡考古資料室があり、出土品を見ることが出来る。古くから知られ、出土品はすぐれた芸術品として、江戸の文人墨客に珍重され、「亀ヶ岡もの」の名で、オランダにまで輸出された。そのために乱掘によって出土品は四散した。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 永楽日記 津軽浪岡城主の子孫山崎立朴の日記。2代藩主津軽信牧(のぶひら)が元和8年(1622)亀ヶ岡城を築こうとした時に、不思議な瀬戸物が出てきたとある。  | 
      遮光器土偶 明治19年(1886)に出土し、宇宙人かと騒がれた遮光器土偶。東京国立博物館に所蔵され、国の重要文化財である。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 出土品(縄文館) 土器や石器など数万点に及ぶというが、上質のものはほとんど四散した。 遺跡の近くに縄文館という展示館がある。展示品の大部分は個人の所有物である。  | 
    |
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 深鉢形土器 | 台付き鉢形土器 | 
| 縄文も晩期に入ると、装飾性よりは実用性が重んじられるようになってくる。用途によって様々な形が作られるのも晩期の特徴だ。漆の技術が発達し、土器にも漆塗りが施されるようになる。 土器はよく磨かれ、光沢のある質感の高いもので、縄文土器の高度に発達した姿を伝える。 この亀ヶ岡式土器の出土層を以て、縄文晩期の始まりとする。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 壺型土器 | 台付き鉢形土器 | 
| 亀ヶ岡遺跡の出土品 亀ヶ岡遺跡からは土器以外にも、様々な出土品がある。東京国立博物館に所蔵されている主なものを紹介しよう。東京国立博物館は、ほとんどの展示物が撮影可なので嬉しい。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 遮光器土偶   (重要文化財) おなじみのシャコちゃん。 一本足ながら堂々としている。  | 
      土偶 非常に小さい。 女性を表しているのだろうか。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 土面     (重要文化財) 非常に精巧に出来た面。 遮光器の土面というのかな。  | 
      猪型土製品 猪の形をした土製品。 重要美術品である  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 石錘 | 鹿角製垂飾 | 
![]()  | 
    
| 鹿角製釣針 非常に精巧なものだ。  | 
    
| 是川遺跡(縄文晩期 BC1,300−BC400) | 
| 是川遺跡は八戸市郊外にある遺跡で、亀ヶ岡文化圏に属する。むしろこちらから津軽へ広がった文化ではないかともいわれる。亀ヶ岡遺跡が乱掘で、出土品が四散したのに比べ、是川遺跡は地元の泉山兄弟の手でよく保存され、四千点を超える出土品が散逸せずに残された。八戸市縄文学習館に展示されている。 | 
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 壁立式の竪穴住居 この住居から我が国最古の米粒が出た。  | 
      合掌土偶(国宝) 隣の風張遺跡から出土した。珍品である。 2009年3月、国宝に指定。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 漆入れ土器 是川遺跡からは多数の漆製品が出土 している。これは漆液を入れた土器。  | 
      漆塗り壺型土器 土器にも漆を塗った。弓などの道具、 耳飾りなどの装身具にも使われた。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 注口土器 | 壺型土器 | 
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| 土偶 これも不思議な形だ。  | 
      遮光器土偶 おなじみシャコちゃん。  | 
    
![]()  | 
    
| ずらり並んだ遮光器土偶の頭部 この大きい目はいったい何なのだろうか。  | 
    
| キリストの墓 | 
| 八戸から十和田湖に通じる国道454号線の新郷という村にある。例の竹内文書に記載されているという説話で、磔刑になったのは弟で、キリスト本人はシベリア経由で日本に渡り、この地で106才の天寿を全うしたとある。 ここに来るまでは、インチキくさい施設だろうと思っていたが、なかなかどうして上品なたたずまいで、人の良さそうなご夫婦が、落ち葉掃きをしておられた。ここは沢口家の墓地だそうで、沢口さんご夫婦だったかもしれない。とすると、恐れ多くもキリストの末裔であられたのかしら。 この地に来てからのキリストは、布教活動はしなかったそうで、クリスチャンは居ないということであった。  | 
    
![]()  | 
    
| ヘブライ語で書かれた記念碑 協力が駐日イスラエル大使とあるが、本当だろうか。  | 
    
![]()  | 
      ![]()  | 
    
| キリストの墓 十来塚といい、反対側の弟イスキリの墓の 十代塚と向き合って立っている。  | 
      資料館 なかなかおしゃれな建物だ。 ダイビデの星が印象的である。  | 
    
| 奥入瀬渓谷 | 
| 紅葉の奥入瀬渓谷(2007.11.29) | 
![]()  | 
    
| 奥入瀬の渓谷は、ちょうど紅葉の最盛期で、秋の落葉広葉樹林の美しさを、堪能した。 | 
| 若葉の奥入瀬渓谷(2008.05.26) | 
![]()  | 
    
| 翌2008年5月、再度奥入瀬を訪ねた。新緑が目にしみた。 | 
| 青森の縄文遺跡 | 
![]()  |