35.伊予国  愛媛県今治市上徳  JR予讃線伊予富田駅 2000.08.17



伊予国は、日本でもかなり古くから開けたところである。
古事記には、四国のことが伊予の二名の島として登場する。
古事記の冒頭の部分で、伊邪那岐、伊邪那美の神が国産みをする場面である。

ここに伊邪那岐命、先に「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、後に妹伊邪那美命、
「あなにやし、えをとこを」と言ひき。かく言ひおえて御合わして、生める子は、
淡路の穂の狭別島、次に伊予の二名島を産みき。この島は身一つにして、面四つ
あり。面毎に名あり。故、伊予国愛比賣(えひめ)と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ
粟国は大宣都比賣(おおげつひめ)と謂ひ、土佐国は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。



伊予国府

伊予を訪ねるに当たって、今治市の教育委員会に問い合わせたところ、文化振興課の
渡辺さんから、大変親切にも貴重な資料をたくさん送っていただいた。
しかし、国府の跡は推定だけで、はっきりしていない。
何度か有力な推定地を発掘しているが、確とした発見が未だ無いそうだ。それでも大体の
ことは解りつつあって、今治市の上徳地区が有力だという。当時の太政官道に近い富田小
学校あたりに、国衙のなんらかの建物があったらしい。

写真は富田小学校の正門である。



伊予国は上国であるが、歴代の国司には錚々たる名前が並ぶ。

貞観七年(865)藤原基経、天延二年(974)藤原道隆は後の関白だし、寛和二年
(986)藤原公任は和漢朗詠集の編者、平治元年(1159)には平重盛、文治元年
(1185)には源義経が任命されている。さらに建保三年(1215)には新古今集の
選者藤原定家が就任している。
実際に赴任したのは、平安初期の頃までであろうが、それにしてもすごいものだ。



伊予総社(伊加奈志神社)

伊予の総社も、はっきりしたことは解らない。これも教育委員会から送っていただいた
資料によれば、五カ所ほど候補の神社があるらしい。そのうちのひとつ伊加奈志神社
を訪ねた。というのは、近くに蒼社川が流れ、お宮のすぐそばに御旅所橋という名前の
橋を見つけたからだ。各地の総社を訪ねていると、総社に集まる有力神社の御輿が、
一時休むところが、御旅所と呼ばれることが多い。そんなことから素人の勝手な推定である。



この階段の急なこと、途中で蛇が横切った。おまけに手すりは蜘蛛の巣だらけ。



それでも延喜式に載せられた歴とした式内社で、「愛媛面影」という史書によると
この社が国司奉斎の総社明神と伝えている。



式内社の格式を伝える額と絵馬。でも、何様を祀ってあるかは解らない。





伊予国分寺

伊予国分寺は、今も真言律宗の金光山国分寺として、四国五十九番札所として
信仰を集めている。

創建期は不明だが、天平勝宝八年(756)道場具頒下の詔に出てくるので、孝謙
女帝の頃には完成していたものと思われる。行基上人の開創で、弘法大師が逗留
して、五大尊明王像を残したと伝えられる名刹である。



国分寺の境内を東に少し離れて、国指定遺跡の国分寺塔跡がある。
民家の中に埋もれてしまいそうだが、心礎を含む12個の礎石がある。
塔の規模は17.4M四方であったらしい。





伊予一之宮(大山祇神社)

伊予の一之宮は大三島の大山祇神社。祭神は木花開耶姫の父、大山積神である。
四国唯一の国幣大社で、日本総鎮守とされる。

創建は神武天皇の東征に先駆けて、小千命が四国平定を祈願して鎮祭したと伝えられる。
その後、元享二年(1322)兵火にかかり、鎌倉期末から百年かけて再建された。

古来から武士の尊崇を受け、全国の国宝、重文の武具類の八割が、この社に奉納されてい
るといわれる。宝物館には頼朝、義経の奉納による鎧や刀、為朝の弓、弁慶の薙刀などが
陳列されている。

また、神号扁額は平安時代の三蹟のひとり藤原佐理の手による。





道後温泉

松山に戻って、道後温泉に遊んだ。松山からチンチン電車で15分もしたら着いてしまった。
古代には熟田津(にぎたづ)の湯と呼ばれたが、各国に国府が置かれるようになると、国府の
ある所を道中、国府より都寄りを道前、国府より先を道後と呼ぶようになったので、この湯も
道後の湯と呼ばれるようになったという。

大国主命が重病の少彦名命を助けようとして、開いたと伝えられる日本最古の温泉で、
聖徳太子や斉明天皇、額田王などが訪れている。

道後温泉本館

温泉街の中心は、なんといってもこの温泉本館である。
夏目漱石が小説「坊ちゃん」の中で、この本館を次のように書いている。

俺はここに来てから、毎日住田の温泉に行くことに極めている。ほかの所は何を見ても
東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。、、、、、、、、、
温泉は三階の新築で上等は浴衣を貸して、流しをつけて八銭ですむ。その上に女が
天目へ茶を載せて出す。、、、、、、、、

こんな具合だ。だから私もかなり期待して、温泉本館の上等(今では霊の湯という)へ
1,240円出して入った。一日居てもいいのかと思ったら、80分の時間制限だという。
浴衣を借りて風呂場へ行ったら、なんということもない小さな風呂だ。「坊ちゃん」は
泳いだと云うから、よほど広いんだろうという先入観があったせいか、正直なところ、
「なーんだ」という感じがした。



あとで年譜で調べたら、温泉本館の建築は明治27年(1894)で、漱石が
松山中学の教諭として赴任するのが、翌年の明治28年だから、新築間も
ない頃で、それは「立派なもの」だったろう。

100年以上経った今では、外観はともかく、風呂も天目の茶もどうということ
もない。汗は引かないし浴衣は汗くさいし、、、、、泊まった旅館の大風呂の
方がよほど立派であった。



伊予国地図





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