64.石見国  島根県浜田市下府  JR山陰本線下府駅  2005.02.20


石見国は出雲の西に広がる細長い国である。山陰本線で出雲市駅を出て石見国へ入ると、大田、江津、浜田、益田と進み、山口線に入って津和野に着く。大田市駅から津和野まで直通の特急でも2時間以上かかる。古代には安濃(あの)、邇摩(にま)、邑知(おほち)、那賀(なか)、美濃(みの)、鹿足(かなし)の六郡からなる中国であった。

大和朝廷に政権を譲った出雲族が、西の宗像族と連合するのを牽制するため、大和から物部氏、忌部氏がクサビとしてこの地に入り、にらみを効かせたのだという説があるがどうであろうか。


石見国府跡


古代の辞書和名抄は、石見国府は那賀郡に在りと伝える。その那賀郡の浜田市に、上府(かみこう)、下府(しもこう)という地名が残っている。その下府に伊甘神社がある。この神社の周辺に、御所、御館府などの古字名が残っており、総社も合祀されているので、国庁はこの神社の周辺に眠っていると推定されている。


国府跡の碑
伊甘神社境内に国府跡と書かれた碑が
建っていた。
御所の池
神社の西奥に御所の池と称する池がある。
国庁の庭園にあった池であるという。


伊甘(いかん)神社(石見総社)

伊甘神社
祭神は天足彦国押人命。伊甘郷を開拓したと伝えられる猪甘首(いかんのおびと)の祖である
とも、小野氏の祖であるとも伝えられているが、石見国守であったと思われる柿本人麻呂の祖先神でもある。石見国庁の跡地に建てられたと思われ、印鑰神社の棟札が残っている。
石見総社の府中社を合祀してあるというが、どの社がそれなのかわからなかった。


鳥居
両脇に小さな境内社があるのも珍しい。
境内社
この中の一つが府中社(総社)なのだが。


金蔵寺(石見国分寺跡)


石見国分寺は金蔵寺という寺の境内に眠っている。昭和60年(1985)から国による発掘調査が行われ、12M四方の土壇上に8M四方の5重塔が建っていたことが確認された。さらにその北方から7世紀のものと思われる銅製の釈迦誕生仏が出土した。

私が訪れた時は、境内で新しい発掘が始まっていた。何が出てくるのだろうか。

延喜式の寺料は2万束。現在の金蔵寺は浄土真宗の寺である。

石見国分寺跡の史跡標 金蔵寺本堂


発掘現場 発掘現場から本堂を望む


国分尼寺跡

国分尼寺跡
これは無惨だ。いつまでこのままにして
おくのだろう。
廃屋
尼寺の跡地だが、国分僧寺が移っていて
この建物は僧寺の建物のはずだが。


石見国一之宮(物部神社)

石見国一之宮は大田市にある物部神社だ。細長い石見国の最東端で出雲国に接する。
大和朝廷から派遣された物部一族が、出雲族に備えて勢力を張ったところだ。西隣の江津市にある石見二之宮多鳩神社が出雲神の事代主命を祀るので出雲の勢力圏、その西の浜田市に鎮座する三之宮大祭天岩門彦神社は、忌部氏が創起したと伝えられているので、これは大和の忌部の支配圏。こう見てくると、大和朝廷に最後まで反抗した強力な出雲族を、物部、忌部という大和の豪族が、東西から牽制してきた歴史が、おぼろげながら浮かんでくる。


拝殿
祭神は物部氏の祖宇摩志麻遅命。背後の本殿は春日造。出雲の神社とは
だいぶ趣が異なる。


本殿
天文一九年(1591)吉川元春によって
再建され、その後火災に遭い現本殿は
宝暦三年(1753)の建立。
富金石
砂金を含んだ石で作られた手水石。
触れると財運が付くという。


歌聖柿本人麻呂の謎


石見国は万葉歌人柿本人麻呂の終焉の地だという。万葉集に次のような記事と、人麻呂の歌が載せられているので、石見国で亡くなったことは間違いなかろう。

柿本朝臣人麻呂「石見国に在りてに臨む時、自ら傷みて作る歌」

鴨山の 岩根し枕ける われをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ


ところで地元では、柿本人麻呂は石見国守であったと信じられている。しかし、万葉集のこの記事には「死」という字が使われている。「死」という字は六位以下の人の場合に使われ、五位以上は「卒」、三位以上は「薨」という字を用いるのが古代の用例であった。従って、人麻呂は六位以下であり、五位以上が任命される国守にはなれないというのが、有力な学説であった。

これに対し梅原猛氏が、「水底の歌」井沢元彦氏が「逆説の日本史」を書いて、反論した。
人麻呂は罪を得て刑死したのであろうというのだ。罪を蒙ると名前を変えられ、位も落とされるのが普通であった。本来ならば石見国守として「卒」と表記されなければならないところ、罪人として死んだので六位以下の「死」と記されたのだろうと主張された。私もそのように思う。なぜなら、人麻呂は各地に柿本神社として鄭重に祀られているからだ。恨みを呑んで死んでいった者に対して、神として祀るのは菅原道真の例でもわかる。同じ万葉歌人で人麻呂と双璧と見られる大伴家持などは、このように鄭重には祀られていない。古今集の仮名序でも、人麻呂と山部赤人は甲乙つけがたいとしながら、人麻呂だけを歌聖として崇めているのも、こうした事情を反映しているのではないだろうか。

人麻呂公の像
益田市高津の柿本神社にある。背後の紅梅に映えて美しい。
私の好きな人麻呂の歌をいくつか紹介しておこう。

・淡海(あふみ)(うみ) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

小竹(ささ)の葉は み山もさやにさやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば

(ひむがし)の 野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

嗚呼見(あみ)の浦に (ふな)乗りすらむ をとめらが玉藻(たまも)の裾に 潮満つらむか


人麻呂は鴨山で死んだことになっているが、鴨山がどこかは諸説有る。ほとんどは石見国だが、なかには奈良の葛城山とする説もある。しかし、もっとも手厚く祀ってあるのは、ここ、益田市高津町の柿本神社だ。伝承では終焉の地の鴨山は、高津の沖にあった鴨島で、亡くなったあと勅命で社殿をその地に建立したが、万寿3年(1026)大地震により海中に没したという。

万葉集に鴨山五首と呼ばれる一連の歌がある。人麻呂の死を悼んだ歌だ。
そのうちの一首は、前記の自らの自傷歌だが、それに続く四首は下記の歌である。

まず、彼の妻依羅娘子(よさみのおとめ)の二首
・今日今日と 我が待つ君は 石川の貝に交じりて ありといはずやも
・直に逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ


次に友人の丹比真人が人麻呂の気持ちになって詠んだ歌
・荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ

そして名前は伝わっていないが、同じように人麻呂の気持ちになって詠んだ歌
・天離(あまざか)る 鄙(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし


柿本神社の拝殿
創建は724年というからかなり古い。
本殿
変形春日造。折からの雪に映えて美しい。


県立万葉公園 なでしこ
我が宿に咲けるなでしこまひはせむ
      ゆめ花散るな いやをちに咲け


石見国国府・国分寺関係地図


石見国広域地図


国府物語のトップページへ