21.伊勢国 三重県鈴鹿市 JR関西本線井田川駅 98.05.30 98.10.10 02.09.20 
                                                         斎王の恋を末尾に追加しました。 


伊勢国は伊賀と違って大国である。伊賀が4郡を統括するだけなのに、伊勢は13郡を擁する。しかも、三関のひとつ鈴鹿の関が置かれた重要な国である。

伊勢国府跡

伊勢の国府跡が発見されたことを知った。98年10月、02年9月にその跡を訪ねた。関西本線の北側
に広瀬という集落がある。伊勢国府はそこに眠っていた。

伊勢国府復元模型
鈴鹿市考古博物館

国庁発掘現場
国庁東側に広がる官衙群を見つけている
のだろうか。
発掘の現場基地


政庁の南門が検出されたところ。
きれいに芝が貼ってあった。
西脇殿が出てきたあたり。
右手の森の中が正殿であったのだろうか。

広瀬町の矢下(やおろし)集落の田圃の中に、発掘現場があった。土曜日なので、作業は中断
されていたが、丁寧な作業がうかがえる。

発掘調査から判明した
伊勢国庁の規模は、桁行7間の正殿、後殿を南北5間の軒廊でつなぎ、
東西に脇殿を配した堂々たるもので、近江国府の政庁に酷似しているという。政庁の周囲には
東西80m、南北110mの築地塀がめぐらされており、建物はいずれも瓦葺き礎石建物であった。

造営時期は8世紀の後半と考えられ、この時期に礎石を置き、瓦葺きの建物を建てていたことは、
伊勢が大国の中でも特別重要な国であったことの現れであろう。

政庁の建物配置                     鈴鹿市考古博物館


熱気球の乱舞
なぜか、ここを訪れると決まってこの熱気球に出会う。
どこから来て、どこに帰るのだろう。



三宅神社(伊勢総社)

伊勢の総社は三宅神社である。延喜式に記載された由緒正しい式内社である。

小さいが雰囲気のある社だ。特に本殿のたたずまいは、総社らしい格調を感ずる。
主神は
国常立之神(くにのとこたちのかみ)、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)

鳥居から拝殿を望む 本殿


伊勢国分寺跡

伊勢国分寺跡は、国府址から鈴鹿川を隔てて、東北約8kmのところにある。鈴鹿市考古博物館が完成して、史跡公園の整備が急ピッチで進んでいる。

伽藍地の範囲は、一辺180Mのほぼ正方形で、築地塀で周囲を囲んでいた。中門、金堂、講堂が南北に並び、中門と金堂は回廊で結ばれる、いわゆる国分寺形式の伽藍配置で、中門と金堂の間は35M離れている。

金堂の基壇は平成12年(2000)に発掘され、東西28M、南北23Mであったことがわかっている。

鈴鹿市考古博物館の屋上より見た伊勢国分寺全景
きれいな花壇で伽藍配置を表している。これは面白いアイデアだ。
左隅の赤い部分が南門、中央のオレンジが中門、赤い花壇が金堂、碑の左の黄色い花壇が講堂である。中門と金堂をつなぐ丸い花壇の列が回廊を表している。塔はまだ発見されていない。


国指定史蹟を示す文部省の碑
この碑の西側に講堂があった。
東西33M、南北21Mの基壇が発掘されて
おり、20名の僧が仏典の講義を受けていた。
立派な説明版
ただし内容は乏しく、字も読みにくい。

中門から金堂を望む 国分寺の境界はコスモスが満開


発掘は今も継続している。
塔を探しているのだろうか。
瓦がたくさん発掘されている。
廃材捨て場だったとの説もある。


考古博物館。立派なエントランス。
展示よりも調査研究に重点があるようで、
発掘調査説明会や、資料の公開には熱
心である。
巨大な建造物
石器や土器に直接触れさせる展示は面白い。
右側の屋上に出ると、古代国分寺の跡が一望
に見える。




伊勢一之宮「椿大神宮」

伊勢国の一之宮は椿大神宮である。関東では全く知られていないが、
大変立派なすばらしいお宮である。




ちょうど夕日に照らされて、すばらしい美しさの拝殿。
主神は
猿田彦大神。社殿の造営は、第11代垂仁天皇の27年というから
驚く無かれ紀元前3年であるという。まさに日本最古の宮である。
猿田彦は天孫
瓊々杵尊(ににぎのみこと)を出迎え、高千穂の峰に先導し
たと伝えられる神である。山人の神として信仰されている。




天平11年聖武天皇はこの椿神社に親拝され、吉備真備に大神神面と獅子頭
を奉納させた。これに由来する獅子神による神事は、1300年絶ゆることなく
継承され、全国
獅子舞の宗家とされる。



別宮 椿岸神社である。
朱塗りの鳥居や柱が非常に美しい宮である。本殿に向かって右側にある。
祭神は
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)。あの天の岩戸の前で神楽
を踊った芸能の神である。ここで初めて知ったのだが、彼女は猿田彦の妻
なのだそうだ。




それにしてもこのお宮は美しい。気のせいかちょっと艶めかしい。



ここの、みたらしだんごは絶品で、上新粉を使ったすばらしい味だ。


伊勢斎宮跡


伊勢はなんと言っても伊勢神宮が中心である。98年10月10日に伊勢神宮に奉祀した、未婚の皇女たちの面影を追って伊勢斎宮跡を訪ねた。

近鉄斎宮駅の北側に、斎王の森と呼ばれていた木立がある。かっての斎宮の中心であったらしい。


斎宮の森 斎宮跡を示す石碑

斎宮駅前の屋外展示
2007年8月7日、以前に訪れてから、早や10年の歳月が過ぎた。久しぶりに斎宮を訪ねた。近鉄斎宮駅で降りると、駅前にかっての斎宮の1/10ミニチュアが復元されている。これには驚いた。しかし、残念なことに一望に見渡す場所がない。俯瞰出来ると全貌がつかめて嬉しいのだが。

歴史上確実な最初の斎王、
大来皇女(オオクノヒメミコ)の歌碑。

わが背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて
     あかとき露に わが立ち濡れし
大来皇女

天武天皇の第一皇女。673年斎王に卜定され
翌年10月皇女14歳で、伊勢に赴かされた。

上の歌は、伊勢まで訪ねてきた同母弟大津皇子が、大和へ帰るのを送って詠んだ歌である。大津皇子はその後謀反の罪で刑死する。父天武天皇の死後、あとを継いだ持統天皇は、自分の腹を痛めた草壁皇子に皇位を譲ろうと図り、人望のあった大津皇子を謀反の罪におとしたと云われる。

万葉集に載る大津皇子の歌。

ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を
    けふのみ見てや 雲隠りなむ

皇子の亡骸は二上山に葬られた。斎王を退下した大来皇女が、亡き弟を偲んだ歌。

うつそみの人にあるわれや 明日よりは
  二上山を 弟世(いろせ)とわが見む


斎王の恋

未婚の皇女を斎王に卜定するのだから、考えてみれば残酷なことだが
いくつかの恋物語が、歴史上に残っている。




稚足姫(わかたらしひめ) 雄略天皇の皇女
   土地の豪族廬城部連(いおきべのむらじ)武彦との仲を疑われて
   自殺する。

恬子(やすこ)内親王  文徳天皇の皇女 貞観元年(859)卜定 14歳
   伊勢物語の在原業平との恋のやりとり。
   君や来し われや行きけむ 思ほへで
       夢か うつつか 寝てか さめてか
   業平の返歌
   かきくらす 心の闇に まどひにき
       夢うつつとは今宵さだめよ

雅子内親王  醍醐天皇の皇女  承元元年(931)卜定 22歳
   藤原敦忠との恋を引き裂かれての卜定であった。
   敦忠の歌
   伊勢の海に 船を流して 潮垂るる
       あまの我が身と なりぬべきかな
   雅子内親王の返歌
   伊勢の海の あまもあまたになりるらむ
        われもおとらず 潮を垂るれば
   斎王退下ののち雅子は敦忠の従兄弟師輔の妻になってしまう。
   失恋した敦忠の歌。
   二葉より たのみしものを をみなへし
        ひとの垣根ににほひけるかな

徽子(よしこ)女王 醍醐天皇の皇子重明親王の長女 承平6年(936)卜定 8歳
   斎王退下の後、村上天皇に愛され女御となる。斎宮女御と呼ばれた。
   村上天皇の歌。
   吹く風の 音に聞きつつ桜花
        目にはみえずも すぐる春かな 
  徽子女王の返歌
   むかしとも いまともいざや おもほへず
        おぼつかなさは 夢にやあるらむ
   のちに村上天皇との間の皇女則子内親王が、斎王に卜定された時に
   娘に従って再度伊勢に下る。貞元2年(979)徽子49歳の時である。
   このことは、かなり話題を呼んだらしく、後に紫式部は源氏物語で彼女を
   六条御息所のモデルとした。

斎宮歴史博物館
近鉄斎宮駅から北西へ15分ほど歩いたところに、斎宮歴史博物館がある。平成元年(1989)にオープンした県立の歴史博物館である。


斎宮歴史博物館
遺跡の上に立てられている。


斎王の群行
天皇が即位すると、未婚の皇女が占いで斎王に選ばれる。卜定である。卜定された斎王は京都嵯峨野の野宮で1年間潔斎し、天皇の見送りを受けて伊勢に旅立つ。斎王の群行である。5カ所の頓宮で泊まりを重ね、5泊6日で伊勢の斎宮に入る。伊勢国守の出迎えを受けて、斎宮に入った斎王は、伊勢神宮への奉斎の生活には入るのである。


葱華輦(そうかれん)
屋根の上に葱坊主のような飾りがある
ので、葱華と呼ばれる。皇后、皇太子の
乗り物とされる。群行の際は斎王も
この葱華輦を使うことを許された。
土馬
斎宮跡の発掘が始まった頃に出土した精巧な土馬で、ここが斎宮跡である証拠となった記念すべき遺物である。土馬は、祈雨や祈晴の祭祀の際に、水神への捧げものとして使われた。斎宮跡からは30点出土している。


斎王の部屋
原寸の復元模型である。丸柱で板敷き、屋根は檜皮葺であった。


羊形硯
中国の影響を受けた硯。
各地の国府にも出土例がある。
ひらがな墨書土器
墨書土器の出土例は多いが、ひらがなは珍しい。女性の宮の証拠でもある。


伊勢国地図



伊勢神宮と斎宮跡



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