大阪圭吉ファン頁 エッセイその1

2002年02月17日更新

◆ 犯罪時代と探偵小説
◆ 作者の言葉(ここに家郷あり)
◆ 男子出生
◆ アンケート(記念号読後感)
◆ 小栗さんの印象など
◆ 海外探偵小説十傑
◆ ハガキ回答
◆ 會員通信
◆ 諸家の感想
◆ 作者の言葉(海底諜報局)
◆ 椰子の実up
◆ 停車場狂いup

犯罪時代と探偵小説  大阪圭吉
 新聞の三面記事を見ていると最近特に凶悪な犯罪が続出して、なんだかひどく世間が喧しくなって来た。青酸カリ殺人事件、肉親殺し、警官の偽装変死事件、若妻殺し等々いま迄に類の少い複雑味と惨忍性を加えてわれわれになにか漠然とした不安と義憤を抱かせ、毎日、新聞の三面を開く前に、何故かふと軽いスリルをさえ覚えさせるようになって来た。
 けれどもいうまでもなく、こうした吾々の興味の対照となる犯罪事件のニュースの中には只単にあくどい悪の世界があるだけではなく、そこには二つの相反撥する力が陰に陽に卍巴になって、人間の知識の中心にグルグルと無限の追ッ駈けごっこをしているのを見逃してはならない。警察力が新しい機能を駆使して悪辣な犯罪を摘発すると犯罪者は一層進歩した手段を以って、つまり警察側の裏をかくていの犯罪を作りだす。すると又警察側はその裏の裏をかくていの層一層進歩した捜査の研究に着手する。
 ひとくちに云えば犯罪と捜査とのイタチゴッコだ。こうした二つの力の中でも「犯罪」は毒々しく「捜査」は概して地味だ。だから人々は本能的に犯罪そのものの毒々しさに目を瞠ってややともするとその捜査面をうっかり見落す。けれども追々に人々の理智が進むに従って、又最近の新聞人の如く事件の報道を単に犯罪そのものの報道にとどめず、捜査機関の真面目な解決への推理過程をも、或る程度までそのニュースの中へとり入れつつある進歩的な現状を来すに従って、警察側の苦闘は段々人々の面前へ具象化されるようになって来た。
 これはまことに喜ばしい事でまたそうした犯罪の捜査面も注意して見ているとなかなか探偵小説的で吾々の詮索本能に訴える興味が深く、紙数がないから茲に引例を差控えるがホームズはだしの名推理が最近目立って頻出しはじめた。
 そこでいつも思うことだが例の有名な浅草の校長殺しや、又最近の銀行員の若妻殺しなどで、犯人が探偵小説のファンだなどとうそぶいたことから、とすると一部の人々は世の怪奇な犯罪が探偵小説の影響を受けているかのように思いまた云う。
 けれどもこれはひどく笑止な観察と云うべきで、そのような人々は犯罪そのものの中に探偵小説的なものを認めながら、一方犯罪の捜査面に一層探偵小説的なものも見落している人々ではあるまいか。また第一探偵小説を読んだからとて犯罪の実行力が出来る訳のものでは決してない。
 私など読むだけでは飽き足らず自分で探偵小説を書いてさえいる位だが、さて自分で犯罪するとなると考えただけでも■へて来る。

 いったい探偵小説の主なる情緒的な魅力はと云えば、まず第一スリルであってこのスリルなるものは却って臆病な善良な空想的な人でなくては本当に理解出来ないものだ。だから現実の大胆な犯罪なぞは既にそのアトモスフエアに於てすら根本的に異るのだ。してまた現実の犯罪なぞと云うものは、探偵小説的な一種の熱にかられた突発するなぞと云うような子供じみたものではなく、それにはそれ相応にもっと深刻な理由があるもので、いまさら探偵小説なぞと云う野暮臭いものが出て来なくとも、晩かれ早かれ早晩突発すべき各自不動の運命を担っているものである。
 よしんば時としてその突発する犯罪事件の外形に少しばかり探偵小説的な類似が見られたとしても、犯罪摘発の捜査機能が又前述の如く著るしく探偵小説化して、日進月歩新らしい理智のメスを加えつつあるとすれば、もはやこれは五分と五分で人間の知識を中心とした犯罪と捜査のメリー・ゴーラウンドであり、無限の鼬ごっこであり、この間にあって探偵小説は中心の知識と同様の位置にこそあれ、それ以上の険悪な役割りを買って出るものでは決してない筈である。
 いまや捜査機関は不断の意力を以って一層活発な研究を続けている。新聞は事件全体の正しい報道を目指しはじめた。そして日本の探偵小説にも、いままでの犯罪怪奇小説以外に、本当の意味での探偵小説が生れようとしている。(完)
(「新愛知」昭和11年 1月27日、28日)


ここに家郷あり (豊橋同盟新聞社)
大阪圭吉作、石川新一氏画
 大衆文芸作家陣の異色大阪圭吉氏と、二科水彩画会の特選組石川新一画伯との名コンビに依って、地方新聞界に未だ嘗て試みられなかった郷土文化宣揚の企画を発表致しました処、倖にも、読者各位から予想以上の好評御支援を賜りつつありますことは、本社として洵に欣快とする所であります。
 爾今、両氏は新しき歴史が展開しつつある今日、最も重大性を帯び来たった郷土文化の再認識と建設とを如何に成す可きか、この新時代に欠く可からざる主題を持ち来って、両氏とも心魂を打ち込んで鋭意創作の彩管麗筆を進めて居られます。
 或る時は涙をふるって郷土の陋悪迷妄を剔抉し、或る時は絶望の原野に希望の雨を降らして、大理想、花を開かせる時。宜しく地方文化の奥底を衝いた構想は、必ずや、読者の胸を躍動さすには措かぬであろうことを、茲に確信を以て申上げ、敢て御期待を乞う次第で御座います。


作者の言葉  大阪圭吉
 はじめて郷土の仕事をすることになって、私はいま、稍少年のような多感な気持になっております。その私の胸中に去来する感想を一つ――
 従来作家の中には、地方の仕事と云うとなにか安易なもののように考えて、作品の出来不出来は別として、仕事にのぞむ心構えの中に、妙に(息を抜く)と云ったような態度を見せていた人々が間々あったように思います。生活の本拠を地方に持っている地方人の一人である私は、そういう人達の仕事振りに兼ねてから甚だあきたらぬものを覚えて稍々いました。
 地方の人達の文化に対する感性というものは、決して左様に甘くないのであります。いやそれどころか、或る意味では、これ位否められず、純正で鋭敏な感性を持っている人達はないとさえ思うのであります。
 そこで私は、作家としてのあらゆる躊躇と困難をしりぞけ、誇りと責任を以って、この仕事を少しでも良い仕事にし、地方の新聞小説界に一つの革新機運を促してみたいと思っております。
 とはいえ決して私は、ヒチ六ヶ敷い小説を書こうと云うのではありません。皆さんと一緒に、明るく楽しく、希望と微笑を以て、戦う郷土の姿を、生れ出でんとする新らしい郷土の姿を、暫らくの間眺めてみようと思います。
(「豊橋同盟新聞」昭和17年 3月 5日)


男子出生  大坂圭吉
 去年の夏、暑いさかりであった。私は妻子を田舎へ残して東京へ出て来ると、一先ず青山のアパートへ腰をおちつけ、それから家を探しにかかって年末の十二月一日に、やっと小石川のいまのところへ家をみつけて引越し、妻子を呼びよせることが出来た。
 この、家をみつけるまでの約五ヶ月ばかりというものは、私の今までの生涯の内に於ても最もあわただしい、苦しい、にがにがしい、まるで熱病にでもかかっているような苛々とうっとうしい時期のひとつであった。
 私は以前に、借家難でくるしむ若い夫妻のはなしを小説に書いたことがあった。けれどもその時私は、間もなくその私が、小説の主人公と同じようなひどいめにあうであろうなぞということはユメにもおもってはいなかった。しかもその小説はユーモア小説であった。
 私はその五ヶ月のあいだに、いま東京で家を探す人たちがとっているであろう、凡らゆる家探しの方法をとり、そしてあらゆる失意の場合と憤慨の場合とにひと通り出くわした。新聞広告なぞはイロハのイで、二つの新聞へ三回ずつ広告したがハガキが一通来たばかりであった。そのハガキの知らせてくれた家というのはたった二タ間で四十六円という家であったが、昨日まで海軍大尉の方がおられましたとしてあったのでつい釣られて出かけたところがこれがとんでもないインチキで、詳しいことなぞ思い出すだに憂鬱になるようなしろものであった。私はこの家探しの期間中に或る現地帰りの軍人のかたと一寸お近づきになったが、その方は「どうも東京で家を探すのは敗敵を探し出すよりも苦しいです」といっておられた。兎に角私は、そのようにしてまず一人前の家探しの苦労をしたあげく、寒さも押し迫った年末になってやっと小石川の大曲近くにささやかな家をみつけることが出来た。尤も考えてみれば大体私のような人間が東京へ今どき出て来るというのがそもそもの間違いであって、こういう人間があるから借家難は益々深刻をきわめるのかも知れないが、けれども私としては物好きや道楽で出て来たのではなく、これでも徴用を受けたくらいの気持で出て来たのであるから、少しばかり何かとアテがはずれたことがあったとしても、そうやすやすと引さがるわけには参らぬのであった。おまけに、田舎の家に残してある家内は妊娠何ヶ月かで、このおなかが段々大きくなり、あまり大きくなったり寒くなったりしないうちにというのでヤイノヤイノと催促が来る。そんなことをいっても無理である。私だって昼間は勤めがあり、夜は夜で書けないながらも原稿紙に向わねばならず、出て来たからには色々な会にも出なければならないのであるし、家ばかり探していられるわけではないからもう少し辛抱しなさいと、ムシムシしながら手紙も書いたりしたあげく、兎も角もやっと家をみつけて、もう今にもこぼれそうなおなかをした家内と子供たちとを呼寄せることが出来た。尤も長女は国民学校へあがっているから、これはこの三月末まで田舎の年寄のところへあずけて置くことにした。
 ところで、あたらしくみつけて引越した小石川の家であるが、これがどうも私のような少しボーッとしたスローモーションの大男にはおよそふさわしからぬ、あまりにも東京的なところで、二階二間に下が玄関共二間というのであるから、まず家族の四人や五人が暮すにはこの時局に充分と思ってはいったのであるが、これがなんとやなぎ間とやらいう奴で、同じ六畳といっても畳の大きさが普通の大きさの四分の三くらいしかない。畳ばかりではなく万事がその調子である。まるで雛壇へのぼったようなものだ。この家へ少しばかり臨時に持って来た荷物を入れるといよいよ狭くなってしまった。家をみつけてようやく私の頭から離れさった数ヶ月来の憂鬱は再び私の上に舞戻って来た。
 憂鬱は、しかし家の狭いことばかりではなかった。元来私は、広い田舎の家で暮している人は、誰でも多分にそうであるように、大きな声で家内を呼んだり叱ったりする癖があった。で、この家へ越して来て数日後に、早くも私はうっかりそれをやりかけた。するといきなり家内は私の顔の前へサッと片手をひろげて「ご近所で何事かと思いますよ」とぴしゃりといったものである。とたんに私はグウの音も出なくなった。まったく、考えてみればここは近隣の密集地帯で、表の窓をあけても裏の窓をあけても家また家で、おまけに、聞こえるものといえば、朝から晩まで近所の女房どもの囀りばかりで、確かにいるには違いないのだが、男の声と来たらどういうものか今までにただのイチドも聞いたことはないのであった。謎である。
「チェッ。だから東京の男は意気地がなくなるんだ」
 私は癪にさわって、妙な負け惜しみを口の中でブツブツいいながらも、けっきょく黙ってしまうほかなかった。
 私は、いつのまにか日曜ともなれば、きまって長男坊を連れて家を飛出す癖がついた。動物園、植物園、海軍館、遊就館、鉄道博物館等々と寒い中を憑かれたように歩き廻った。海軍館なぞは私の幼い息子のお気に召したと見えて、ひと月の中になんと二度も、はるばる原宿まで埃りにまみれて出掛けたものであった。
 こういう状態の中にも、上京以来私が大きな声を出さなくなったので心ひそかに有卦にいっているらしい家内のおなかはどんどん大きくなって、とうとう二月下旬のある朝、玉のごとき男の子が生れ出た。ところが、ここに特筆すべきことは、その赤ン坊たるやわれながら優秀の作で、うまれ落ちるから、家内も私も、手伝いの義母も私の幼い長男も、いや近所近辺の人たちも、みんなびっくりするほどのおそろしく大きな声を出してギャンギャンと遠慮会釈もなく泣きはじめ泣きつづけるのだ。おどろきながらも、私は思わずうれし涙がながれ出るのをどうすることも出来なかった。今までの何かかう鳴りをひそめたような、肩のつまるような、シンキくさい沈殿しきったあたりの空気が、この瞬間にカラリと吹きとばされて、まさにあの十二月八日の再来を思わすような、真にスガスガしい気持に私をさしてくれたのだ。
 ――以来、私はすっかり元気になった。ざまを見ろ、とひそかに腹の中で誰へともなく手を叩いたり、「なに、家が狭いくらい、軍艦の中のことを思えばもったいない」なぞとケロリとして自分にいいきかせたりしている。
 ちょうど赤ン坊が生れたその朝、私が産湯のタライをかかえてうろうろしているところへ、郵便屋さんが、くろがね会からのこの稿依頼の手紙を持って来た。私は、早速うまれ出た赤ン坊は陸軍ではあったけれど、この真珠湾攻撃にも匹敵すべき爆発的感情を是非とも記録さして貰うことに決心した次第である。
(「くろがね」第2巻第3号)


アンケート  大阪圭吉
記念号読後感
 ( 一.シュピオ直木賞記念号の読後感
   二.最近お読みになりました小説一篇につきての御感想
一、乱歩氏編輯の傑作集がそれ自身傑作であったように、これもひとつの傑作であると思いました。こうしたケタの大きな仕事は、その仕事ひとつの正確さ完成さを楽しむと同時に、十人十色の優れた特色をも楽しむべきかと存じました。それで今度は甲賀、大下両先輩の各々編輯にかかわる同様の書物の出現を期待いたします。
二、アナトール・フランスの「曲芸師」?という短篇、ひとに借りて読んだ本で、七八篇の短篇と一緒に読んだのですが、その中でこいつが妙に頭に残りました。なんでもヘタな曲芸よりほかに能のない男が、人の見ていない教会の神様の前で精一杯、根限り、逆立ちしたりトンボ返りを打ったりしてお祈りするところがあるのですがあれはいい。あんな味の探偵小説も書いてみたいと思いました。
(「シュピオ」昭和12年 6月号)


小栗さんの印象など  大阪圭吉
 去年の十二月に甲賀先生が例の長谷川、平山、土師の諸氏と関西旅行の途次名古屋へ立寄られた際、先生を中心として井上さん始め名古屋のグループで一夕ささやかな晩餐会を催したことがありましたが、末席を汚さして頂いた私は、その席上で甲賀先生から色々と小栗さんのお噂など承給わった際、『今度君が上京した折には小栗君に紹介してあげましょう』とご親切にお約束下さいました。
 なにしろ例の怪物いまをときめく小栗さんに逢わして頂けると云うんですから私の悦びようも大変でした。で、今年の五月末雑用を兼ねて上京しました際、とりあえず甲賀先生宅へ参上したものです。あらかじめお電話いたして置きましたので先生の御親切なお取計らいで、『もう間もなく来られるだろうからゆっくりし給え』と云うわけでお世話になり序でにすっかりお言葉に甘えて待たして頂きました。
 なにしろ小栗さんと云えば相手が相手ですから私も内心少なからず固くなっていったいどんな怪物がいまにも現れるのか? しょっぱなからお前はあんな小説ばかり書いててはいかんぞなんて叱られはしないか? いやそれより若しもあの黒死館みたいな調子で終始応対されたらなんとしよう? あのように徹底的に強烈な作家だから或いは日常生活の上にまで激しい作風が押出していて、例の抽象と逆説と暗喩と暗合の素晴らしいベールにくるまっていられるのかもわからない。法水麟太郎氏はそれくらいの芝居気は充分ある。こいつァ益々油断がならんぞ。勿論小栗さんと私などでは役者が十枚も二十枚もけた違いで竪餅に黄粉でてんからとッてもつきッこない。そこえもって来てあの該博な智識やら堂々たる貫禄の圧迫やら韜晦的な話術やらでみるみるマかれてしまうに違いない。ああはるばる東京くんだりまでやって来ていままであちらで散々ぶちまけて来たボロをいよいよあらいざらいはたき出される時が到来したかとすくなからず憂鬱になってしまって甲賀先生と対座していながらいろいろと先生に御教示を願わねばならない貴重な時間をまるで唖みたいにむッつり黙り通してしまいました。
 けれどもこのような私の憂鬱をふっとばして間もなくまことに意外な小栗さんがやって来られた。私はその時まで小栗さんと云えば、失礼ながらもっとこう、なんと云うか虫の字みたいに口の曲ったおどろおどろしい人かと思っていましたが、あにはからんや颯爽たる白皙の美壮年? と云った感じ。よく動く鋭い眼。喰いしばった野心的な唇。精力的ないかり肩。ズボンのバンドをグッとしごき上げてはロイド眼鏡をキラキラと光らせながら辺を睥睨される時など寧ろ剽悍な印象をさえ受けました。
 ところが初対面の御挨拶をすまして座につくや否や、いきなり虫太郎氏は甲賀先生に向って、右手の指で左手首の動脈を押て、首を神経質に傾げて眉根に繊細なうれいを現わしながら少し鼻にかかった声で、『どうもまだいけませんよ』と云われたものです。
 聞けば小栗さんは大分はげしい心気症らしくそれに余り健康もすぐれられないらしい。私は『どうやら体だけは私のほうがうわてだな』などと妙なところでひどく悦に入ったものでした。小栗さんはそれからもしょっちゅう手首を押えては脈摶をみていられたがその掌指の私共百姓じみたんと違ってひどく華奢で美しいのには、またその掌指にもましてお顔の肌の美しいのには驚いた。引き締った鋭い白い顔の中で時々大きな眼玉がぎょろぎょろと神経質な鋭い視線を投げかける。失礼ながらその大きな眼玉やすき透るように白い頬を見ているうちに私はいつしか能面の展覧会で見た『生盛』という確か女物の面の肌合をなぜか妙に思い出したものでした。
 小栗さんの御話しは『黒死館』のように六ヶ敷くはない。寧ろ私などにとっては調子を下げていて下さるのか若々しく親しみのあふれた、それでいて能動的な激しい刺戟にみちたものでした。
 先生宅を失礼してからの帰り途で、大変御親切に私の今迄の立場や今後の方針やらについて色々とお訊ね下さった上、東京へ出て来てはとおすすめ下さった。
 二三日してからもう一度今度は世田谷のお宅へ上ってお眼にかかることが出来ましたが、その折例の『白蟻』を頂きました。この傑作については相変らず各方面で問題にされているし私などたださえ批評など苦手の処へもって来て作品がとてつもなく大きいので只々感銘を重ねるばかりですが、あの御本の巻末の推讃文は三氏三様の風格がしのばれてわけもなくうれしくなりました。
 ともあれ小栗さんは偉大だ。どこからどこまでずばぬけている。けれども流石の小栗さんも健康だけはどうやら私以下だ。早く丈夫になられて私ごときにこのように巾ったい口を叩かせぬようにして下さい。では、重々の失礼お許し願います。
  十、八、一七
(「探偵文学」昭和10年10月号)


海外探偵小説十傑  大阪圭吉
海外探偵小説十傑
A、海外長篇探偵小説を傑作順に十篇
B、その第一位推奨作に対する寸感

一、樽           クロフツ
二、黄色の部屋       ルルー
三、アクロイド殺し     クリステイ
四、グリーン家の惨劇    ヴァン・ダイン
五、赤い家         フイルポッツ
六、赤毛のレッドメイン家  フイルポッツ
七、矢の家         メースン
八、トレント最後の事件   ベントリー
九、白魔          スカーレット
十、再び起るべき殺人    マイヤース
 やっぱりイザとなると古色蒼然たるものばかり並べてしまいました。中でも樽はその構成美も今更ながらロンドンのドックに上げられた樽の動きから始まる匂ばしいあのロマンチシズムと全篇にじっくり漲り渡ったクソ落着のリアリズムをともすれば奇から奇を追い過ぎたがる流れの一隅にいて時折むしょうに懐しまれてなりません。真似のできない世界、してまた真似のしたくない世界、それは昔の恋人のようにどうにもならない楽しさだ。
(「新青年」昭和12年新春増刊号)
 注)5位「赤い家」フィルポッツは初出誌のママ(正しくは ミルン)


ハガキ回答  大阪圭吉
T.読者・作家志望者に読ませたき本、一、二冊を御挙げ下さい。!
U.最近の興味ある新聞三面記事中、どんな事件を興味深く思われましたか?

T○小栗虫太郎氏の「白蟻」
 ○井上良夫氏訳フィルポッツの、「赤毛のレッドメイン家」
  (但しこれは近刊の由)
U新聞の三面には案外に面白いものが間々ありますが、なかでも約一年程前に、一寸した記事ですが、ひどく面白い事件をみつけました。けれどもこれはまた、他日素材の一部にして一篇をものにしたいと存じていますので、茲に発表できないのを至極残念に思います。
(「ぷろふいる」昭和10年12月号)


會員通信  大阪圭吉
くろがね会に対する希望  − 或いは感想を求めたハガキの回答文
青少年時に海に目覚め海に憧れることの出来た人間は終生を通じて海のよき友になると思う。それで私は海洋に関する啓蒙文藝はあくまで青年を対象として書き度いと思っている。むろん真に読者を陶酔せしめるような作品はやはり長篇(書下し)の形式によるのが一番いいと思っている。
(「くろがね會報」昭和16年12月号)


諸家の感想  大阪圭吉
一、創作、翻訳の傑作各三篇
二、最も傑出せる作へのご感想
三、本年への御希望?

一、創作は色々な意味で次の三篇を挙げたく思います。
  「人生の阿呆」「二十世紀鉄仮面」「船富家の惨劇」翻訳の方はまだ充分眼を通していませんし、又昨年に比し振るわなかったと思います。勝手ながら左の一篇を挙げたく思います。
「ポンスン事件」
二、清純な気品と真剣味の溢れた作として、「人生の阿呆」を推します。傑作ではなかったかもしれませんが、うれしい作品でした。破綻はありながらも、問題の掴み方に於いて無類です。
三、今年出来なかった、書卸し長篇の出版が、少しづづでも実現されて行くこと。
(「探偵春秋」昭和12年1月号)


作者の言葉  大阪圭吉
 いよいよ始った。
 英米に対する宣戦の大詔は渙発され、帝国対米英は戦争状態にはいった。遂に来るべきものがやって来たのだ。我が勇猛果敢なる陸海部隊に対し、ABCD各国の烏合の衆は、小癪にも抗戦を開始しつつある。だが、これと同時に、帝国国内に対する彼等の第五列的暗躍も亦、愈よ本格的に熾烈化しつつあることを我々は忘れてはならない。
 過日、或る知人が私に云った。いよいよ正面切っての戦争ともなれば、帝国国内に残留する敵国人は、まづその目的を拘束されて、秘密戦は終息しないまでも一応下火になるであろう、と。
 翔んでもない妄言である。事実は全く逆であって、長期武力戦と共に秘密戦は一段と飛躍的に活発となり、今まで白昼堂々と帝国国内をノサバリ歩いていた敵国間諜は、これから、俄然地下に潜入していよいよその本領を発揮し、あらゆる秘密手段を講じて、諜報に、宣伝に、謀略に、益々陰険悪辣な大活躍を開始することは火を見るよりも明らかなところだ。我々は断乎として、之等の見えざる敵を厳重に監視すると共に、政府の施策を絶対に信頼して必勝の信念を固く持し、あらゆるデマを排撃して、断々乎として我等の祖国を守り通さねばならない。
 私が、この物語の執筆を終ったのは、ちょうど戦端開始の旬日前であった。従って物語は、全体として戦争前夜の状態に於て書かれてあるが、しかし、作品の中に盛り込んである精神と心構えは、戦争開始後の今日といえども毫も変化はなく、いやそれどころか、一段と強調されるべきものであることはいうまでもない。
 とはいえ、むろん本書は、堅苦しい理屈の書物ではない。戦時下一日の任務を終った各職域の勤労戦死諸兄に、あくまで明るく面白く、楽しみながらも国土防衛の関心をいささかでも高めて貰いたい意図のもとに書上げた、謂わば(武装せる慰安の読物)である。
 また、私は、今まで他の小説を執筆する傍ら、防諜小説も幾つか発表して来た。が、特にこの長篇に於ては、海の護りの重大さを強調したく、特に材を海洋に取って執筆した。大東亜戦は既に火蓋を切った。敵は、海の向うにいる。海国民たる我々は、まず海を渡らなければならないのだ。一億こぞって海に親しみ、海を識り、海を征服しなければならないのだ。
 私はこの本を以って、敵に投げつける(紙の爆弾)の一つだと自ら信じている。敵が放つてよこすであろう謀略の(紙の爆弾)に対する防衛の(紙の爆弾)の一発だと信じている。むろんこれからの防諜防衛は、いよいよ広範囲の国内体制全域に亙って行われなければならない。従って、二篇や三篇の防諜小説で以って、それらの全体に対する示唆を盛込むことなぞ到底不可能である。そこで私は、出版その他の事情の許す限り、この第一弾についで、今後も第二弾第三弾と、次々に新らしい(紙の爆弾)を放ちたいと思っている。幸いに本書を手にされた読者諸兄が、筆者と共に、このささやかな(紙の爆弾)をして有力なる発火をさして下さらば、望外の幸せである。
 昭和十六年十二月
   大阪圭吉
     しるす
(『海底諜報局』 昭和十六年十二月十五日発行)


椰子の実  大坂圭吉
 私がまだ東京へ出ない前、この夏の始めの頃のことだったが、田舎の私の家の近くから出征している知合いの水兵さんが、とつぜん久し振りに休暇を貰って帰って来ると、ひょっこり私を訪ねて下さった。
 もう大きな子供さんが二人もある年配の人で、むろん立派な古参の一等水兵なのであるが、いつのまにか顔色なぞまっ黒に陽焼けし小さな口髭なぞ生やしたりして、最初顔を見た時にはちょっと見違えたほどだった。
 この水兵さんが、小脇に大きな椰子の実一つ抱えて、私のところへ持って来て下さったのである。
 そんな貴重な品をいただいてはと一応私はお断りしたのであるが、水兵さんはこともなげにわらいながら、どっしりと重たげにその椰子の実を家内の手に渡すと、素朴な口調でさしつかえない程度の勇壮きわまる海の話をきかしてくれるのだった。
 この水兵さんの仲間達は、重大な任務を一応すまして基地に戻ると○日間(原文のママ)休暇を与えられたのだそうであるが、基地から郷里までの距離の短い人は自分の妻子のところへ泊ることも出来るが、遠方の人は夜行列車で来てちょっと家の者に顔を見せ、すぐその日の汽車で帰って行くという忙しさだった。で、その水兵さんもその忙しい組の中の最も忙しい一人であったので私はすっかり恐縮してしまって少しも早く奥さんや子供さんのところへ帰そうと思うのだったけれど、水兵さんは割に呑気そうな顔で、こうして基地に戻る度毎休暇が頂けるのですから海軍は有難いですよ、なぞといいながら、相変らず律儀な様子で話をきかしてくれるのだった。が、それでもやがて、水兵さんは帰って行かれた。私はなにもなかったけれど、家でお招きする代りに粗末な女房の手料理を子供さんたちのところへ届け、水兵さんが帰られる時刻に駅まで見送りに出た。すると又水兵さんは、久し振りに遠い戦地から朝帰って来て、すぐまたその日の昼に戻って行くあわただしい夫を、父を送って来た奥さんや子供さんのところから離れて、私のところへ来ると、妻子のことなぞまるで眼中にないような顔つきで男同志の話をはじめるのだった。私は心苦しくなってふと時間表を見るようなふりをしながら、水兵さんの前をはなれた。すると水兵さんはやっと妻子のそばへ帰って行った。男の子が二人、水兵さんの膝につかまって、これから再び万里の征途に就いて行くお父さんにしきりにお小使いをねだりはじめた。すると水兵さんは、その子供を小さな声で叱っていた。
 ――そうして、水兵さんは再び元気で太平洋へ乗り出して行かれた。
 私は、はるばる南洋の土産にいただいた生れてはじめて見る中味のある椰子の実の、充実した重量感を膝の上にのせ、滑らかなその表皮をなぜながら、水兵さんとその一家の上を思い、それからまたその水兵さんと同じようないっそう多くの将兵さんたちの上を思いいいようもない感慨に思わず一夜をふかしたものであった。
 それから私は、毎夜のように、そのラグビーのボールみたいな大きさの椰子の実をドッシリと膝の上に乗せては、夕刊を読み、ニュースを聴くようになった。「食べられるか食べられないかわかりませんが、なるべく早く食べて見てください」とその水兵さんは云い置いて行かれたが、私にはなかなかその椰子の実を割って見る勇気は起きあがらなかった。
 生れてはじめて見る中味のある椰子の実が田舎者の私にとって珍しく、早く食べてしまうのが惜しかったからというばかりではなく、あのように忙しい旅路の中を、はるばる提げて来てくれた、それはまるでその品を届けてくれる為めにばかり帰って来られたような、その椰子の実のただならぬ貴さを思うとなかなか手が出しかねるのであった、まったく私は、その水兵さんを慰問するためにいかほどのこともしていなかったのに、却って逆にその水兵さんから、私にとっては世にも貴い品でお土産を貰ったのだ。私はいつまでもその椰子の実の滑らかな肌をなぜつづけていた。
 ところが、そのうちに、とつぜん私は、田舎住いを切りあげて、一応家族達と別れ東京に出ることになった。つい最近のことである。とうとう私は、東京へ出る前の夜に、その大事な椰子の実を思い切って片附けることに決心した。私は、ありとあらゆる私の家族を椰子の実の前へ集めて、時ならぬ別離の宴に花と添えるべく、椰子の実の料理にとりかかったのであった。
 私はまづ、家の中にあるだけの大工道具を整えた。それから腕を組んで、何処から穴をあけたものかと思案した。家族たちの中からいろいろな意見が出た。けれども、やがて私は決心して、椰子の実の頭のほうへ、いちばん太くて長いキリを突刺してみた。思ったよりもやわらかに穴があいた。ところがそれからはいくら突刺しても手ごたえがなかった。穴の幅を少し大きくしてみることにして、キリをジャックナイフに代えて、ゴシゴシと穴の周囲を削りはじめた。けれどもいくら削っても、掘り下げても、手ごたえはなく、粗いオガクズのような新鮮な繊維ばかりがモクモクと掘り出されて来た。が、それでもやがて私は、随分深いところで、ひどく堅固な核をさぐりあてることが出来た。その核へ穴をあけるために、ナイフとキリの先を折ってしまった程の恐ろしい堅さであった。が、兎に角穴はあいた。私は急いで傍らのコップを引寄せその上へ椰子の実を逆立ちさせてみた。すると、コトコト、コトコトコトコト……なんともいえない、まるで酒樽の呑口を切った時のあの音を小さくしたような、ひじょうに軽快で、涼しげな、一種独特の音を立てながら、薄い乳白色に濁った果汁が、流れはじめたのだった。
 むろん、味はうまかった。尤も、年寄や子供たちは、ひとくち呑むと、ちょっと妙な顔をして、それからはどういうものか余り喋らなくなってしまったけれど、私は大へんうまいと思った。年寄や子供達が、妙な顔をしたのは、たぶんその果汁が、少し青臭かったからであろう。けれども私は、その独特の味とあの果汁が流れ出る時の、印象的な不思議な音とを、ちょっと忘れ兼ねるほどだ。
 兎に角、私はそうして、待望の椰子の実を片附けると、その翌日から東京へ出て来てしまった。これからは、私が、あの袂れの停車場で、小遣いを欲しがる子供をタシナメていた水兵さんに対して、いやその向うにあるもっと多くの同じように立派な海のつわもの達に対して、椰子の実のお返しをする番である。私は、それをしなければならない。私の椰子の実は、もっと青臭いかも知れない。けれども、いくら青臭くても、誠実を以って仕事にのぞんだならば、物堅い勇士たちは、きっと微笑を以って私のお返しを受けとって下さるにちがいないと思う。(八月四日)
(「くろがね」昭和17年8月号)


停車場狂ひ  大阪圭吉
 妙な打明ばなしで恐縮するが、もうかなりまえから、私はひとつの変なくせを持っている。尤もくせというほど度数の多い、ハッキリしたものではないが、ふッと思い出したように、時たま、それをするのだし、そして又ほかにそんなことをするような男は、あんまり大勢はなさそうなところを見るとやっぱりくせといっても、大した誤りではないかも知れない。
 別に人に迷惑のかかることでもなければ、又人目につくような不自然なマネをするのでもなく、ただ多くの旅をする人々と一緒に、停車場で待合室のベンチにボンヤリ腰をおろしていたり、構内をブラブラしてみたりする。いってみればこれだけのことで、敢て妙――というほどでもないのであるが、しかし常態でないのは、そうして旅をする人々と同じようにして停車場へやって来ていながら、その癖旅をしないことである。出札口には用がない。尤も時とすると、白地に赤線のはいった入場券を買うことはある。けれども、そうしてホームの人波の中に立って、発着する列車を前にしながらも、しかしその時の私の心の中には送る人もなければ、迎える人もない。ただ汽車を見るのである。
 切りつめていってしまえば、停車場では人々は、誰れも彼も、切符と時計と汽車と行く先き先きの旅そのものに没入しきっていようというのに、そんな時の私は、全々それらのものとは無関係で行動する。少くとも行動するところの結果はそんな風になる。けれども私は、スリでもカッパライでもなければ、落付きどころのない宿無しというわけでもない。為すところは旅をする人々と全く別で、汽車も時計も切符もてんで関係ないかに思われる。けれども私の心は、その時、旅をする人の誰れにも劣らぬほどの、旅人になり切っている。悲しく、楽しく、慌しく――謂わば、停車場だけの旅――
 こんな旅もあるものかと、だから私は、時々苦笑するのである。
 いったい私は、子供の頃から旅への憧れは強かった。いきおい、汽車とか停車場とかが好きになる。探偵小説を書いても「とむらい機関車」なぞというのが出来上ったりする。尤も子供の時に汽車や停車場の好きだった気持の中には、鉄道の持つメカニカルな美への単純な理解が、かなり含まれていた。それが追々長ずるにつれて、あの鉄だらけの世界の中に、漸時、人間的な生なましい情感を覚えるようになって来た。全く汽車くらい、停車場くらい、哀楽に満ちた人の世の臭気の、深々と染み込んだものはない。
 尤もこんな風に云ったからとて、私も、全々旅をしたことがないわけではない。少しばかりの貧しい旅の思い出はある。そしてその旅の思い出の貧しさは、必ずしも旅への愛の貧しさとはならないのであるが、その貧しい旅の思い出の中でも、いつも最も旅の旅らしさを覚えるのは、行った先の山でも海でも宿でもなくて、停車場なのである。
 冬の夜の汽車の旅で、疲れ切った浅いまどろみが、コトンと止った名も知らぬ停車場の静けさにふと眼のさめた時の、あのいいようのない淋しさ、窓ガラスの内側にしっとり掛った水蒸気の曇り、それをボンヤリ透して見える赤や青の信号灯と同じ色を光らした冷たいレールの堪えがたい静けさ、しかもきまってこんな時には、向うの方で休憩中の機関車が吐き出す廃汽の音が、手にとるように聞えて来るのだ。いつでもそんな時私は、たとえそれが悲しい旅をしている時でなくても、堪えかねて、窓にかかった蒸気の曇りに、指先で、意味もない線をクネクネと描いて了う。そういえば、一度私は、そんな風な状態で、そんな風な落書のされた車窓を透して、直江津――なんて書かれた駅名の立札を眺めて見たい。それもその駅で降りるのではなくて、そこを通り過ぎて行ってみたい。
 直江津といえば、それで思い出したが、停車場の構内なぞで、ゴロゴロと通り過ぎて行く長い黒い貨物列車の貨車のうちに、何処からやって来たのか屋根に雪を積んだ奴が、時折屈託なさそうに引ッ張られて行くのを見るが、あれはたまらない。あれなぞは、私の「停車場だけの旅」のうちでも、かなり豊かなもののひとつになるであろう。
 ところで、正常な旅行者から見れば恐らく外道にも見えよう私の「停車場だけの旅」も、思いついてはブラリと出掛け、退屈してはフラフラと通いして、病いも既に膏肓に入って来ると段々眼が高くなって来て、それぞれの停車場の持っている空気なり表情なりへの評価が辛くなり、選り好みをして、「停車場での旅」のよしあしをすら覚えるようになって来る。
 この事は、いつだったか一日つぶして東京市内のいくつかの停車場をフラフラ歩き廻った時に、ツクヅクそう思った。
 旅といえば、まず東京の人は、一番多く東京駅を思いもし、利用もするであろう。日本での代表的な名勝地を沿線に持った東海道線――しかし、私の「停車場だけの旅情」は、この駅に幾度立ってもトンと涌きあがらない。これは私の田舎が、生国が、東海道線の沿線にあるからであろうかと始めのうちは思った。が、何度もあの駅に立つうちに、これは全く、東京駅の持つ表情そのものによるのであることが段々判って来た。人も建物も、「旅」を覚えさせない。あそこにいる人々は、誰れも彼もハリ切って忙しそうに見える。その人々の顔には、旅そのものよりも、目的地ばかりが生き生きと輝いている。全くやり切れない。それに乗車口と降車口が別になっていて、他所から持って来て呉れた旅の匂いというものがまるでない。そしてこれから乗ろうという汽車も見えない。見えないだけならばまだしもいいのであるが、地下道の向うのホームに止っている列車というのが汽車でなくて電気機関車である。成る程、電車は新らしくて軽快でサバサバしているかも知れない。しかし落付いた旅をしみじみと匂わして呉れるのは、やっぱり汽車だと思う。
 電車といえば、中央線の新宿がある。
 新宿――しかし此処は、どう無理してもピクニック以上の気分が出て来ない。こんな停車場を見るよりは、寧ろ田端の操車場(ハンプ・ヤード)でも見ているほうが旅に近い。
 そこへいくと、、総武線の両国駅はまだいい。本屋もホームも単純すぎて貫禄はないが、ガードの上を、煙突の林を背景にして、三等車の多い短い汽車が白い煙をポツポツと吐きながら動いているのが、妙にもの悲しくていい。しかしこの停車場は、残念なことに、どういうものかあの本所の真ン中になにかの間違いであんな汽車がやって来たのだという気がして、妙に、旅の行く手を感じることが出来ない。旅の出発を覚えるだけで、あの駅の向うにずーッと旅があるのだというように感じられないのがなにより残念だ。
 ところで、三ツ停車場を並べて了ったが、そしてそのいずれにも失望を覚えたが、しかしこの三つの失望不満を完全以上におぎなって呉れる停車場が、ひとつある。それは、上野駅である。
 上野、上野こそは、汲めどもつきぬ私の旅への思いの泉である。私はいつでも、この駅の雑踏に中に意味もなく立ちとどまって揉みくちゃにされる度毎に、骨の髄まで旅を覚える。
 東北、常磐、信越等と、上野はまずなによりもその背景が広くて深い。上野のよさは、第一にここにあると思う。そしてこうした幾つかの幹線の相集った堂々たる終端駅としての貫禄が、到るところにあふれている。
 構内の配置が、断然優れて東京駅なぞ及びもつかない味を見せる。あの間の抜けたようなガランとした広い本屋の屋根の下で、雑踏する人々の波を越して向うに、港の桟橋のように突き出した幾つものホームの間へ、こちら向きに到着したばかりの列車が、機関車から煙りと蒸気を吐き出しながら休息している姿を見る時、いかにも終端駅らしい、妙に雑然とした落付きを覚えさせられるのだ。いつだったか、そんな風にしてこちら向きに休息している煤まみれの疲れた列車の屋根の上に、例の季節はずれの雪を見つけた時なぞ、私はひどく亢奮してしまったものである。
 上野では又、旅客の表情が東京駅とはまるで違う。バスケットや信玄袋を提げた何処となく素朴な人々の姿には(気の精か、東北弁で語り合うそういう人達が殊に多く目につくのであるが)よしその人々の心の中はどうあろうとも、少くとも顔なり姿なりには、目的地や仕事の代りに、旅そのものの疲れがにじみ、ハリキッた忙わしさの代りに、果ない旅愁が、しみじみと漂っているのである。
 私は、私のこの因果な「停車場狂い」がはじまった時から、一度この上野駅を小説に書いて見たいとひそかに考えだした。が、いまだに書けない。恐らくこれから先いつまでたっても、書けっこないと思う。
(カットは上野駅全景)
(「旅行サロン」昭和12年7月号)


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