世界遺産ティルス

ティルスの位置
 ティルスは、レバノンの最南の町です。ベイルートから約79キロ南にある現代名スールという町が、かつてフェニキアの都市として栄華をほしいままにしたその町です。イスラエルの国境まで数キロという距離にあるがゆえに、イスラエルとの戦争では最前線にあり、96年4月、ヒズボラとイスラエルの戦争でも多くの難民をだした町として記憶に新しいところです。

遺跡の概要
 ティルスは古代名で、TyrもしくはTyreと綴りますが、レバノンの表記では後者が一般に使われています。
 ティルスは、紀元前12世紀から紀元前4世紀にかけて栄えたフェニキア人の都市でした。当時東地中海ではシドン(現サイダ)とともに海上交易で栄え、紀元前10世紀、ヒラム1世のときに最盛期を迎えました。
 ティルスは、カナンと呼ばれた本土の沖合に浮かぶ岩島の都市で、城壁に囲まれた島内に港をはじめ、王宮やメルカルト(ヘラクレス)神殿などがありました。フェニキア人はすぐれた航海術を武器に、ここからカルタゴを始め、遠くは大西洋上のアゾレス諸島まで交易を求めて進出していったといいます。
 しかし、紀元前332年に、マケドニアの青年王アレクサンドロスによって、7カ月にも及ぶ攻防の末、征服されてしまいました。アレクサンドロスはこのとき、海上に浮かぶ要塞都市を攻略するために、島までの800メートルにわたって幅約7メートルの堤を建設したのです。これによって、ティルスは本土と地続きになり、現在は海に突き出た半島となってそこに町が形成されています。
 現在残っているティルスの遺跡は、ローマ時代の神殿やネクロポリスが中心です。  遺跡は2カ所にあり、一つは半島の先端にある神殿などの都市跡、もう一つは、やや内陸にはいったネクロポリス(墓地群)を中心とした遺跡です。ネクロポリスのとなりには、巨大なヒッポドロームがあります。

ヒッポドローム
 「ベン・ハー」という映画を見たことのある人は、たぶん「戦車競争」のシーンを鮮明に憶えていることと思います。あの戦車競争が行われた競技場ヒッポドロームが、ここティルスにあったのです。
「ベン・ハー」は、はたして史実に基づいて作られた映画かどうかは私は知りません。しかし、ローマ帝国においてあのような見せ物があったことは事実でしょう。ここティルスのヒッポドロームは、まさに戦車競争用に作られた競技場なのです。ベン・ハーの時代設定より約200年後に建造されたと推定されています。
 私は、ティルスを訪れるに際して、ヒッピドロームがそこにあるという予備知識はまったくありませんでした。だから競技場を目の当たりにしたとき、びっくりしました。広大なトラックとオベリスク、観客席、そして競技場の端がはるか遠くにあることを見たとき、いいしれぬ興奮に襲われました。
 ヒッポドロームは、イスタンブールでその跡に立ったことがあります。しかし、イスタンブールのそれは、とてもそこにヒッポドロームがあったとは想像できない小じんまりとしたものでした。それに比べると、ティルスのヒッポドロームは完璧といっても差し支えないものです。
 トラックの中央には、現代の競技場のフィールドからはほど遠い幅約2〜3メートルの縁石が2百メートルくらいにわたってのび、その中央にオベリスクが立っています。トラックの外周にそってかつては観客席があり、約2万人を収容したといいます。現在は東側ホームストレッチの前とコーナー付近に往時のすがたをしのばせる観客席が残っています。不完全ながら西側、南側にも観客席と思われる遺構が残っています。
 もとより未発掘のところがかなりあることが伺われましたが、このヒッポドロームは、ぜひとも復元して後世にのこしてほしい遺跡です。

遺跡の現状
 戦争の脅威に常にさらされてきた地域にありながら、ティルスの両地区の遺跡はほとんど戦禍のあとは見られませんでした。海側の遺跡の方は、むしろ発掘などがたえず進められていたのではないかとさえ感じました。特に列柱道路は美しく保存されており、きれいな大理石の円柱越しに見える海岸が、イスラエルであることを忘れてしまうほどです。
 ネクロポリス、ヒッポドロームの遺跡のすぐ南側には、軍の要塞があります。十字軍時代の要塞を彷彿とさせるもので、建物の四隅には望楼があり、機関銃を持った兵士が見えました。要塞の前の道路を車で通り過ぎましたが、さすがに不気味でした。
 ネクロポリスの区域は、かなり広大です。未発掘の場所もかなりあると思われます。発掘が済んでいる場所には、たくさんの石棺がむきだしのままになっています。そして石棺のどれもが、横の部分を破壊され穴が開いていました。盗掘のためでしょう。穴から石棺の内部をのぞいてみると、ほこりまみれの遺骨が散乱しているのが見えました。