世界遺産フランスのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路

<文・写真/赤津政之
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巡礼路の位置
 1993年に登録されたスペインの「カミーノ・フランセス」(フランスの道)につづき、98年にフランスのサンティアゴ巡礼路上の都市と巡礼路が世界遺産に登録されたが、その際、1000年以上にわたるサンティアゴ巡礼は、建物、彫刻、絵画といった単なる過去の遺産ではなく、言語、民族を越えた人間関係、国際関係の萌芽であり、21世紀の社会を示唆する文化遺産であるという新たな評価がなされた。国家・国境にとらわれないグローバルな社会をめざす西欧にとって、2000年を前に何らかの示唆を与えてくれるかもしれないというこうした考えは、サンティアゴ巡礼への関心を急速に高めた。その結果、93年には10万人だった聖職者のサンティアゴ訪問者は、1900年代最後の99年には50万人に達し、一般の巡礼者や観光客を含めれば、その数は1000万に上るとみられている。
 98年に登録されたのは、69の宗教建築物とル・ピュイルートの7区間である(なお、1999年になって、赤ワインの銘酒で知られるサン・テミリオンが新たに単独で追加された。この町も巡礼路上の宿場町で、教会、修道院、救護院など多くの歴史的建造物が残されている)。
フランス内の巡礼路は、ピレネーから扇状に広がり、その分、スペインのカミーノ・フランセスと比べると文化的蓄積度が小さく、また自然環境、社会環境の変化で巡礼路の多くが消え、特にパリからトゥールを経てボルドーへ至るルートは、"失われた巡礼路"と呼ばれている。ル・ピュイルートは、中央山地からピレネーに至るルートで、ほとんどが農山村地域で、昔の景観がよく残されているが、それでも、登録されたのは、オスタバま710キロのうちの157キロにすぎない。
 ここでは、日本にまだ紹介されていないル・ピュイルートおよびピレネーにあるすばらしい文化遺産を紹介しよう。

ル・ピュイ=アン=ヴレの大聖堂
 フランス4大巡礼路の一つ、Via podiensisの出発地。ル・ピュイの司教ゴデスカルクが、950年から51年にかけて、このルートを経由してサンティアゴ巡礼をしたのが、スペイン以外からの巡礼の始まりとされる。12世紀末に完成したロマネスク様式の大聖堂(右端)には、ビザンチンの特徴も見られる。主祭壇に祀られている有名な黒いマリアは、キリスト教以前の土着宗教、あるいはオリエントの豊穣多産な地母神に起源をもち、純潔無垢で無原罪の聖母マリアとは対極に位置している。

オブラックの巡礼路
 地図を見ると、ル・ピュイから中央山地を横切り、ピレネーのイバニェータ峠までGR65というハイキングコースが延々と記されている。これがかつてのサンティアゴ巡礼路で、4つのコースの中ではもっとも変化に富んだ美しい巡礼路である。オブラックの高原地帯は、冬はきびしく、また、追い剥ぎや夜盗が横行したので、峠には早くから巡礼者救済の救護院が建てられてた。

エスタンの橋
  中央山地西部を切って流れるロット川にかけられた16世紀の巡礼橋。この10キロほど上流にあるエスパリオンや支流のサン=シェリーにある橋も一緒に登録された。いずれの町も、中世の教会や城が残る山あいの美しい町である。

コンクのサント=フォワ聖堂
 コンクを有名にしたタンパンは、12世紀の前半に完成したもので、ヨハネ黙示録の「最後の審判」を主題にしている。中央にキリスト、その右側に天国、左側に地獄が描かれているが、これはベアトゥスの黙示録注解の装飾写本をもとにしたものである。コンクの修道院は、宗教戦争で新教徒に焼き払われ、フランス革命後は放棄されていた。1830年代に、取り壊しが始まったこのロマネスク美術の最高傑作を間一髪のところで救ったのは、作家のプロスペル・メリメである。彼は、史跡や歴史的建築物の調査・修復を国家から委ねられ、新進気鋭の建築家ヴィオレ=ル=デュックをつれて精力的に全国を駆けめぐり、ヴェズレーのサント=マドレーヌ聖堂をはじめ、風雪にさらされたままの多くの文化財を救った。聖堂南側に残る一部解体された回廊がその時の状況を物語っている。

カオールのヴァラントレ橋と大聖堂
 カオールは、ロット川が硬い石灰岩台地に行く手を阻まれ、U字形に大きく蛇行したところに築かれた町で、三方をロット川に囲まれているため、ローマ時代から要塞都市として発達した。3つの高い塔と門を備えたヴァラントレ橋は、権勢を振るったカオール出身のローマ教皇ヨハネス22世の時代に建設された。フランス南西部に多い防備を目的としたこの種の橋としては最大で最強のものである。13世紀に完成したサン=テティエンヌ大聖堂も、もっとも古いロマネスク建築の一つとして、一緒に文化遺産に登録された。

モワサックのサン=ピエール聖堂と回廊
 サン=スヴェール修道院で描かれたベアトゥスの黙示録注解の写本をもとにしたサン=ピエール聖堂のファサードの彫刻は、ヴェズレーやコンクの聖堂と並ぶロマネスクの最高傑作の一つとされている。1100年頃完成した回廊は、アルビジョワ十字軍によって破壊されたが、ゴシック様式で修復されている。四隅の柱の聖ヤコブなどの使徒の浮彫、動植物文様や新約聖書の題材で飾られ柱頭もロマネスク彫刻の傑作である。モワサックの修道院はクリニュー会に組み込まれ、勢力は南仏からスペインにまで及んだが、百年戦争やフランス革命で荒廃し、1800年代後半にはボルドーと南仏を結ぶ鉄道によって敷地を分断されてしまった。

ラ・ロミューのサン=ピエール教会と巡礼路
 ロミューromieuとは「ローマ巡礼者」を意味する言葉で、11世紀にローマ巡礼から戻った2人の修道士によって小修道院が建てられたことからこの地の名前になった。14世紀に小修道院が取り壊され、小さな村の中にどう見ても不釣り合いな巨大な聖堂が出現した。ローマ教皇クレメンス五世のいとこで、権勢を振るったアルノー枢機卿が、故郷に錦を飾るつもりで建てたのである。やがて、サンティアゴ巡礼者がここに立ち寄るようになったが、彼は、サンティアゴ巡礼の保護救済にあたってきたテンプル騎士団を弾圧して解散に追い込んだ人物でもあった。登録された巡礼路はブランディーの銘酒アルマニャックの丘陵を南西へと向かっている。

ピレネーのアラヌエのタンプリエ礼拝堂
中世の巡礼者は、ある面では気ままで、4大巡礼路を外れてスペインに向かう巡礼者も少なくなかった。特にアルルからの"太陽の道"をたどってきた巡礼者はいろいろなコースをとってピレネーを越えている。その結果4ルート以外の場所にも文化遺産として登録されている史跡が多い。ネスト川をさかのぼったアローの谷の最奥部にあるこのタンプリエ礼拝堂もその一つで、ピレネー越えの基地として13紀にヨハネ騎士団によって建てられた救護院の付属礼拝堂である。巡礼者はここから2500mの峠を越えて聖地へ向かった。

ガヴァルニー渓谷と教会
アローの谷の隣にあり、氷河によるピレネー最大の大圏谷である。自然遺産としては1997年に反対側のスペインのモンテ・ペルディードと一緒に登録されたが、巡礼路の遺産としてガヴァルニーの村にある教会があらためて登録された。雄大な3000m級の山が連なり大地の行き止まりを思わせるが、それでも中世の巡礼者はそれをものともせず、ブシャロ峠からピレネーを越えていったのである。


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