日本自動車百年史 第1章 前史

第1節 鉄砲の伝来から国産まで


1.1.1 種子島への渡来
1.1.2 和製火縄銃
1.1.3 近世最大の技術革新
1.1.4 製銃から自転車製造へ
1.1.5 宮田製銃所
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1.1.1種子島への渡来

 歴史の上で、火薬は、7世紀宋代に中国人が発明したといわれる。だが火薬を用いた兵器を発達させたのは欧州であり、15世紀には、携帯火器としての鉄砲が西欧で完成されていた。
 鉄砲が始めて日本に渡来したのは、16世紀半ばの1543(天文12)年8月と伝えられる。種子島に漂着した中国のジャンク船に同乗していた2名のポルトガル人が鉄砲(マスケット銃=火縄銃)を所持しており1)、この火器の驚異的な威力を知った種子島島主、種子島兵部之丞時尭(たねがしまひょうぶのじょうときたか)が、大金を投じて、2挺の鉄砲を譲り受けたのが始まりであった。
 のちに薩摩で記された書「鉄砲記」(1601、慶長11年、南甫文之・なんぼぶんし撰述)によると、種子島時尭は、即座に、家臣に火薬の調合法を学ばせ、お抱えの刀剣師や鉄匠、鍛冶工をかき集め、火縄銃の倣作を命じたという。種子島の刀鍛冶は南蛮渡来の鉄砲を子細に観察し、その複製、とくに主要部分である銃身の製作に心血を注いだ。そして翌1544(天文13)年には、早くも、模造品を一丁完成させている。
 ところが見よう見まねで火縄銃を試作した刀鍛冶たちには、銃身の後尾の穴をふさぐ術がわからず、非常に苦心したといわれる。渡来した火縄銃の銃尾の込み栓には、雄ネジが切ってあり、銃身の後尾側には雌ネジが切られ、銃尾栓をネジ込むことによって銃尾が塞がれていた。同時に、銃尾栓をはずして先込め銃の銃腔の掃除もできる仕掛けだったのである。だが当時の日本にはまだネジの概念がなく、種子島の刀鍛冶たちは、ただ鉄製の栓を溶着させただけであった。伝説によると、島主の命により試作にあたった、お抱えの刀剣師八坂金兵衛尉清定(やさかきんべえのじょうきよさだ)は、最初の試し打ちの際に火薬の爆圧により尾栓が飛び、両眼を失明したとされる。
 また伝承では、さらに、八坂金兵衛は、銃尾栓の製造技術を学ぶために、漂着していたポルトガル人の求めに応じ、若狭(わかさ)という愛娘を嫁がせ、交換条件として銃尾栓の製法を教えてもらったともいわれる。島主である種子島時尭は、すでに薩摩藩主島津義久(しまずよしひさ)に複製鉄砲を1挺献上する約束を交わしており、八坂は島主の面目を保つためにも、やむなく愛娘を南蛮人に手渡したという筋書きである。また若狭はヨーロッパ人に嫁した最初の日本人女性ともされ、この父娘の篤い忠孝と悲劇を伝えるため、種子島には若狭の墓が伝わっており、明治42年には若狭忠孝碑までが建てられた。
 だが、以上はあくまでも伝説であり、史実とは、若干の相違を見せるものである。火縄銃を模造するための最大の難関が銃尾栓の製作であり、このネジ栓の技術を学ぶために、如何ほどの犠牲が払われたかを伝える説話として解釈すべきであろう。  じつのところ、種子島の刀鍛冶が銃尾栓の製造法を学んだのは、初渡来の翌年に偶然来航した外国船にいた、一人の中国人の鉄匠からの伝授だったかもしれない(前出「鉄砲記」より)。ただ、これが日本にネジの原理とその製造法が伝わった最初の出来事だったことは確かである。
 
1.1.2和製火縄銃

 欧州で締結用のネジが実用化されたのは、16世紀のはじめ頃であった。日本には約半世紀おくれて、この技術が種子島に伝来したことになる。  当時の銃尾栓のネジは、現在のようにタップ、ダイス、あるいは旋盤によって簡単に切れるものではなく、まず、尾栓の雄ネジは丸棒をタガネで丹念に叩いてネジ山を作る方式がとられ、次に、銃身後尾の雌ネジの製作では、まず銃身を熱してから雄ネジをはめ込み、鍛えながらこれを回して抜く作業をくりかえし、銃腔の内側にネジ山を形成していくという、困難な技法が使われていた。2)
 また銃身の製造法も、まず瓦金(かわらがね)と呼ばれる厚さ5cmほどにムラなく、平らに鍛えならした釼(はがね)を、真(しん)と呼ばれる錬鉄製の心棒に巻いて叩き、接合面を湧かし付けしながら、長さ90cmほどの1本の合わせ鋼管(溶接鋼管)をつくり、これに葛(かずら)と呼ばれる厚さ6cm、巾3cm、長さ3mほどに長く打ち伸ばした和鉄を、リボン状に巻き付け、接合部が見えなくなるまで鍛えて筒状に仕上げるという非常に手間のかかる、そして熟練を要する手法3)であった。これが巻張銃身、あるいは倦成(けんせい)法と呼ばれた技法であり、世界的にも、有煙火薬時代末期の銃である18世紀のダマスカス銃まで使われた製法である。鉄砲の本場英国でも、巻張銃身の銃の製作には最良の鋼材と、最高の技術が不可欠といわれ、18世紀末期まで高級銃として珍重されていた。
 以上のような技法を、大隅群島種子島の刀鍛冶たちが、どこまで実行していたか不明だが、前出の「鉄砲記」は、初渡来から1年後には、とりあえずこれに近い模造品が数十挺完成していた記している。
 その後、火縄銃はこの製法とともに、驚くべき速さで近畿地方や九州地方に伝わっていく。種子島時尭はポルトガル人より購入した火縄銃1挺を、薩摩藩主島津義久に贈り、島津義久はこれをそのまま時の将軍足利義晴に献上する。将軍義晴はその火縄銃をすぐに江州国友(ごうしゅうくにとも、現在の滋賀県長浜市国友町)の鉄匠に貸し与え、その複製を命じていた。当時の国友には、畿内随一の優秀な鉄匠刀鍛冶たちが集結していたといわれ、これは、とりもなおさず全国一の鉄匠集団であった。「国友鉄砲記」(1633、寛永10年、国友の鍛冶年寄が記す)によると、国友の鉄匠たちは、わずか6ヵ月で2挺の模造鉄砲を完成させ、1544(天文13)年8月に将軍に献上したとされる。天文13年とは種子島へ火縄銃が初渡来したすぐ翌年のことである。「国友鉄砲記」に記されたこの初試作の時期については、まだ検証されていないが、いずれにしても種子島への鉄砲伝来からさほど時を隔てずして、国友で和製の火縄銃が出来上がっていたのは確かと思われる。「国友鉄砲記」では、このとき『鉄匠たちは昼夜肝胆を砕きこれを張錬した』とされ、ここでも最大の難関は銃尾のネジ栓の製作であったことを示している。この時点では、国友でも、種子島と同様にネジの技法が知られていなかったことになろう。
 その後、国友の刀鍛冶たちは、織田信長により鉄砲鍛冶として育成され、ことごとく鉄砲製造業者に変身していく。「国友鉄砲記」には、初試作からわずか5年後の1549(天文18)年には織田信長から500挺の火縄銃の注文を受け、これを製作したと記されている。やがて国友は日本最大の鉄砲産業の地として発達し、その後3百年にわたり幕府の砲兵工廠 としての役割を果たしていた。
 また種子島からの火縄銃の流伝には、さらにあと2つの経路の記録もある。前出の「鉄砲記」によると、ひとつは杉坊(すぎのぼう)なる僧侶が、種子島から火縄銃とともに火薬の製法を郷里の紀州根来(ねごろ)寺(現在の和歌山県那賀郡根来町)へ持ち帰ったとされ、のちに根来寺では鉄砲を巧妙にあつかう僧兵が猛威をふるい、信長や秀吉を脅かす。根来からは津田流の砲術が生まれ、これが関東にまで広く伝えられ、江戸時代に江戸城の守衛をつとめた鉄砲百人組の、根来衆もこの地の末裔たちであった。
 もうひとつのルートは、泉州堺の商人橘屋又三郎が琉球貿易の途中で種子島に漂着し、たまたま天文12年の鉄砲伝来に立ち合い、1年間の滞在を経て火縄銃の製作を学び、これを堺に持ち帰り、さらに畿内一円にその技術を広めたとされる。自由貿易の商都として栄えた堺では、その後、鉄砲鍛冶が急増し、江州国友にならぶ鉄砲の一大生産地に発展していった。
 
1.1.3近世最大の技術革新

 以上のように、種子島に渡来した火縄銃は、すみやかに畿内に持ち込まれ、また即座にその複製が行われ、わずか数年のうちに和製の火縄銃が完成し、可能なかぎりの大量生産体制がとられていた。ポルトガルの商人メンデス・ピントが書いた「東洋遍歴記」には、彼が1551(天文20)年に日本に立ち寄ったとき、豊後(大分県)の国だけですでに3万挺、日本全国には30万挺の鉄砲があると聞いたと記されている。この日付は鉄砲伝来から、たった8年後のことである。はなし半分、いや10分の1としてもじつに驚くべき数であろう。そしてこの中には、相当量の和製銃が含まれていたことになる。
 これほどまでに迅速な和製火縄銃の伝播を促した背景からは、何が読みとれるだろうか。それは、この模製から大量生産までを技術的な部分でささえていた、当時の刀鍛冶たちの実力であろう。古来より日本では刀剣は武士の魂とされ、刀鍛冶はこの鍛造に心身ともに捧げ、宗教的ともいえるほどの修練を重ねていた。その磨き上げた技法の基盤となったのは、砂鉄から和鉄を製錬するタタラとよばれる製鉄法や、農具漁具にいたるまでのさまざまな鍛冶技術の蓄積であった。
 一方、火縄銃が急激に普及した最大の理由は、戦国の武将たちが争って鉄砲を求めた、乱世ならではの時代背景である。火縄銃の出現は戦国時代においてそれまでの兵法を一変させ、この火力なくして戦いぬくことを不可能なまでにしてしまったのである。  大量の火縄銃をもつ鉄砲隊を戦力の中心におく、画期的な戦術をあみだしたのは織田信長であった。信長は1575(天正3)年の長篠の合戦において、3万の兵のうちの3千5百を鉄砲隊として最前線に配して戦い、無敵と呼ばれた武田勝頼の軍を惨敗にまで追いこんでいる。火薬と鉛玉を込めて一発撃つのに最低15秒、といわれる火縄銃だが、1千人ずつが3列に並んだ織田の鉄砲隊ならば、5秒ごとに1千発、1分間に1万2千発の連続射撃が可能であった。これほどまでに大量の銃火器を使用した集団戦闘型の戦は、世界史の上でも最初の出来事だったといわれる。西洋の軍事史において、大量の火砲を中核として戦闘が行なわれたのは、長篠の合戦から41年後に始まる、30年戦争(1616〜1648年、ドイツを舞台に欧州各国が参加した最大にして最後の宗教戦争)が最初だったのである(文献3)
 織田信長の戦法は豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれ、鉄砲の火力によって天下統一が果たされる。信長の腹心だった豊臣秀吉は、1592(文禄元)年に始まる朝鮮出兵のために、さらに膨大な数の火縄銃を全国各地で生産させていた。またかつて信長軍側について共に戦い、その戦法を熟知してした徳川家康は、関ケ原の合戦(1600、慶長5年)で勝利した4)のちに国友の地を掌中に納め、大量の火縄銃から新兵器の大砲までを作らせた。そして家康は大阪夏の陣(1614、元和元年)で無慮の銃砲火器により大阪城を砲撃し続け、豊臣氏を滅ぼしたのである。
 種子島に鉄砲が初めて伝来した年、信長は9歳、秀吉は7歳、家康は1歳であった。この3人の戦国武将が凄絶な戦をくりひろげ、やがて大阪夏の陣が終わるまでの数十年間が、近世では、もっとも多量の銃砲が国内生産されていた。その後、江戸時代250年間を通しても、日本でこのように大規模な銃砲生産が行なわれることは二度となかったのである。
 徳川家康は「鉄砲八ヶ条」を定め、銃の生産を厳しく統制してこれを激減させ、さらに鎖国政策によって外国貿易も禁じた。徳川幕府は二百年以上に及ぶ太平の世と引きかえに、技術の進展や産業の拡大を一切封じ込めてしまったともいえよう。
 はじめにふれたように、火薬は中国人の発明であった。また最初の火砲も中国で開発されていた。これがアラビア人の手によって西方に伝えられ、ヨーロッパ人により銃や大砲が完成されていったのである。携帯火器としての銃を手にしたヨーロッパ人は、16世紀になると、世界各地に踏み込み、勢力を拡大し、やがて異民族に対して植民地主義を展開するにいたる。そして政治経済の上で圧倒的優位に立った欧州は、科学技術を急進させ、18世紀後半には産業革命がおこり、その結果として近代資本主義が確立されていった、といっても過言ではなかろう。まさに16世紀の鉄砲がその引き金をひき、中世から近世へ、そして近代へと世界史が急転していったことになる。
 西洋火器を最も速く知り、利用したアラビア人はこれを自製することはなかったようだ。またインド人も同様だったようである。そして中国人は日本より25年早く西洋火器を知りながら、その製作技術を身につけたのは日本より後のことになる(文献2)。だが、極東の日本では、渡来したばかりの鉄砲が速やかに模倣され、和製銃が大量に生産されていた。16世紀後半の日本人のこの行動は、日本の民族性と文化の特質をよく示すものである。
 
1.1.4製銃から自転車製造へ

 さて、以上のような鉄砲伝来にまつわる史実については、学術的にも長年の検証が行われ、すでに自動車史とは比較にならないほど確立された分野である。したがってここであえて筆者などがこれ以上、展開すべきものでもない。また読者には、このような銃砲史がオートバイ史とどれほどの関係があるか、疑問に思われるふしもあろう。
 しかし総合工業の一つとして発達してきたオートバイの歴史をたどっていけば、製銃技術が発端となって築き上げられてきた系譜が意外に多いことに気付く。
 世界のオートバイ史に名を残したメーカーの中には、前身が19世紀からの自転車メーカーだったという製作会社がじつに多く、さらにそれらの由来をたどれば、製銃所から始まった古参も多い。製銃から自転車、そしてオートバイへと転換した会社として有名なものには、BSA(英)、ロイヤルエンフィールド(英)、FN(ベルギー)、ハスクバーナ(スウェーデン)、アイバージョンソン(米)などがあげられる。
 その代表格といえるイギリスのBSAについて、少しその足跡をたどってみよう。BSAは1906(明治39)年に、オートバイ部門の最初の完成車を生産してから1971年まで、半世紀以上にわたりイギリスを代表する3大メーカーの一つとして君臨してきた会社だった。このBSAの始まりは、17世紀末の1692(元禄5)年に、イギリス兵器省が、当時鉄砲職人の多かったバーミンガムの地で、試験によって選び出した5人の優秀な鉄砲鍛冶だったといわれる。
 当時のイングランド国王ウィリアム3世は、宿敵フランスのルイ14世の強力な火力に悩まされ、この劣勢を補うために、自国の民間製銃所の拡充を図ろうとした。バーミンガムで組織された5人組の鉄砲鍛冶は、18世紀の英仏百年戦争や、19世紀のクリミヤ戦争での軍需拡大によって成長し、1854年には「バーミンガム小銃製造業者組合」として政府に認可され、やがて1861年には「バーミンガム・スモール・アームス」株式会社へと拡大する。1860年代の終わりには、民間の製銃工場としては欧州最大規模の大会社にまで肥大していた。
 このBSAが初めて自転車の製造を開始したのは、1880(明治13)年だったといわれる。1870年代には欧州での戦争が鎮静化し、軍需産業は低迷し、BSAの財政は窮地に陥っていた。そこで軍需から民需への転換策を図り、自転車の製造を始めたものである。鉄砲鍛冶の技術と銃器工場の工作機械は、そのまま自転車製作に転用できるもので、BSAほどの世界一流の製銃会社ならば、この転換も容易いものだったにちがいない。1881(明治14)年には3種類の自社ブランドの自転車生産が開始され、これには3本の小銃を組んだ例の有名なBSAの商標が初めてヘッドエンブレムに付けられた。
 また時おりしも、ジョン・ダンロップにより空気入りタイヤが発明(1888、明治21年)され、世界中で自転車が爆発的な普及をみせる時期でもあった。イギリス中の何千という町工場がこぞって自転車部品を作めた時代である。BSAの工場では自転車部門の生産体制の整備が間に合わず、生産が需要に追いつかなかったとさえいわれる。BSAはさらに製銃工作機械を改造し、自転車用ハブを大量に生産して販売し、やがてボトムブラケット、チェインホィールと自転車用部品の製作にも手を広げた。すでに主要な自転車メーカーが出揃い始めた時期だが、BSAは一流の自転車部品メーカーとしての地位をも確立し成功を収めていった。
 BSAの自転車部門は第二次大戦後まで生産を続け、イギリス製自転車のトップブランドの一つとして歴史に名を残した。
 
1.1.5宮田製銃所

 前述のように世界のオートバイメーカーの中には、製銃工場から自転車工場へ、そしてオートバイ製作へと転身していった古参が少なくないが、これらと同等に並び称されるべき日本のオートバイメーカーが、宮田製作所(昭和38年より現在の宮田工業株式会社)である。
 宮田製作所は、1913(大正2)年には早くもトライアンフ(英)を模倣した試作車旭号を完成させ、1935(昭和10)年からはアサヒ号軽オートバイ175ccの量産を開始した、わが国オートバイ工業のパイオニアのひとつである。戦前期の国産車では、トップメーカーだったと言っても過言ではない。アサヒ号は、戦後も逸早く復活し、1962(昭和39)年まで生産が続けられた。この宮田製作所は、イギリスのBSAによく似た経歴をたどっている。
 宮田製作所の前身は、初代宮田栄助(1840〜1900)によって1881(明治14)年に東京京橋に開設された宮田製銃所である。宮田栄助とは、水戸藩の鉄砲指南役をつとめる国友家に師事して製銃技術を身につけ、常陸国笠間藩のお抱えとして苗字帯刀を得た鉄砲師であった。それが明治維新の廃藩置県(明治4年)により雇用を解かれ、上京して自営の製銃所を創業したものである。
 宮田栄助は自分の次男宮田政治郎(1865〜1931、のちの二代目宮田栄助)を、明治9年から5年間、もと徳川家お抱えの鉄砲師、国友信之門下へ入門させている。国友信之とは前出の江州国友の家系をくむ名門の鉄砲鍛冶であり、維新後も東京銀座に製銃所を構えていた。この宮田政治郎が、明治の文明開化の洗礼を受け、製銃技術を基礎としてさまざまな新種機械の製作に挑戦し、やがて宮田製作所を時流に乗って発展させる中心人物となっていく。
 宮田製銃所は陸軍から村田銃の注文を受け、工場を拡張していった。創業9年目にあたる明治23年には月産500挺をこなしていたというから、民間の製銃所としてはなかなかの規模である。
 宮田製銃所と自転車とのかかわりは1989(明治22)年にはじまる。東京築地の居留地に住む外人が、近くにあった京橋区木挽町の宮田製銃所に、当時最新の安全型自転車(現在の自転車と同様に、前後輪同径の後輪駆動車)を一台持参し、その修理を依頼した。当時の東京で、輸入されたばかりの外国製自転車を修理できる手近なところといったら、製銃所くらいしかなかったのである。この時すでに宮田政治郎は、大阪砲兵工廠への入所し、軍用の潜水ポンプから羅針盤までの製作を経験していたので、自転車くらいなら、なんとか工夫して修理することができたという。
 このことが評判になり、多くの外人が自転車の修理を持ち込むようになり、宮田製銃所では自転車修理が一種の副業のようになってしまったという。これがきっかけとなり、自転車の将来性を予感した宮田政治郎は、1893(明治26)年に、最初の自転車を試作している(写真2)。そして9年後の1902(明治35)年には猟銃製作部門の廃止に踏み切り、本格的な自転車製作に乗りだすことになる。
 当時の宮田製銃所は、製銃機械をそのまま流用して自転車を製作していたといわれる。明治期の村田銃の時代には、国産銃も欧米のものと同様に旋盤で穿孔して銃身を製作する鑽抜銃身が使用されていたが、この銃身がなんと、その長さや強度からして自転車フレーム用の素材鋼管としてそのまま流用できたのである。
 宮田製の自転車はアサヒ号とパーソン号というふたつの商標で国内販売され、明治末期には国産自転車のトップメーカーの地位を築いていた。宮田政治郎は、さらに新分野の開拓に意欲を燃やし、四輪小型自動車を1909(明治42)年に試作。また前出の旭号試作車を1913(大正2)年に製作した。この旭号では、そのエンジンから気化器までがすべて宮田製作所で自家製作されている。大正2年という比較的早い時期に、複雑な鋳造技術を必要とするエンジン部品を作ることができたのも、宮田製作所が精密な機械工作を得意としており、自転車製作の経験によって、鋳造、機械加工、焼入から、塗装、鍍金までを総合的にこなす進歩的な工場に成長していたからである。
 明治期の宮田製作所の発展の背景には、明治政府の富国強兵、殖産興業政策を受け、最新の輸入工作機械を購入して近代的な製銃工場を築き、さらに新しい分野に乗りだすという、明治ならではの進取の気鋭を見てとることができる。その技術力の基礎には、鉄砲鍛冶の伝統があったことも、否定することはできない。
 また明治期には大阪の堺でも複数の自転車工場が自然発生的におこっていた。堺の自転車工業の盛況は平成の今日にも続いているが、これも16世紀後半から、泉州堺の地で栄えた鉄砲鍛冶技術を礎として発展したものである。



文献1「火縄銃から黒船まで」奥村正二(昭和45年、岩波新書)
文献2「火砲の起源とその伝流」有馬成甫(昭和37年、吉川弘文館)
文献3「日本の近世4−生産の技術」葉山禎作(平成4年、中央公論社)
文献4「火縄銃」所荘吉(昭和44年、祥文堂)
文献5「日本銃砲史」岡本光長(雑誌「全猟」昭和42年連載)
文献6「BSA Group News」No.17 June 1961


●写真解説
写真1:安永年間(1772〜1780年)大塚喜之助吉重の作といわれる火縄銃尾栓の雄ネジ(文献5より)

写真2:1736(元文1)年、黒川定次郎貞常作、火縄銃巻張銃身の半製品(文献5より転載)

写真3:国友鉄砲鍛冶場の模式構成。徳川幕府により一子相伝の秘法として最高機密とされた国友の製銃法は、16世紀の原型がそのまま明治初期まで約300年間にわたり継承された。これは滋賀県長浜市立長浜城歴史博物館の復元によるもの。現存する当時の道具類が使われている。(同館より提供)

写真4:和泉名所図会、秋里籬嶌著、1792(寛政7)年刊より「堺津鳥銃鍛冶」の絵(昭和51年柳原書店刊複製本より)。右側の座敷では、鉄砲商人が鉄砲を武士に売り、左側では鉄砲師が作業する。18世紀末に描かれたものだが、商都堺ならではの繁盛ぶりが描かれている。泉州堺は江州国友に並ぶ鉄砲鍛冶集団の本拠地であった。

写真5:1851(嘉永4)年のBSA製銃工場を描いた銅版画(文献6より転載)。蒸気機関により巨大な石輪を回し、鉄砲鍛冶が銃身を仕上げている。

写真6:1866(慶応2)年BSA製銃工場の写真(文献6より)。これらの製作機械のほとんどは米国製だったといわれる。アメリカ南北戦争(1861〜1865)期には、製銃先進国が欧州から米国に移っていたのである。これら機械は銃器用木製部品を製作するためのもの。当時もまだ、金属部品はガンスミス(鉄砲鍛冶)による手作りだった。

写真7:宮田製銃所は、1890(明治23)年に東京市京橋区木挽町から同市本所区菊川町に移転し、商号を宮田製作所と改めた。そのとき初めて新工場に7馬力の動力気罐が設置され、やがて新しい工作機械が次々に導入される。これは1908(明治41)年に撮影された菊川工場自動機作業場の写真(雑誌「清輪」第1号明治41年9月より)。BSA工場の設備によく似ていることに注目されたし。
わが国に、洋式足踏み旋盤が輸入され、「ろくろ」にとって変わるのは明治以降のことであった。明治政府は造船や兵器製作用に西洋工作機械とその動力機関を大量に輸入したが、宮田のような民間の小工場にこのような最新設備が導入されていたことは特筆に値する。これが技術的、また経済的にも、早期に自転車、オートバイ、四輪自動車を試作させる原動力となったのである。

写真8:明治26年9月17日付東京日々新聞に掲載された宮田製作所製自転車の広告(日本自転車史研究会発行「自転車」57号掲載「宮田の第一号車について」大津幸雄より)。この広告文から、この年に最初の試作車が完成したこと、また宮田が猟銃から自転車に移行しつつある様子がうかがえる。

写真9:1913(大正2年)宮田製作所製作旭号オートバイ。


●脚注
1)かつての教科書では、ポルトガル船が種子島に着き、ポルトガル人船長が日本に初めて鉄砲を伝えたとされていた。だが近年の研究によって、これには少し間違いがあったことが指摘された。「鉄砲伝来」宇田川武久(平成2年、中公新書)によると、種子島に漂着したのは、当時東アジア海域で最大の勢力をもって暗躍していた五峯(ごほう)という名の中国人を船長とする倭冦、すなわち密貿易船であり、この船にたまたまポルトガル人が2名便乗していたというのが、ことの真相とされる。16世紀半ばに全盛をきわめた倭冦の横行なくしては、種子島への鉄砲伝来も、またその後の日本への鉄砲の大量輸入もありえなかったのである。

2)「日本におけるネジの始まり−火縄銃ねじ類調査特別委員会報告書」(社)日本ねじ工業協会、昭和57年、でこの検証を行なっている。

3)「火縄銃」所荘吉、昭和44年、祥文堂、及び「大小御鉄砲張立製作 」国友藤兵衛、1819(文政2)年より

4)関ケ原の合戦では、両軍合わせて18万の兵力のうち、7万以上が鉄砲隊だったといわれる。


Title Photo
職人尽絵巻(江戸時代初期)より鍛冶場風景(東京芸術大学資料館蔵、写真提供同館)。16世紀日本の鍛冶仕事の様子が窺える。これはとくに鉄砲鍛冶というわけではなく、一般的な鍛冶場の絵だが、後ろで弟子が吹く箱フイゴの形状など、国友鉄砲鍛冶の写真に近い。
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Last Updated 7th July 1995