【新撰組とはなんぞや!?】


 イサミ達の先祖は、幕末に活躍した新撰組であるということはご存じですよね。
 では、新撰組って何?と聞かれると、どうもよくわからない。そんなことはありませんか?そーゆーわけで、新撰組について簡単に解説してみましょう。
 ……とと、その前に。
 イサミちゃん達の持つ千社札には「新選組参上」と書かれていますよね。でも、幕末に活躍した「しんせんぐみ」は、本来は「新撰組」と書くらしいんです(という話を以前聞いたよーな^^; 長谷川裕一さん描くところのコミック版4巻でも、この字が出ていますね)。
 でも、本によっては「選」の文字を使っている物もありますし……どちらでも間違いではないのかもしれません(あ、いい加減だなぁ(笑))。とりあえず、本文章中では、イサミちゃん達のそれを「新選組」、幕末に実在した彼らを「新撰組」と書きますのでよろしくね。
 

[幕末ってこんな時代]

 新撰組について語る前に、まず、幕末という時代について簡単に。
 嘉永6(1853)年、アメリカのペリー提督が、日本に通商を求めてやってきました。世に言う「黒船来航」です。ペリー2度目の来航の時に、幕府はアメリカと和親条約を結びます。徳川幕府260年に渡る「鎖国」体制が、これで終わりを告げるのです。
 しかし、この条約は、京都にいる天皇の許可(勅許といいます)を得ぬまま、幕府の時の大老・井伊直弼が独断で結んでしまったものでした。このことに怒った人たちは「尊皇攘夷」と呼ばれる運動を起こします。天皇を尊重し、外国勢力を排斥しようという思想です。
 「安政の大獄」と呼ばれる尊王攘夷派に対する大弾圧を経て、過激な尊王攘夷派の人たちは、反幕、やがては倒幕(幕府に反発し、倒そうとする考え)思想の元、テロリズムへと走っていくようになるのです。そういった、尊王攘夷の志士達が多く集まった場所……それが、天皇のおわす土地・京都だったのです。

[新撰組結成]

 文久3(1863)年、時の将軍・徳川家茂は、京都へ赴く(上洛)こととなりました。しかし、京都は、尊攘浪士の横行により、治安が非常に乱れて危険な状態でした。そこに、清河八郎なる浪人から一つの提案がなされます。将軍警護のために、江戸において浪士を募り、京都へ連れていってはどうかというのです。
 かくして結成された浪士隊は京都へと入ります。が、ここで、清河は態度を翻します。 「我々はここで尊皇攘夷の志士に転ずるのだ」と。
 これに反発したのが近藤勇一派と芹沢鴨一派です。
 慌てた幕府によって清河らは江戸に返されましたが、近藤・芹沢らは清河と袂を分かち京都に残ります。彼らは、京都守護職という任にあった会津藩に身を寄せ、会津藩預かりの元、京都の治安維持を目的とした組織を結成します。これが「新撰組」です(本当は、「新撰組」の名が付いたのはもうちょっと後です)。

[壬生狼・新撰組]

 かくして新撰組は誕生し、尊攘派志士の取り締まりに辣腕を振るうことになります。
 しかし、その内部では、近藤一派と芹沢一派との対立がありました。芹沢は粗暴な性格で知られ、評判も良くなかったこともあり、やがて、芹沢一派は近藤達に粛正されることになります。これによって新撰組は、近藤の元に組織が一本化することになったのです。
 新撰組をまとめていたのが、「局中法度」という、副長の土方歳三が作り上げた新撰組の”法”でした。「武士道に背くまじきこと」という基本理念の本に、私闘・脱隊・勝手な金策等を禁じたもので、それに背いたものは切腹という、非常に厳しいものでした(芹沢派の粛正も、この法度に則った物とされました)。この局中法度により、新撰組は、その外に対してのみならず、内にも多くの血を流していくことになります。
 かくして、新撰組は、敵味方より「壬生狼」と恐れられる武闘集団となっていくのです。

[新撰組の栄枯盛衰]

 新撰組の絶頂期は、元治元年(1864)の「池田屋事件」の頃でしょう。この事件で、尊攘派の大物を数多く討ち取り、その名は天下に轟きました。
 実を言うと、新撰組の思想もまた「尊皇攘夷」であったのです。ただ、彼らは、幕府を信じていたのです。幕府のために戦い、尽くす。そしてそれを成すことが、彼ら自身の栄光へ繋がるのだと。混迷する時代の中、ただ一点、その信念の元、がむしゃらに戦い続けていたのです。
 しかし、時代は変わっていきます。薩摩と長州という大藩が倒幕の為に手を結び、朝廷の意志も幕府支持から倒幕派支持へと変わっていきました。
 まさに、「時代の流れに飲み込まれ」ようとしていたのです。

 倒幕軍(官軍)と幕府軍が激突した、慶応4(1868)年1月に始まる鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍は大敗し、江戸へ向けて撤退していくことになります。幕府軍に参加していた新撰組も、江戸へと落ちていきます。この中で新撰組も次第にちりぢりになっていきます。沖田総司は病に倒れ、近藤勇は官軍に捕らえられ斬首されます。土方歳三は残った隊士を集め、北へと転戦し、やがて箱館の地で戦死するのです。土方の戦死の一週間後、箱館五稜郭の旧幕府軍は、官軍に降伏します。
 鳥羽伏見の戦いに始まる、約一年半に渡る「戊辰戦争」と呼ばれる一連の戦いは、この箱館戦争の終結をもって終わりとなりました。
 幕府は消え、武士の世は終わります。それはまた、「新撰組」の時代の終焉をも意味していました。そして、時代は明治の世へと移っていくのです。
 

writern by 輪違聡司 




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【キャラ名の元ネタを探る】


「飛べ!イサミ」の登場人物の多くは、その名前の元ネタを、新撰組隊士や、その他幕末に活躍した人物に求めることが出来ます。ここでは、私の判る範囲でその元ネタに迫ってみます。
 

・花丘イサミ
  → 近藤 勇(こんどう・いさみ)


 言うまでもないでしょう。新撰組の局長です。
 元は多摩の百姓の倅でしたが、天然理心流宗家の近藤周助に見込まれ、その養子となり、跡を継いで、江戸で天然理心流・試衛館を運営します。幕府の浪士隊募集を知ると、道場を閉め、門弟食客引き連れてこれに参加します。清河と分かれた後、芹沢鴨一派とともに新撰組を結成。芹沢派粛正の後は新撰組のトップにつきます。池田屋事件では自ら先頭に立ち、勇名を馳せます。鳥羽伏見の敗戦から江戸に帰ってきた後、彼は土方らと別れ官軍に投降、慶応4(1868)年4月、斬首されます。
 小説・漫画などでは憎めない人物として描かれることが多いようです。自分はどっしり構えて後は部下に任せるタイプのリーダーであったようです(たぶん^^;)。

・月影トシ
  → 土方 歳三(ひじかた・としぞう)


 泣く子も黙る、新撰組鬼の副長。武州多摩の出身。
 天然理心流・試衛館の門人となり、近藤・沖田と義兄弟の契りを結びます。近藤の浪士隊参加に同行し、以後近藤を補佐し続けていきます。局中法度を定めたのも土方。内外に対し辣腕を振るいます。鳥羽伏見の敗戦の後は関東で戦いますが、近藤が投降し斬首された後は、会津へ向かい会津戦争に参加します。会津藩降伏後、仙台で榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流、箱館の榎本政府に参加、陸軍奉行並となります。世界海戦史上に名を残す宮古湾海戦にも参加、箱館戦争を通じて奮戦しますが、その最終局面の激戦において被弾、壮絶な最期を遂げます。
 箱館時代に撮られた、土方の有名なポートレートがあるのですが、これが凄くかっこいい!今様の美男子って感じです。今なお人気が高いのも良く判ります。^^
(ちなみに、長谷川裕一さんのコミック版4巻の土方は、この写真を元に描かれていますね。)

・雪見ソウシ
  → 沖田 総司(おきた・そうし)


 新撰組副長助勤・一番隊隊長。
 旧白河藩士の子。試衛館で天然理心流を学びます。幼い頃より剣術の天才の誉れ高く、19歳の頃には師範代も努めるほどでした。新撰組では一番隊隊長として活躍しますが、その頃には結核に侵されていました。鳥羽伏見敗戦後は江戸で一人療養生活に入りますが、慶応4(1868)年5月、25歳の若さで没します。
 病と闘いながら一瞬の人生を駆け抜けた彼は、素顔が判っていないというミステリアスな部分と相まって、今なお人気の高い人物と言えましょう。

・月影ケイ
  → 山南 敬助(やまなみ・けいすけ)


 新撰組総長。
 近藤・沖田らとは、江戸の試衛館時代親交がありました。近藤らと浪士隊に参加し、新撰組結成メンバーの一人となります。芹沢派粛正後は、総長という、土方と同等の地位におさまります。が、土方の副長と違い実権のない地位であり、また、伊東甲子太郎の参加後、土方との思想的距離が生じ、そのため土方と対立するようになります。のち、とうとう新撰組を脱走。しかし、追手の沖田に追いつかれ、屯所へ戻されて元治2(1865)年2月、切腹して果てます。介錯は沖田総司。
 遊女・明里と山南とのロマンスが有名です。

 「ケイちゃんのモデルは、やはり、新撰組の有力幹部の誰かだろう」と考えると、この山南が一番ぴったりなんですよね。しかし、仲の悪かった土方と山南をモデルにしたキャラを兄弟にしちゃうとは、何と皮肉な。(笑)

・花丘観柳斉(魁の父親/イサミの祖父)
  → 武田 観柳斎(たけだ・かんりゅうさい)


 新撰組5番隊隊長。
 隊内での文学師範でもありました。また、長沼流軍学という和式軍学も通じた人でした。しかし、時代の流れから新撰組も洋式軍学へとすすみ、不満を感じた武田は、やがて、薩摩へと傾いていき、そのため隊士から暗殺されてしまいました。

・花丘魁(イサミちゃんの父親)
  → 島田 魁(しまだ・かい)


 新撰組随一の巨漢と伝えられる人物。新撰組有数の剣客でもありました。
 京都にて新撰組に入隊してから、数多くの手柄を立てています(池田屋事件にも参加していました)。鳥羽伏見の敗戦後は、土方らと共に東北〜箱館と転戦し、生き延びます。明治33年に没。
 彼の残した新撰組に関する著述や証言・遺品は、新撰組研究の重要な史料となっています。

・芹沢鴨之丞(黒天狗首領/セリザワ・ジャパン会長)
  → 芹沢 鴨(せりざわ・かも)


 水戸の出身。清河の浪士隊募集に応じ、これに参加。清河と分かれた後、近藤らと共に新撰組を結成。新撰組の局長となります(新撰組結成当初は、近藤、芹沢、そして、新見錦という芹沢の同士の3人が同時に局長を務める、という体制でした)。しかし、金を貸さなかった商家に大砲を撃ち込むなどの粗暴な行いが疎まれ、京都守護職より芹沢を斬るようにとの密命が近藤に下され、近藤一派に粛正されます。

・月影泰之(トシ、ケイの父親)
  → 篠原 泰之進(しのはら・たいのしん)


 元治元年、伊東甲子太郎らと共に新撰組に入隊。後、伊東の御陵衛士拝命・新撰組脱退に際し、彼も伊東と同行して脱隊。伊東が新撰組に惨殺された後は、薩摩藩の庇護を受け、鳥羽伏見の戦いに先立っては近藤勇を銃撃、ケガを負わせます(この為、近藤は鳥羽伏見の戦いには参加できませんでした)。明治44年没。

・雪見栄助(ソウシの父親)
  → 奥沢 栄助(おくざわ・えいすけ)


 新撰組の伍長を務めた人物(らしい)。
 池田屋事件の日に亡くなっているようですが、討ち死になのか病死なのか、はっきりしたところは判らないようです。

・カラス天狗59号 平助(背の高い方(笑))
  → 藤堂 平助(とうどう・へいすけ)


 新撰組結成時のメンバーの一人。
 池田屋事件で大活躍するなどして、新撰組内では重要なメンバーの一人でした。元治元年、隊士募集のため近藤と共に江戸に戻り、そこで、北辰一刀流の先輩である伊東甲子太郎を勧誘します。しかしこれが、彼の人生の大きな岐路となってしまったのです。後、伊東らと共に御陵衛士を拝命、新撰組を脱退。その行為を憎んだ新撰組によって、伊東が惨殺されます。藤堂は、その死体を取りに行ったところを、待ち伏せしていた新撰組隊士らに斬られ、命を落とすのです。

・カラス天狗63号 重助(太ってる方(笑))
  → 平間 重助(ひらま・じゅうすけ)


 芹沢鴨の一派の一人。
 芹沢粛正の際、一緒にいた平間も斬られかけますが、彼は死を装い逃亡。その後の行方は不明です。

・ゲンベェ(犬(笑))
  → 井上 源三郎(いのうえ・げんざぶろう)


 近藤の天然理心流試衛館の門人の一人。
 近藤の浪士隊参加に同行、新撰組結成メンバーの一人となります。池田屋事件にも参加。後、鳥羽伏見の戦いにて戦死します。
 人望が厚く、「源さん」と呼ばれ親しまれたそうです。

 ……ゲンベェと源三郎じゃ全然名前が違うじゃないか!とお思いの方も多いと思います。ごもっともです。(笑) ……いやー、実は、私、1話でゲンベェを見たとき、「あ、この犬の名前は、きっと「ゲンザブロウ」に違いない!」と思ったんですよ。なぜだかよくわかんないんですけど。(笑)
 そーゆー思いこみもあって、あえて井上源三郎をここで紹介させてもらいました。

・坂本数馬(玲子さんの弟、刑事)
  → 坂本 龍馬(さかもと・りょうま)


 言うまでもなく、新撰組隊士ではありません。(笑)
 土佐出身。幕府の重臣・勝海舟と出会ってから海外に目を向け、勝の設立した、幕府の神戸海軍操練所で航海術を学びます。勝の失脚・操練所閉鎖後は、塾生達を引き連れ、長崎にて亀山社中(後の海援隊)という商社を設立します。これを基盤に、薩長同盟の仲介や大政奉還の提案など多くの功績を残しますが、維新を見ぬまま、慶応3年11月15日、京都寺田屋にて何者かに暗殺されます。
 でも実は、タイムマシンで現代に……ってのはコミック版4巻での話。(笑)
 おそらく、明治維新史上最も名が知られているであろう人物。その活躍ぶりと、自由奔放さが偲ばれる人柄とで、今もって非常に人気が高い人物です。

・清川マユコ(クラスメート、ソウシくんラブラブ(笑))
  → 清河 八郎(きよかわ・はちろう)


 新撰組隊士ではありません……が、新撰組を語る上では欠かせない人物。
 庄内の豪農の出身。若い頃より江戸に出、剣を江戸の千葉周作道場で学びます。開国後の時勢の中で、熱烈な攘夷論者となり、西国を回り多くの人物と交わります。
 文久3年の将軍・家茂の上洛に際し、幕臣(幕府の家臣)である友人の山岡鉄舟に、浪士を募って将軍の護衛に当たらせるよう提言。幕府はその提言をうけ浪士隊を募集、これを結成し、清河もこれと共に上洛します。
 しかし、京都に着いた清河は、幕府の意図に反して尊皇攘夷を主張。これに驚いた幕府は「江戸防衛のため」と理由を付けて清河らを江戸へと返します。この時、清河と分かれて京都に残留した近藤勇と芹沢鴨らが、新撰組を結成するのです。
 江戸に返された清河は、幕府に危険視され、間もなく暗殺されてしまいます。

・真木イズミ(クラスメート、霊感少女)
  → 真木 和泉(まき・いずみ)


 新撰組隊士ではありません。
 久留米の水天宮の神官。倒幕運動の理論的指導者です。久留米天保学連を結成、水戸学を鼓吹して藩政改革を唱えましたが、政争に破れ幽閉されます。薩摩藩の島津久光の率兵上洛にあたって幽閉を脱し、長州藩に身を寄せて、長州藩尊攘派の重鎮として上京します。後、幕府と長州藩が争った禁門の変にあたり、忠勇隊という一隊を率いて戦いましたが破れ、山崎の天王山にて同士17人と共に自刃。

 イズミちゃんが登場したとき、「これで姓が真木だったら面白いなー」なんて思っていたんですが………いやー、そのまんまでした(笑)
 関係ないですが、女子のマラソンだか駅伝だかのランナーにも「真木和泉」って名前の方がおられましたよね、確か(漢字は違ったかも)。

・島田ミホ(クラスメート、眼鏡の娘)
  → 島田 魁(しまだ・かい)

・近藤エリ(クラスメート、ジーンズの娘)
  → 近藤 勇(こんどう・いさみ)

・藤堂めぐみ(クラスメート、セミロングの娘)
  → 藤堂 平助(とうどう・へいすけ)

 島田・近藤・藤堂については先に述べているので、そちらを参照して下さい。

・高堂光国(15話、30話に登場、歴史研究家)
  → 徳川光圀(とくがわ・みつくに)


 ……ま〜〜ったくもって、新撰組とは関係ありません(笑)
 さらに、1ゲストキャラでしたんで、どうしようかと思ったんですが……しかし、これほど有名な、元ネタになっている人物もいませんし、幕末と無関係でもないので、あえて紹介。
 そう、かの有名な、「水戸黄門」様その人です。徳川家康の孫。尾張・紀州と共に「徳川御三家」と称される、水戸徳川家の2代藩主です。
 ご存じの方も多いでしょうが、有名な諸国漫遊物語はフィクションです。
 彰考館を設け、「大日本史」という、神武天皇以来の天皇の歴史を記した歴史書を編纂しました。この編纂作業は代々続けられ、最終的な完成は明治39年となるのですが、この作業の過程において「水戸学」と呼ばれる学問が成立します。この水戸学が、幕末の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えることとなるのです。

 光圀を挙げたついでに、もう一人有名な、水戸の御老公様をご紹介しましょう。
 その人の名は徳川斉昭。水戸藩9代藩主で、幕末期には隠居しており、文字どおりの「水戸の御隠居」。
 優秀な人材を登用して藩政改革を行い、迫りつつあった西欧列強の驚異から海防策を幕府に具申。ペリー来航時には攘夷論を唱えます。将軍の跡継ぎ問題から、大老・井伊直弼と対立、安政の大獄時には蟄居させられます。

 水戸学発祥の地のお国柄故、斉昭自身は元より、藩一同熱烈な尊王攘夷論者で、幕末の初期には、水戸は尊皇攘夷派の急先鋒・第一の藩でした。
 しかし、その後、水戸藩内部では対立や抗争、武力決起が相次ぎ、混乱が続き優秀な人材も姿を消していったため、やがて水戸は、幕末史の表舞台から姿を消していくことになるのです。

 ついでのついで。なぜ、「黄門」様と呼ばれるか、について。
 水戸家は、中納言という官職(朝廷が与える役職。中納言というのは凄くエライ。ちなみに、尾張・紀州は大納言で、水戸よりちょっとエライ。)を得ていたのですが、この「中納言」の職責の内容が、中国における「黄門侍郎」に似ていたことから、中納言の別称として「黄門」と呼ばれるようになったのです。ホントにオマケですね(笑)
 

[その他の新撰組隊士]

 上記で挙げた以外の隊士の中から、特に有名な人を何人かピックアップしてご紹介します。今後、こういう名前の人が番組に登場したら、要チェックだ!!(笑)

・伊東 甲子太郎(いとう・かしたろう)

 北辰一刀流千葉周作の門下。
 近藤・藤堂らが隊士募集のため江戸に来た際、その勧誘を受け入隊。西国を視察するうちに、尊攘倒幕派の人々と接触。だんだんとそちらに思想が傾いていきます。伊東は孝明天皇の御陵衛士(天皇の墓を警備する兵士)を拝命、新撰組より分離します。しかしこれは、新撰組にとっては許しがたいことでした。近藤に呼ばれ、酒を振る舞われた帰り道、待ち伏せていた新撰組隊士によって、京都油小路にて暗殺されます。

・斎藤 一(さいとう・はじめ)

 新撰組三番隊隊長。
 清河ら浪士隊が入京した直後にこれに加入。結成初期からのメンバーであり、大幹部の一人でした。伊東らが御陵衛士として脱隊した際、近藤側のスパイとしてこれに入り込みます。伊東が斬られた後新撰組に復帰、鳥羽伏見の敗戦後は会津で戦い、一度は戦死と思われたものの、生き延びました。藤田五郎と名を変え、西南戦争の際には九州に赴いています。大正4年没。

・永倉 新八(ながくら・しんぱち)

 江戸にいた頃から試衛館の近藤らと親交があり、近藤らの浪士隊参加にも同行。結成メンバーの一人となります。新撰組二番隊隊長。新撰組大幹部の一人。池田屋事件にも参加、指を削がれるほどの激戦となりました。鳥羽伏見の敗戦後は土方らと別れ、独自に靖兵隊という部隊を作り、会津まで各地を転戦します。維新後も生き残り、北海道樺戸監獄の剣術師範を務めた後、大正4年没。
 永倉の記した新撰組の記録は、重要な史料とされています。

・原田 左之助(はらだ・さのすけ)

 新撰組副長助勤、十番隊隊長。
 江戸にて近藤・土方らと親交があり、その浪士隊参加に同行します。芹沢鴨暗殺や池田屋事件など、重要な事件のほとんどに参加しています。鳥羽伏見後は土方らと別れ、永倉新八の靖兵隊に参加。これとも分かれた後は、江戸に戻り、彰義隊に参加し、上野戦争にて負傷、戦死したと伝えられます。
 ちなみに、彼が坂本龍馬を暗殺したとの説もあります(今日ではあまり有力な説ではないようですが)。

・山崎 烝(やまざき・すすむ)

 新撰組副長助勤・諸士取調役兼監察。大幹部の一人。
 監察、すなわち密偵(スパイ)という役柄ゆえ、山崎に関してはあまりはっきりした史料が残っていません。その死についてもはっきりしていませんが、どうも鳥羽伏見の戦いにおいて負傷、戦死したようです。
 フィクションではありますが、池田屋事件に際して、薬屋に変装して尊攘浪士の動きを探り、池田屋内部から新撰組隊士を誘導したという活躍が有名です。

 

 いかがでしょうか。新撰組がどんなものか、多少の雰囲気はお判りいただけたでしょうか?……と言っても……気がついたら、辞書的な羅列になっちゃってるもんなぁ……これじゃわかりにくいかな? うう、自分の文才の無さが……。(^^;;

 もし、少しでも興味を持たれたならば、新撰組に関しては数多くの小説・漫画・ビデオなど出ていますんで、どれか一つでも目を通してみられると、雰囲気が判って良いのではないかと思います(私もそんなにたくさん読んでるわけじゃないし〜(笑))。

 ではでは。失礼いたしました。

writern by 輪違聡司 




参考文献:
「新選組のすべて」(新人物往来社)
「歴史群像シリーズ31 血誠新撰組」(学習研究社)
「光栄ゲーム用語事典」(光栄)
「燃えよ剣」司馬遼太郎・著(新潮社)
「幕末動乱の男たち」海音寺潮五郎・著(新潮社)

  (ホントは、も少し手持ちの文献はあるんだけど……
   部屋の片付けのゴタゴタで行方不明なの、くすん(涙))



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