やがて別の音がスピーカーからしみだしてくる。こゆるぎもしない正弦波、ハウリング音だ。音は程なく音量を上げ、彼女の歌声を追うように高まった。そしてあろうことか二つの音と声はからみ合い、新しい激しい「うなり」を産み出した。「うなり」は尋常な定位を嫌い、ステージの右や左へ飛んで、また容易に観客の耳の中へ侵入してきた。
客席の隣、壁際で緑色に光るものがある。円盤型をしたマイクに取り付けられた発光ダイオードだ。集音性の高いそのマイクのスイッチが入っていることを示している。マイクのコードは数十センチほど延びて、円盤の親玉のような不思議な形をした電話機に接続されていた。
彼女の歌声は、今この電話機につなげられた細い電話回線を通って外の世界へと流れ出していた。彼女の切り裂くような歌声は、ホールの空気を凍りつかせるのと同時に、受話器を取り彼女に耳を傾ける世界中の人々の脳の中をも支配していた。そこには距離は存在しない。同時に過ぎてゆく時間があるばかりである。
もう一つ、この演奏を外の世界に伝えているのは、ノート型コンピュータを膝の上に乗せた一人の男である。彼は自分の耳で聞いた音、目で見た世界のありさまを文字に置き換えて、ネットワークの上、人の目に触れる場所に残してゆく。リアルタイムで綴られる小さな世界からの報告書は、特定できない世界中の机の上、膝の上、手のひらの中で開かれ眺められている。
このようにして壁際で輝く発光ダイオードと男の叩く密やかなキーボードの音は、パフォーマンスを続けるステージや、それを食い入るように見つめる客席と対立して存在する探針としての二つのデバイスの存在感を、ごく控え目に呈示していた。
ステージに据えられたちゃぶ台を前に座る女性が促すと、客席の後ろからいかにも演奏者らしからぬ一人の男が、ノート型コンピュータを携えて現れ、彼女の隣にしゃがみ込んだ。ほどなくちゃぶ台の上のコンピュータと彼の持ってきたコンピュータとが接続される。彼女の操作ですぐにデータが取り入れられた。
彼女がデータ再生のボタンを押すと、スピーカーから幼い声が飛び出した。
「……キャンプへ行きました」
子供らしい明るい話し振りやはにかんだ挨拶が会場に響きわたる。
「こんにちは、あなたは誰ですか?」
それらは、何百キロも離れた土地に住む子供達の声だった。ネットワークを通じて各地から採取してきたものである。
男が役目を終えてそそくさと退場すると、ちゃぶ台の女性はおもむろにコンピュータを操作し始める。指先の微妙な動きに合わせて、スピーカーから流れ出す子供達の声が、周期を変えて繰り返される。声は臨機応変に発話したり止まったり、より合あわさったりしながら独特のリズムを刻んでゆく。
ホールの気温の高さに呼応するように、リズムが高まってきた。気がつくと声はすでに原形を失い、聴衆を圧倒する音の組み合わせへと変貌している。距離、時間、声、音楽、あらゆる属性は、ここへ集まり、彼女の手によってないまぜにされ、新たな何かが創り出される瞬間を迎えていた。