黒い壁のポテンシャル

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on the floor 「ああ」
 心安らかで朗らかな、いささかの邪気も含まぬ子供の声が、一筋の光のみのともる暗い壁に囲まれた地下室を満たすビートの間を縫って空中に投げかけられていた。
 その子供は、継ぎ目のわかる磨かれた板張りの床を裸足で踏んで踊る人々をすり抜け、自分の家族を見つけ出し、足元にしがみついた。優しく抱え上げられると、その頭を胸に沈める。そっと体を揺すられて安らぐその耳には、スピーカーから放たれるドラムの振動が、眠りを誘う歌となっているようだった。
 彼らのそばの台には酒瓶と紙コップと灰皿があり、周囲にはそれらを用いる者達の煙や酒気が浅くたちこめていた。台は奥まるにしたがって階段状に高さを増す。そこに思い思いに座って音楽に耳を傾ける数人の人影は、足や首を微妙に揺り動かして、DJの紡ぐ音を受け止め、堪能し、時に自分なりの批評を加えたりしていた。
「ぁぁ」
 控え目な声の主は、今度は床に腹ばいになっている。見ると、部屋のあちらこちらに似た格好で体を休める人々があった。腹や背中を床板に触れさせ、空洞になっている床下への音の反響を楽しんでいるのだ。音楽に身を寄り添わす一体感が、この部屋に彼らの存在する理由を十分に提供しているのであった。
 純粋に音を感じるためにしつらえられた今日のこの場所には、聴覚以外を刺戟するものは少ない。照明は瞬くこともしない。部屋の片隅に据え付けられたモニターに流れるのはただのノイズ。壁の間で音楽だけが唯一の共通体験として存在し、容貌を変化させ続けていて、自らの思うままに振る舞う人々の耳と気持ちと時間とを果て知らず満たしていた。ここに居合わせる人々には一人一人異なった世界、ポテンシャルがあった。薄闇と音場の中で各自の体から溢れ出し、触れ合ったり、大きく重なったり、あるいはねじれの位置をとるポテンシャルが。


1998.1.18
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