義経にとって屋島の合戦とは?



【1 義経の決断

屋島の合戦は、義経の独壇場の戦であった。この戦で、義経は宿敵平家軍をよく欺き、150騎という少数の精鋭部隊を縦横無尽に駆使して平家本陣を攻め勝利を得た。この戦は、平家物語でももっとも義経の活躍が生き生きと描かれている。

そこには取材記者が幾人も従軍していた感さえある。いや確かに義経の周辺には、範頼とは比べにならないほどの記者たちが取材をしていたに違いない。義経には範頼と比べてニュース性が高かったのである。そして記者の多くは、京都の院に通じる者たちであったと想像される。

それほど、義経は注目される存在であった。何故注目されていたかと言えば、一ノ谷の敗北によって、源氏方に傾きかけた西国の武将達は、知盛軍の勢いをみて、再び平家方に付く動きをみせていて、このままでは、平家軍が大軍となって、京の都に攻め上る危険もあったからだ。

そこで義経は、文治元年(1185)1月8日、法皇に平家追討の院宣を出すことを法皇の近臣の大蔵卿高階泰経を通じて願い出る。平家物語では、義経はこのように語る。

平家は神仏にも見放され、法皇様にも捨てられて、京の都を出て、波間を漂う落人となっております。しかしながらこの三年の間、我が源氏軍は、これを攻め落とせず、多くの国々が彼らのによって塞がれておりますことは、ただただ残念でなりません。そこで、この義経、今度だけは、この平家を、鬼界島、高麗、天竺(てんじく)、震旦(しんたん)の果てまでも追いつめ、これを攻め滅ぼさない限りは、再び京の都に帰還せぬ覚悟をいたしております。どうか都を後にすることをお許しくださいますように・・・」(現代語訳佐藤)
 

藤原経房の日記「吉記」によれば、義経は高階泰経に、範頼軍の兵糧がこの1ヶ月ほどで尽きてしまうこと。そしてもしも範頼が軍を撤兵してきたならば、街道の武士たちが平家に属して大変なことになることを切々と訴えたのである。

義経のこの言葉に法皇も心を動かされて、
「よく分かった。しっかりと構えて昼夜を分かたず勝負を決するようになさい」と言った。

義経は、すぐ、自らの館に戻り、自らの郎等たちに、告げる。

皆の者。良く聞け。院宣を賜った。その内容は、『平家を追討すべし』というものだ。そこでこの義経鎌倉殿の御代官として、陸であれば、馬の足の及ぶ限り、海であれば舟につけた櫓や櫂の届く限り攻め立てて行く覚悟。もしここで迷う者あれば、さっさとここから立ち去るがよかろう・・・

私はこの屋島の合戦にいたる義経の苦悩の決断こそ、もっとも義経らしさが滲み出ていると思うのである。この時点で、京の都は、完全に義経の統率下にあった。義経が京の町からいなくなることは、都の平安が崩れてしまう危険が潜在していた。そこで、院は摂津の渡辺に高階泰経を遣わせて義経を引き留める工作をしている。しかし義経は、これを丁寧に断って、不退転の決意で、屋島の平家本陣を一気に攻めることを再度法皇に告げてくれるように懇願するのである。この時点で義経は生き死にという日常の価値観を越えた次元に生きていた。そう思うしかない。
 

【2 逆櫓論争とは何か?

屋島に向けて船出をしようと摂津の渡辺に集結した源氏の軍船を突如として嵐が襲う。文治元年2月16日のことである。軍船二百艘は、大波に揉まれて修理する舟が続出、その日は港に留まることになった。そこで評定がはじまる。これが義経と梶原景時の逆櫓論争の始まりであった。
 

ある者が言う。
「そもそも、我々に舟戦の経験はなく訓練もできておりません。いかがすべきと存ずる?」
戦奉行の梶原景時が口を開く。
「今度の戦では、舟に逆櫓を付けて戦いことにしたい」

義経は、驚く、いや驚くというより呆れて、
「逆櫓とは何のことだ?」

「それは馬ならば、右にも左にも容易に回すことができますが、舟の場合はそうはいきません。そこで舳先の左右に櫓をつけて、どちらにも移動できるようにしたいと思いますが」

「梶原殿。戦というものは、絶対に引かぬ覚悟を持っていても、状況が悪くなれば引くのが常識というもの。始めから逃げる準備をすることなど良かろうはずがない。門出において縁起でもないことではないか。逆櫓でも帰櫓でも、梶原殿の舟には、百でも千でも付けられよ。義経はもとの櫓で結構」

「良い大将軍というものは、攻めるべきところでは攻め、引くべきところでは引き、身をまっとうして敵を滅ぼすから良き大将軍と呼ばれるのであります。どっちかに偏っていては、イノシシ武者言って、良き大将軍とは呼ばれませぬぞ」

義経は、戦の常道をこの場に当てはめて言った梶原の弁にバカバカしくなって、冗談を込めて次のように言った。
「イノシシ(猪)かカノシシ(鹿)は知らぬが、戦というものは、ただひたすらに攻めに攻めて勝ったればこそ心地良いのではないか!?」


周囲の者も緊張感の中で発した義経のジョークにおかしくなったが、梶原が顔を真っ赤にして目を引きつらせているので、必至で笑いをこらえている。ふたりはにらみ合って、そのまま評定は打ち切りとなる。

すでに、この時点で、屋島の平家勢は、源氏軍が舟で渡ってくるという情報を得て、渚の各所で待ちかまえている。舟戦では、平家に一日の長がある。義経の中では、現時点での舟戦をしては、勝ち目がないことを薄々感づいている。平家軍の意表をついて、いかに屋島の平家本陣に迫るか。義経の関心はその一点にある。

一般常識で言えば、梶原の言うことは理に適っているように見える。しかしそもそも平家が舟を揃えて待ちかまえているところに向かって行けば、舟戦に不慣れな源氏に勝ち目はない。そして梶原の戦略の背後には、戦というものを理で考える頼朝の思考がある。頼朝の戦略は、長期戦である。そして兵をなるべく損なうことを減らすことにある。しかしその頼朝の戦略をひたすら守って戦っている九州の範頼軍の苦戦は明らかで、長期戦には兵站(へいたん)の供給という困難がある。

義経が自ら院に申し出て、出陣した思いは、源氏がこのまま長期戦になれば、敗北しかねないというギリギリの中で院のお墨付きを貰っての出陣だけに、戦の本質というものを熟知していない頼朝の長期戦では同じことになるという含みが義経の言葉の中にはあることになる。

そして梶原の意識については、もしも義経が来なかったならば、自分が頼朝の代官となり、鎌倉軍を率いていたという意識がどこかにあるように感じる。つまり義経が急に自分の上に来たことによって、梶原は一番手柄を上げる機会を失ったのである。そのことでの義経への嫉妬(いや恨みか!?)のようなものが垣間見える。こうして一ノ谷以降くすぶっていた義経への対抗心嫉妬心は最高潮に達し、頼朝に讒言を奏上する土壌が整ったのである。

結論である。逆櫓論争には、多くの誤解がある。それはまず嵐の海をついて屋島に向かうから逆櫓をつけるべきかどうかという論争ではないということだ。逆櫓は、屋島の合戦を海戦として戦うか、それとも通常の陸戦として戦うかの論争だった。

屋島の平家方は、これを海戦と戦うべく準備を整えている。そこで総大将の宗盛は、四国の舟長たちを総動員して一気に義経率いる源氏勢を壊滅させようとの戦略のもとに、地元の田内左衛門の兵三千を伊予の河野氏に派遣してこれを味方に付けようとする。

しかしそのため、屋島をめぐる周辺には、平家の防衛ラインに大きな隙間が生まれていた。屋島本陣の平家勢は僅か千騎ばかりが安徳天皇の仮宮(かりみや)を守っていたに過ぎない。折から、一ノ谷で名を馳せた義経が後白河法皇の院宣を掲げて、平家討伐に屋島に向かっているという噂が流れていた。でも、まさか義経が嵐の中をやってくるとは思っていない。平家勢は、一瞬でパニックとなるのである。

次に壇ノ浦合戦の勝利の後に頼朝に送られた梶原の讒言状について現代語訳し読み解いてみることにしよう。 
 

【3 梶原景時の讒言状を読み解く】

吾妻鏡の文治元年(1185)四月二十一日の条に、次のように記されている。
 

梶原平三景時よりの飛脚が鎮西(九州)より到着した。親類の者がこの書状を持ち頼朝に献上した。始めは源平合戦の中で現れた吉兆の数々を述べ、終わりには義経の不義のことを訴える内容であった。

その文が言うには、
 

西海の御合戦の折には、縁起の良い吉兆が色々と顕れましてございます。鎌倉がこのように平安であることは、かねてよりの神仏の御意志を示すものと考えております。その理由は何かと申せば、まず三月二十日、私景時の郎従の海太成光の夢に、白装束の男子が立文(たてぶみ)を捧げ持って現れたと申します。かの者は、おそらくこの人物は、石清水八幡宮のお遣いかと思って、文を拝見したところ、そこには『平家は未(ひつじ)の日に死ぬであろう』と書いてあったとのことでございます。目覚めた後、かの者がそのことを語ったので、これによって未の日を決戦の日と決めて勝負を決するようにしたところ、本当にそのようになったのでございます。また屋島の戦場を攻め落とす時には、御味方の軍兵の数が少なかったのですが、数万の軍勢がまぼろしとなって出現し、敵方には見えたと申します。次の長門の国の合戦では、大亀が一頭海上に浮かび上がって、これが後には陸に上陸したと申します。これを漁師たちが怪しんで、範頼殿の御前に持参したのでございます。大きさは大の男が六人がかりでも持てあますほどのものでした。その時、亀の甲を外すべきかどうかを相談したところ、以前見た夢をお告げがあったことをたちまちに思い出されて、範頼殿は、これを止めさせて、その甲に文板(ふみいた)を付けて海に放ったのでした。すると平家軍の最後の時に、その亀が再び源氏の舟の舳先に浮かび上がって参ったのです。(このことは文板によって分かった次第です。)次には白鳩が二羽が我が軍の舟屋形の上をひらりと舞っておりましたが、その時に丁度平家の主だった人々が海底に飛び込んだのでした。次に周防の国(山口)の合戦の時、突然一本の白旗が中空に出現して、しばらくの間味方の軍士の目の前に見えておりましたが、いつか雲の中に消えてしまいました。・・・。」

「また義経殿は君(頼朝殿)の御代官として、御家人を引き連れて合戦を遂行されました。ところが義経殿はいつの時も己一身の功のみのことは存じておられるているようではありますが、まったく多勢が力を合わせるということを考えている様子はなく、そのために周囲のいる多勢の者は、それぞれ義経殿を慕わずに、志君の頼朝殿を思いながら、心をひとつにして勲功を上げようと励まして参ったのです。このことによって平家を討伐することが叶いましたのに、その後の義経殿の有様は、日頃に心がけるべき行儀もわきまえられず、周囲のものは、皆薄氷を踏むような思いで過ごして参りました。義経殿には真実和順の志もなく、なかでも景時は、頼朝殿の近臣として、かりそめにもそのお心の趣旨を伺っているだけに、義経殿の非道の振る舞いを見るにつけ、『これはまったく関東におられる頼朝殿のご機嫌にそぐわぬものですぞ』とお諫め申し上げたところ、逆に批判が返ってきて、咎められ、あわや刑を受けるようなことにもなりかねませんでした。合戦がなくなった今、義経殿のおそばで奉仕する理由もなくなっておりますれば、早くごめんをこうむって、この場から鎌倉に帰参いたしたく存じ上げます。」(現代語訳佐藤弘弥)


さてこの景時の讒言状は、おそらく、随分と長いもので、中頃の・・・の部分は、吾妻鏡の編集者がカットした部分と思われる。またもっと義経に対する辛辣な批判もあった可能性もあり、その部分はカットされたものかもしれない。ともかく、ひたすら鎌倉にいる頼朝に忠誠を誓い、義経の振る舞いについて、とても従えるものではないこと。諫めの言葉を義経に言ったならば、殺されそうになった。薄氷を踏むような思いだったと、頼朝の同情を買うような内容となっている。

ところで、景時が義経に怒っている理由は、ふたつあるように見える。ひとつは、「己一身の功」にこだわって、「多勢の合力」をないがしろにしていることである。もうひとつは、日頃心がけるべき行儀をわきまえていないということになる。ひとつ目の怒りは、義経が鎌倉の御家人に功を与えるような大将ではない。軍功を独り占めにしているという不満である。もちろん景時の不満も分かる。何故ならば、景時とて、梶原一族の存亡をこの戦に賭けて西国に向かっているので、手柄を立てるのが、大将の義経ばかりでは納得できないというものである。もうひとつの怒りは、義経の日頃の振る舞いが非道だというのであるが、これは景時の主観であって、義経という人物が景時にとっては虫が好かないところがあったのであろう。

義経の立場になって考えれば、景時のひとつめの怒りは、まったく理に合わないものだ。言ってみれば、義経は自分に従わない鈍才どもをあてがわれた司令官の立場である。どう見ても鎌倉の御家人の多くは、戦場の現状よりは鎌倉にいる頼朝の意向ばかりを気にしていて、その為に、現場の状況を逐一頼朝に報告し、作戦を立てるというような仕組みになっているように見える。頼朝の基本的スタンスは、なるべく、兵士を失わない長期戦を欲し、その為、時として電撃作戦を試みたい武将がいたとしても、躊躇してしまうようなところがあったはずだ。頼朝の顔が漠然と浮かんでくるのである。

考えてみれば、中世においてすでに今日の官僚制度のような仕組みが頼朝の周辺では出来上がりつつあったということかもしれない。しかし義経はまったくそのような武将ではない。最前線にいて、状況をつぶさに観察し、風の動き、雲の動きを見ながら、瞬時に作戦を遂行する鋭い軍事的才能に恵まれている。現場の大将がいちいち遠くにいる最高司令官にお伺いを立てるような戦では、好機というものを逃してしまう。その証拠に、九州まで遠征した範頼軍は、義経の出陣がなければ、平家の知将知盛によって、殲滅させられた可能性も実際にあったのである。それは現場の状況を知らぬ頼朝が作戦の要を事細かに指示していたからに他ならない。すでに鎌倉時代において、日本的官僚システムは産声を上げていたことになる。

次に景時の怒りの質を知るために、壇ノ浦合戦の開戦前における義経と景時の対立事件を分析してみる。
 

【4 壇ノ浦前の義経と景時の決定的対立を読む】

平家物語(高野本)によれば、周防の国(山口)に渡った義経は兄範頼軍と合体。熊野水軍を味方に引き入れて、二千の兵と二百余艘を我が配下に治め、また伊予からは河野通信が百五十艘の兵船を従えて合流。源氏方の船数は、三千艘に、一方の平家の船は千艘となった。もっとも、平家物語の将兵の数や船数については、脚色が多く、実数については、信用性がない。しかし海戦不利と思われていた源氏方に熊野水軍がついてことは、潜在的に形勢が逆転していることを物語っており、これを平家物語の作者が、「鶏合」(とりあわせという)のエピソードとして、一章にまとめたことは懸命な編集判断であった。

時は、文治元年三月二十三日のことである。既に、源平両軍、翌日二十四日豊前の国門司の赤間の関で、双方矢合わせの上に、決戦をすることになっていた。まさに壇ノ浦の戦いの前夜の話である。
 

「今日の先陣は、この景時が賜りたく存じまする」
「義経がいなければのことだ」
「それはよろしくございませぬ。殿は大将軍ではございませぬか」
「大将軍であると・・・思いもよらぬこと。大将軍は鎌倉におわす頼朝殿ただひとり。義経は代官を賜った身なれば、他の皆さまと同じ身分に過ぎないのだぞ」
 
景時が先陣を受けるというのは、武将としての名誉を賭け、平家追討の勲功を是が非でも成し遂げようとする当時の関東の武将達が持つ心情の一旦である。それを義経は強く否定する。義経には、平家を打ち破るのは、容易なことではないことを勘づいている。その為にも、自分が先頭に立ち、風を読み、潮の流れを読みながら、変幻自在に戦術を変える必要があると思っている。そこに頼朝派の急先鋒の戦奉行景時が、自分を先陣にと訴えたものだから、義経は梶原の頭の中にある頼朝への忠誠心を逆手にとって、自分も代官(奉行)のひとり。他の御家人と変わらないのだというレトリックを使って、梶原の先陣を退けるのである。義経の中には、逆櫓をいうような人物が先陣では、戦術が立てられないという不安がどこかにある。義経の中では、瞬間に組み立てる戦の中の臨機応変のイメージが、堅物の景時のような者の行動によって、崩れることがたまらなくイヤなのである。義経は戦においては完璧主義者である。たとえて言えば、平家の動きがスローモーションのように見えて、これを打ち破る戦術のイメージが、瞬時に浮かんでくるのである。そこ
にイメージを崩しかねない景時のような存在が義経にとってはある意味、邪魔なのである。義経の決意の固さを感じ取った景時は思わず本音が漏れる。
 
 
「この殿は、まったく根っから侍の主君にはなれないお人じゃ」

これを聞いた義経は完全に切れた。
「何だと。日本一の愚か者めが」
そして、義経は刀に手をかけた。

「ワシは義経殿の郎等ではない。鎌倉殿の他に主君は持たぬわい」
景時も、刀に手をやって、にらみ合う。

そこに梶原の子供三人が寄り合って、義経を対峙した。

そこに佐藤忠信、伊勢三郎、源広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などが、梶原一族を囲み、俺がこいつを討ってやるというように一色触発の雰囲気となる。

そこに義経を三浦義澄がなだめにかかり、景時には土肥実平が抑えにかかる。そしてこのふたりが手をするようにして、言うのである。
「このほどの決戦を前にして同士戦などしていては、平家を利するのみと存ずる。こんなことが鎌倉殿の耳にはいったらどうなさる。穏便にはすみませぬぞ」

この言葉に義経は、冷静さを取り戻した。義経が切れた理由は、景時の嫌みったらしい一言であるが、双方開戦前で、気がいらだっていることもある。また義経からみれば、逆櫓を主張し、屋島の段階で平家との海戦を主張した景時の凡才ぶりを見るに付けても、自分の戦のイメージを崩されるようなこの男の存在が許せないところまで来たということであろう。

平家物語の作者も、この事件が決定的な契機となって、梶原景時は、義経を心底恨むようになって、とうとう滅ぼすことになったと推測する。
 

【5 梶原の讒言問題は東国武者の義経批判の象徴か?!

さて義経を愛するものは、この梶原景時を、個人的に嫌う傾向にあるが、よくよく冷静に考えてみれば、梶原の讒言の中には、義経に同行していた東国の武者たちの義経に対して抱いていたある種共通の認識が象徴的に込められているようにも感じられる。

つまりそれは価値観の違いとも云えるもので、義経はたとえば周囲との軋轢があることについて、どこか無頓着なところがあったことは否定できない。まあ、これをもって彼を批判するものは「自専の人」と義経を呼ぶのであるが、これは義経のような天才にありがちな、自己中心的な思考パターンで、致し方ない側面もある。一方、頼朝は、平家の監視下に置かれながら、伊豆で過ごしていただけに、人一倍、周囲の人間たちが、自分をどのように思い、何を期待しているかを思考する能力に長けた人物だったと推測される。

義経にとって壇ノ浦の海戦は、文字通り、己の全存在をかけた最後の戦いだった。ある意味、義経の生涯は、平家一門を完膚無きまでに殲滅するためにあったと言っても過言ではない。

義経の運命は、この壇ノ浦で絶頂を迎えた。その為に周囲との軋轢も当然多かった。特に東国の武者との間には、歴史観や価値観の違いが立ちはだかった。世に言う「梶原景時の讒言」と呼ばれるものは、東国武者が義経に対して違和感を持っていたことの象徴的な事件として理解すべきであろう。

平家追討に参加した東国武者の多くが、義経のように、父義朝の汚名を晴らすためと言った己の魂までも賭けたような崇高な目的のために、戦に従軍しているのではない。彼らはただ東国にある自分の領地を安堵してもらい、あわよくば功名を得て、出世もしたいなどとこの戦を欲得で考えている。これは義経とは決定的な参加意識の違いである。

何もこれは東国武者だけではなく、西国の武者でも同じである。壇ノ浦の勝利にとって、熊野水軍の動きが決定的な役割を果たした。

平家物語が描く如く、当初平家方に与していた熊野別当湛増(たんぞう)は、迷った挙げ句に闘鶏の勝ち負けで状勢を占って、源氏加勢にまわる事件もあった。こんなことを見るにつけても、源氏方の武者で、一途な気持ちで動いているのは、ほとんど義経とその郎等以外には見あたらないと言ってよい。通常人間は、欲得の願望が、期待できる方に付く。そこでは熊野別当湛増同様、寝返りもあれば裏切りもある。義経と梶原の口合戦は、その意味でも東国武者と義経の価値観の違いが招いた内紛なのではなかったか。つまり梶原がやらなければ、他の誰かが義経を誹謗中傷していた可能性がある。

そこで頼朝は、東国武者が担ぐ神輿に担がれた人物であるから、至極当然のように東国の利害を優先する。つまりは義経の追放の方向に大きく舵をとることになるのである。つづく



2005.9.7 Hsato

義経伝説