白旗神社略誌
白旗神社
御祭神 寒川比古命、源義経公
配神  天照皇太神、大国主命、大山祀命、国狭槌命
例祭日 七月二十一日
由緒
往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる、文治五年源義経奥州にて敗死し、その首を黒漆柩に入れ、美酒に浸し持ち来り腰越の里にて和田太郎義盛、梶原平三景時直垂を着け甲冑の郎従二十騎を相具して首実検をなし此の地に埋めたり、斯(かか)る実事に基きて宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、社前領家町に首塚、首洗井あり、享保三年紀州公姫君参勤交代の砌(みぎり)此の陣屋於て急に腹痛を起し、大神に祈願せし処、忽(たちまち)に全癒す、木杯一個紋章幕、高張を奉納し、例祭には十万石の格式有と伝ふ、享保四年十二月二十一日神祀官領従三位吉田兼敬公より、正一位を授く。宝暦二年社殿を再建し旧坂戸町総鎮守となし、白旗神社と称つ、文政三年庚辰年二月八日、火災に罹(かか)り、社殿及古書類等を焼失す、文政十一年子年六月より天保六乙末年冬に亙(亘:わた)りて社殿を再建し現在に至る。
御社殿
現在の御社殿は文政十一年六月より天保六年十二月にわたって造営された、本殿、幣殿、拝殿を連ねた典型的流権現造り(ながれごんげんずくり)であります。華麗な彫刻は代表敵江戸時代を偲ぶ神社建築の文化財として貴重なものです。昭和五十四年六月御社殿腐朽による大改修工事によって、在来の御社殿が一新した。
木造銅板葺流権現造り
本殿 3、45坪
幣殿 2、90坪
拝殿 8、02坪
例祭と神輿渡御
死腹はまつりは昔から夏の景物で七月十五日の出御祭に始まり七月二十一日の大祭に続いて午後一時より神幸祭が行われる。宝暦七年、義経弁慶の神輿二基が作られ白丁姿で氏子渡御があり、行列が従う。各町御酒所に於て御神楽の奉奏があり、氏子、崇敬者の家運の繁栄を祈るのである。
相模一帯はもとより、鎌倉、三浦、京浜地方より集まってくる人々の群でにぎわい、湘南地方の夏祭りの中でも名物の一つである。これは藤沢藤沢宿場時代にこの地方一帯の商業の中心になっていたからで、藤沢の商人、ことに坂戸町、領家町等の問屋街では、この日やってきたお得意客にお銚子一本と赤飯をふまって、お祭りの接待をした。その頃の農村では、一年の勘定は、盆と暮にきまっておりましたが、藤沢の問屋と取引きしていた農村は、何時か、白旗祭りの日を勘定日と定め、これが「白旗勘定」と呼ばれる起りであります。
特殊神事
十月二十八日白旗神社秋祭に行われる湯立神楽(八座)の神事があります。これは江戸時代より、この地方に伝わる神楽で、特徴は五色の注連(シメ)と竹で天蓋(テンガイ)を造り、この山作りの構造と注連(シメ)切は秘伝とされております。
神楽の一つに「笹ノ舞」がありますが、沸騰したお湯に笹を浸し参拝衆の頭上に散らかしかける、これが湯花と言います。この湯をうけた者は無病息災としての信仰があります。
又最後に「剣ノ舞」(もどき)があります。天狗の面をつけ鉾(ホコ)を持って四方のクジ切と神前に供えた投餅をまく、そのとき面をつけた山ノ神が杓文字(シャモジ)を持って現れ道化を演じながら参拝衆に餅をまく、この特殊神事は無形文化材として今日まで伝わっております。
白旗神社と義経
白旗神社は、およそ七百年前、源義経の霊を祀ったものであります。義経は一一五九年(平治元)源義朝の六男(八男また九男ともいう)として生れ、幼名牛若丸、母は常磐御前、二歳の時、義朝が平治の乱で平清盛に敗死し、危うく殺されるところを赦されて、兄頼朝は伊豆に流され、牛若丸は京都の一條長成の庇護をうけて生成しました。

 七歳の時、母は出家させる目的で鞍馬山へのぼらせ、名を遮那王丸と改めました。しかし遮那王丸は憤然として父祖の恥をそそごうと思い立ち、日夜武芸を習い、十六歳の時三條季春という金商人に伴なわれて、はるばる奥州に下り、平泉の藤原秀衡に頼ることになりました。或いは、十八歳の時ひそかに都に上り、鬼一法眼に従って兵法を学び、その後奥州に下ったという説もあります。
 二十二歳の時、頼朝が以仁王の令旨を奉じて平家追討の軍を起すを聞き、佐藤継信、忠信等の豪雄を従えて平泉を出発し、夜を日についで頼朝の陣営に馳せ参じました。

 一一八四年(寿永三)頼朝の命をうけて兄範頼と共に木曾義仲を討ち、ついで平宗盛をひよどり越の奇襲で一の谷に破り、更に平家の大軍を屋島に討ち、壇の浦に追いつめて滅ぼしました。そこで義経は軍状を頼朝に報告するため、平家の大将宗盛等の捕虜を鎌倉に押し送って東下したのですが、頼朝は義経に勝手な行動があったことを怒って鎌倉に入ることを拒みました。義経は誓書(腰越状)を差出したりして誤解を解こうとつとめましたが、遂に許されなかったので、大いに頼朝の措置を怨らんで京都へ引返し、ここに兄弟の間は一層けわしくなりました。

 義経は頼朝から追われる身となり、武蔵坊弁慶等を従えて、奈良吉野など方方に隠れまわること三年、頼朝の探索がますます厳しくなったので静女とも別れ、山伏姿に假りし奥州に下り、再び藤原秀衡を頼ることにいたしました。秀衡は義経を衣川館に入らせて厚く待遇しましたが、間もなく秀衡が病死し、その子泰衡が継ぐと、頼朝の威を恐れ、父の遺言に背いて義経の居館を急襲して自殺させました。

 時に一一八九年(文治五)義経は三十一歳でありました。義経の首は黒漆の櫃に入れ、美酒に浸して届けられたので、頼朝は和田義盛、梶原景時に首実検をさせましたが、たとえ兄弟の間が不和であったためにせよ、余りにも惨めなその姿に、見る者皆袖をぬらさない者はありませんでした。首はそのまま河原へ取り捨てられたのですが、不思議にも金色の亀にすくいあげられ、背に乗せて境川を藤沢宿の河辺に運びこまれ「われは不幸にして悪人の舌頭にかかって高館の露と消えたが、その首さえ捨てられて怨魂やる方なし。汝等よく葬りくれよ」と告げたので、里人は大いに驚きその首を洗って丁重に弔いました。

 これが現在の首洗井と首塚であると伝えられます。一方鎌倉の御所では、義経の怨霊に苦しめられ、頼朝は藤原次郎清親に命じ、首塚から一町ほど北の亀の子山に社を建てて義経の霊を祀らせました。これが即ち、白旗神社の起りであります。(以上)

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2002.6.16