判官森
源義経公鎮魂碑建立について



 
 

平成十二年八月十六日
源義経御葬礼所
栗駒町沼倉判官森

源義経公石碑建立趣意書 


源義経公と栗駒の里に思いを寄せる各位 様
 
 謹啓

皆様、周知のように栗駒沼倉(栗駒小学校裏)には、源義経公の墓所との伝承のある判官森があります。栗駒の里人は、代々この地を郷土の聖地として大切にお祀りして参りましたが、くりこま荘主人の菅原次男氏の長年の努力により、これが単なる伝説や伝承などではなく、歴史的真実であるとの確証を、古文書等の解読研究により得たのでありました。

それによれば、文治五年(1189)閏四月三十日、平泉の高舘で自刃した義経公の御身体は分断され、その御首は鎌倉に送られ、その御胴体は、近しい侍、沼倉小次郎高次の手で、小次郎の領地である沼倉判官森に丁重に葬られたと記されてあったのでした。それから悲願十二年、菅原氏は、平成十一年二月、分断された義経公の御神体の合祀を思いつき、意を決して義経公の首塚のある神奈川県藤沢市の白旗神社に詣でて、宮司殿と氏子の皆様に合祀の提案を行いました。するとこの気持ちに打たれた藤沢市の里人の力強い協力を得て、ついに義経公の首実験が行われた六月十三日、義経公鎮霊祭として白旗神社境内で盛大に執り行われたのでした。その場で、栗駒判官森の御土と首塚の土を合わせて、御霊土とする、合祀の式が厳かに敢行され、ここにおいて見事義経公の分断された御神体は、八百十年振りに合祀されたのでした。

当日、直ちに、山伏に身を代えてた菅原氏は、合祀された御霊土を朱色の笈に背負い、義経公縁の寺社を巡りながら、約500キロに及ぶ、鎮魂徒歩行脚の旅(義経ロマン500キロの旅)を決行しました。その模様は、連日インターネットのホームページ「義経伝説」に掲示され、各地の新聞やテレビなどにも大きく取り上げられました。それから四十三日間の苦闘の末、平成十一年七月二十五日、ついに八百十年振りの大願は成就し、菅原氏の十二年越しの悲願も達成されたのでした。

今回、判官森の一角に鎮魂碑を建立することは、菅原氏の偉業を称え、この地(沼倉判官森)が未来永劫に於いて源義経公の安眠の地となることを祈念し、企画されたものであります。どうぞ皆様のご賛同ご協力を心よりお願いする次第でございます。

        謹白
平成十二年八月吉日
        源義経公の鎮魂碑建立実行委員会 会長
        中川晃寿


        1. 建立の場所       ○○○
        2. 建立予定日       ○○○
        3. 総工費          ○○○
        4. 寄付 一口5千円より

        尚、寄付いただいた皆様の氏名は、石碑の裏面に印刻させていただきます。

以上

 
源義経公・此処眠之碑 案

この森、その名を判官森と称す。由縁は、この森に源九郎判官義経公が御霊をお鎮めしたことに依る。文治五年閏四月三十日、義経公は、平泉高舘の居城において、藤原泰衡が手勢五百騎の襲撃を受け、自らは戦わずして、持仏堂に籠もり、独り自刃して果てたのであった。その御首は、鎌倉に送られたが、縁あって相州藤沢の宿の辺りに葬られ、その御胴は近しき侍、藤原小次郎高次が引き取り、自らの所領である沼倉のこの森に埋めれたと伝えられる。

それから歳月が流れる事八百十年。義経公の御首と御胴を合祀すべしと発願した人物がいた。その名を菅原次男と称す。平成十一年六月十三日(一九九九)、発願の士菅原は、神奈川県藤沢市の白旗神社にて、当判官森より採取した御土と藤沢首塚の御土を、合祀の儀によってひとつとし、これを御霊土(みたまつち)とした。その日、菅原は早速、山伏姿に身を替えて、背中に朱色の厨子を負い、中に御霊土を設えて、己の健脚のみを頼りとし、奥州路を歩き通すこと四十三日。ついに平成十一年七月二十五日、無事合祀の御霊土は、当判官森まで運ばれた。我ら沼倉の里に生きる者は、合祀が叶った七月二十五日という日を記念し、これを新たに義経公御生誕祭としたい。

当年、平成十三年(二〇〇一)は、源義経公没後、八百十二年に当たる。歳月が流れ、いつしか沼倉氏、藤原小次郎高次の子孫も絶えてしまった。しかし我らの祖先である沼倉の里人は、どんな艱難辛苦の時代にあっても、この判官森の供養の灯火を絶やすことはなかった。この灯火を、不滅の灯火として、さらに我々の子々孫々に至るまで伝えることを祈念して、この碑を建立する次第である。

判官の御霊日の宮駒嶽に真一文字に走りて行かむ

平成十二年七月二十五日

源義経公の碑を建てる会実行委員会
代表 中川 晃寿

 

第一回源九郎判官義経公生誕祭

義経公生誕祭を祝う詩

沼倉判官森之大往生
 
 

涼風の渡る陸奧平泉
宿意を胸に忍ばせて
父義朝の無念をば
雪(すす)ぎ
雪がん
供養をば
思いの丈を
御館殿(みたちどの)
秀衡公に語りなば
父とも見えて仰ぎみる
その恩情の深ければ
父子(ちちこ)の情(なさけ)通わせて
兄頼朝の石橋に立つとか聞こえ
矢も盾もたまらず馳せて鎌倉へ
初陣飾る宇治川に
鵯越えて一ノ谷
屋島何する海ゆかば
壇ノ浦にて宿意遂げ
京に上れば、官位受け
従五位の尉(じょう)
など賜れば
思いもよらぬとがめ受け
兄弟(あにおとうと)の契りなく
追っ手のかかる身となりぬ
西国目指し海ゆかば
大物浦(だいもつうら)の大波に
ゆくて阻まれ難破して
挙げ句の果ての吉野山
忠信、静、別れして
弁慶参らん平泉
琵琶の湖(うみ)をば
こぎ出せば
越中、越後、佐渡ケ島
念珠(ねんじゅ)の関をひとまたぎ
出羽路を越えて亀割山
鳴子を過ぎて栗原寺
五拾の僧兵出迎えに
随喜(ずいき)の涙あふれ来て
我ら主従に冬も春
育ての親の御館殿
ひしと抱き合う一時は
天にも昇る心地して
かの地にわが骨埋めんと
兄頼朝の野望をば
うち砕かんと
秘策をば
栗原一えん築城し
いかに板東武者寄せて
雲霞(うんか)の如き軍勢も
一気に敗る仕掛けして
防備万端整えて
矢先も矢先その矢先
秀衡公が卒去(みまか)りて
吾に無情の風や吹く
高舘囲む泰衡の兵士に恨みあるでなし
弓矢もとらず持仏堂
妻子をまずは弔いて
「えい」と一声腹さばき
後は頼むと
沼倉の藤原小次郎高次に
思い託して
消え行かん
栗駒山の麓にて
御駒の神を拝みつつ
此処をわが志(し)の塚として
巖(いわ)を枕の大往生

設置日    2000/08/17
最終更新日 2000/08/17