奥州デジタル文庫序

人は時代精神という鏡を持って歴史をみる。優れた歴史家もまた同じで、この鏡によって歴史を著すしかない。

さてそもそも鏡とはなんであろう。それは滑らかな鏡面に真反対の虚像を結ぶという先験的特性をもったただの道具にすぎない。つまり鏡に投影している像は実像の投影した虚像に過ぎないことになる。名だたる歴史家の著した古典的著作も、これと同じ実像を反映した虚像であって、真の姿ではない。もしもその著作から歴史を正しく認識しようとすれば、当然そこに認識上の工夫がいることになる。それを私は歴史認識の想像力と呼びたい。それは様々な時代精神を反映した鏡(著作)に映る虚像を自らの脳裏の中で、再構築し実像を結び直す営為のことである。

古典を読むと言うことは、その著述された所の真偽について、常にこれを懐疑しながら、新しい考察と発見のフィードバックによって、時には定説となっている事柄すら捨て去る位の勇気と覚悟を必要とする。どんな優れた古典でも殊に歴史の著作に関しては、時代的歴史的限界性というものを免れることは不可能である。

もちろんそれでも古典というものには、筆舌には表しがたいほどの生命力や人を惹きつけてやまない魅力というものに満ちているものだ。思うに古典が古典として読み継がれてきた理由は、時代という制約を受けながらも、その作品のどこかしらにに時代を超えても決して色あせない究極のイデア的なるものが内在しているからに他ならない。

ここに集められた奥州デジタル文庫もまたそうして時代を超えて読み継がれてきた稀少な宝石群である。

奥州の歴史研究は、時代的な制約もあったのか、中世以来ほとんど手が付けられていなかった。それだけにこの分野は、無尽蔵の歴史的宝庫と言えないこともない。何しろ、奥州の古い歴史を書いたという「陸奥話記」にしたところで、京の都にいた貴族の手によって書かれた聞き書き奥州史という情けない有様であった。

平安から鎌倉に時が移ろうとする頃、奥州に興った藤原氏が、平泉に黄金文化を華咲かせた。しかしその栄華も四代、時間にして僅か百年の一時の夢であった。結局文治五年(1189年)、鎌倉の武士団の棟梁であった源頼朝が、奥州に攻め入るや否や、百年の間に集められた貴重な文献資料は、ことごとく灰となって焼失した。

その後、奥州のアイデンティティを反映した歴史的著述が現れるまで、奥州の新たな覇者となる伊達政宗の出現を待たねばならなかった。

奥州の歴史にとって、まず注目すべき著作は、仙台藩の儒者佐々木義和(洞厳)が「奥羽観蹟聞老志」(1719年)という地誌を著したことであった。この間、「陸奥話記」が書かれたから、実に650年以上の歳月が流れたことになる。この著作には、今日多くの誤謬と限界が指摘されているが、それでもこの本によって、奥州の歴史と風土に対する研究の熱は、飛躍的に高まったのであった。おそらくこの本が書かれなければ、相原友直の平泉三部作もなければ、高平眞藤の「平泉志」も存在しえなかったであろう。

こうして奥州の歴史研究は、端緒についたのであった。それから既に300年近い歳月が流れたが、奥州研究は、まだ若木に過ぎない。

そのような謙虚な認識に立って、
 

奥州の歴史研究の若木が、やがて大木と成長することを心から願うばかりである。”
更に奥州デジタル文庫に所収すべきものがある。

そのため、微力ながらも、亀の歩みを持って、同文庫の充実に努めて行きたいと思う次第である。

以上


平成十二年八月八日

佐藤 弘弥

追記

尚、奥州デジタル文庫の基本スタンスについて最後に触れて置きたい。

1.同文庫に所収するについては、個人の著作権というものを最大限に考慮した上で、掲載したものである。仮にも著作権の侵害があったとしたら、それは偏に私の責任である。その場合はただちに掲載を中止することとする。

2.また同文庫は、全文掲載を基本とする。抜粋や部分的掲載は、一部の例外を除き、なるべく避けたい。それは都合の良い箇所だけを提示する結果、読者の誤解や曲解を生むおそれがあるからだ。またそれは結果として原作者の著作意図を侵害する行為にも通じると考える。すなわち”いかなる時代の著作と言えども原作者の意図は、どこまでも正しく伝えられなければならない”というのが本文庫創設の基本的スタンスである。