平泉で850年間伝えられてきた祭
哭 き 祭 と は ?!
花立山の麓の観自在王院

阿弥陀堂の前に御輿が置かれ拝堂で読経が始まった
(2005.5.4 午後1時)

「あれなあに」と少女見つめる輿のこと哭き祭とていつ思 ふらむ





2005年5月4日(かつては旧歴の4月20日)、平泉毛越寺管轄の「観自在王院」(別当は千住院千葉慶信住職)で、毎年開催される「哭き 祭」を拝見した。いや「拝見」ではなく、「参加」したというべきであろう。あまり知られていない祭ではあるが、この「哭き祭」は、あの奥州藤原氏二代基衡 公の妻女の遺徳を偲んで、八百数十年間の間、連綿として受け継がれてきた稀少なお祭である。

周知のように二代基衡公の妻女は、奥州の大戦(「前九年・後三年の役」と一般に称される)において、敗者となり、囚われの身となり京の都 へ送られ、後に太宰府に流された安倍宗任(生没年未詳)の娘とされる女性である。安倍宗任という人物は、教養人としても有名で、京都へ身柄を移された折 り、蝦夷(えみし)との侮蔑を受け、梅の花を指さされ、「お前の国では、これを何と申すか?」と聞かれて、即座に「わが国の梅の花とは見たれども大 みやびとは何というらん」と歌で返したほどの人物であった。おそらく、宗任も、兄の貞任(1019-1062)同様、京都への留学の経験がある か、あるいは有能な家庭教師が幼い頃より付けられていたのであろう。
 
 

阿弥陀堂が開帳し本尊の阿弥陀仏に供物が供えられる

焼失をのがれし仏の前に立ち「南無阿弥陀仏」哭き祭りか な




基衡の妻女も、父と一緒に京都に送られ(あるいは年齢から言うと京都で生まれた可能性もある)、そこで一流の教養を身に付けた女性であった と思われる。それにしてもどのような因縁があったのか、今では知る由もないが、ともかく、この女性は、父の故郷の奥州平泉に嫁ぎ、名君と言われる三代秀衡 公を生んだことは事実である。夫、基衡公は、あの浄土庭園大泉が池を有する「毛越寺」を造営し、その脇に妻女は、「観自在王院」を造営したのである。

中尊寺の北方を東に流れる衣川には、この女性が、平泉に来る人々を招いて饗応をしたと伝えられる「接待館跡」(今でいう迎賓館のようなも のか?)が遺跡として遺っている。元来、接待屋敷は、この妻女が居住した所とされ、この一町(約109m)ほど西側を奥大道と呼ばれた官道が通っていた。 妻女は、行き交う旅人をねんごろに接待したと伝えられる。最近の発掘で、ここから柳の御所で大量に出土したカワラケなども発掘されている。更にはこの跡 が、藤原基成が住み、源義経終焉の地とされる衣河館ではないかという説が登場するに至って俄に注目を浴びている。
 
 

厳かに読経の声が周囲に響き渡る

静寂の池の辺に佇みて流れる読経に身を任せけむ




祭りは、毛越寺の本堂で厳かに読経をした後、色とりどりの僧衣と袈裟に身を包んだ僧たちが列をなし、観自在王院の拝堂に入ることで始まる。 前にある阿弥陀堂は開帳され、奥には阿弥陀如来が鎮座している。ゆっくりと導師が拝堂の真ん前に座し、読経が始まる。次々と教典が読まれる。やがて読経が 終わり、僧侶たちが拝堂より出てくる。次に「諸行無常」、「是滅生法」と記した二つの幡(白旗)を先頭に、僧侶たちが、静かな低い声で、経を読みながら、 妻女の棺(ひつぎ)に見立てた小振りな神輿を前後二人の僧侶が担って、阿弥陀堂の周囲を三周する。その間、僧侶たちが、花に見立てた御札を散華(さんげ) すれば、信徒や集まった人々が我先にと、その札を拾うのである。それが後ると、阿弥陀堂に一礼をした僧侶たちは、一団となって、観自在王院跡の艮(うしと ら)の方角にある妻女の墓所に行ってお詣りをし祭は終了となる。かつては周囲にこの読経が泣いているように響き渡ったということである。
 
 

頭巾を被った若い僧によって御輿は担われ阿弥陀堂の周囲を三周する
 
 

花立の山に向かひて奥州の母なる人の面影を観む




ちなみに、菅江真澄(1754-1829)は、その著「かすむ駒形」(1786)の中で、この「哭き祭」をこのように記している。

「花立山という山がある。それは基衡の妻がその年の四月20日に亡くなったのであるが、このご夫人が生前色々な花を好んでおられたので、様 々な花を花立山に挿して飾り、亡骸をこの山に埋葬したということである。基衡の妻は、かの安部宗任の娘にして、和歌への思いも大変深いお方で、木や草花を 特に愛でられたと言われている。今も4月20日の命日には、僧侶が大勢参加して、葬儀のような儀式をして、泣くまねをし、手を合わせ、数珠を揉んで、幡を 立て、天蓋(てんがい)に、宝螺(ほら)を吹き、梵唄(ボムバイ)を歌う。これを称して、四月の哭き祭という。実に奇妙なお祭りである。昔は、この哭き祭 の日には、知る人も知らない人も僧侶とともに一緒になって、経を読み、唄を歌い、金鼓(コムグ)を叩いて、ある人などは、その声がかすれるまで、よよとば かりに泣いたということである。(現代語訳佐藤)」
 
 

阿弥陀堂を三周し本尊を合掌した後基衡公の妻女の墓に詣でて祭は終わる
 

花の春読経流れる池端の墓に手合わせ哭き祭終ふ




花立山は、現在平泉郷土館がある辺りで、ここには基衡公の妻女は埋葬したとされる。この花立という地名の由来が、この女性にあるとは実に美しい 話である。

ところで忌憚なく言えば、この菅江真澄の書いた頃と比べると、私はかなり形式化している感じを受けた。法螺(ほら)を吹いたり、金鼓(コム グ)を打つというのは省かれていて、経は読まれたが、梵唄(ボムバイ)というものは聞けなかった。また参加する人たちも泣いたということであるが、悲しさ というものは伝わって来なかった。私は栗駒山から吹き下ろしてくる春風が観自在王院の「舞鶴が池」を渡って行くのを眺めながら、読経の海に自らの魂が心地 よく漂っているのを感じた。
 
 

舞鶴が池に花の筏が浮かぶ中を一山の僧侶は祭を終え帰ってゆく
(午後1時20分)

花筏浮かぶ古池ざわざわと寂しかりけり祭終へしも




「哭き祭」に参加してのあとがき

2005年5月4日、やっと念願だった平泉観自在王院の「哭き祭」に参加することができた。一山の僧侶が、花筏の浮かぶ舞鶴が池の淵を整然 やってきたのが午後一時。そして祭を終えて、元来た道を戻っていったのが1時20分だった。意外だった。もっともっと長い時間が過ぎたような気がした。そ れが僅か20分だったとは・・・。

私は見事に様式化され、凝縮されたこの20分に無限の時を感じた。私の魂は、明らかに、この観自在王院という限られた空間を越えて、僧侶 の読経の声に乗って無限の宇宙を揺蕩(たゆた)っていた。妙に心地がよい。どうした訳だろう。少なくても、この祭の源流は、奥州藤原氏二代基衡公の妻女の 葬儀であり、その葬送の悲しみを忘れまいとして、「祭」として様式化し、以来連綿と続けられてきたものである。

「哭く」という行為には、ある種の「癒し」がある。人はどんなに悲しいことがあっても泣くことで、僅かな救いを得る。それはおそらく「泣 く」という行為が、脳の中に癒しを感じさせる物質を化学的に生成するからであろうか。あるいは涙そのものに、そうした力があるのであろうか。

平泉の人々が、この基衡公の妻女を、平泉の母なる存在として認めて、深く尊敬しながら、年に一回、この人の遺徳を偲んで、「泣く祭」を行 事として執り行い。それを連綿と850年間以上も続けてきたということは、もの凄い尊いことのように思われる。その間、平泉は頼朝による藤原氏の滅亡に遭 い、野火や戦火に焼かれ、秀吉による奥州仕置きと宝物の略奪に遭い、それでも人々は、黙々と、この女性をお祀りすることを忘れず、親から子、子から孫へと 伝え続けてきたのである。

確かに、今阿弥陀仏が鎮座する阿弥陀堂は、質素というより、はっきり言って粗末な作りである。杉の節穴から、日の光がそこかしこに洩れて いる。かつてここには豪奢な大阿弥陀堂(観自在王院)とその東方に瀟洒(しょうしゃ)な小阿弥陀堂が並んでいた。かの吾妻鏡にもそのことが記されている。 壮観な景色だったに違いない。それが元亀4年8月、野火にあって、両堂ともに焼け落ちてしまったのである。その時、一山の僧は、命を賭けて、このご本尊を 阿弥陀仏を担ぎ出し焼失の難を逃れた。見れば定朝様式のふっくらとした阿弥陀仏(一説では運敬作という)である。その時、その女性のお姿が浮かんだ。きっ と基衡公の妻女は浄土へと身罷る時に、この阿弥陀様へ布を懸け、それをしっかりと握りしめながら「南無阿弥陀仏」と唱えてあの世に旅立たれたことであろ う。その仏を、私の代で、灰にしてたまるかと、決死の覚悟で、この仏を運び出した僧がいたのである。だからこそ、この阿弥陀様はありがたい仏なのである。

ひとりの少女が、「これなあに」というように、初蝶のごとく、ふらりと「御輿」の前にやってきた。それでも拝堂の中の導師は、揺るぎない 信念をもって、読経一切を取り仕切っていた。それが実に微笑ましい光景であった。850年の間に、平泉はすっかり変わってしまったけれど、「哭き祭」に込 められた精神は、「悲しみ」を癒す「涙の祭」から、「望み」を感じさせる「微笑みの祭」に生成変化し、この地にしっかりと根付いている。名こそ「哭き祭」 であるが、これは日本人の深い祈りの文化を反映した美しい「お祀り」(=お祭り)事であると感じ入った次第である。佐藤弘弥 (了)
 
 

奇妙よな読経の声に揺蕩ふて浄土の池に無限覚るも


参考史料 相原友直著「平泉旧蹟志」より>

観自在王院。圓隆寺の東方、数百歩の位置にあり。東鑑はこれを阿弥陀堂と号している。二代藤原基衡(?- 1157?)の妻宗任の女(むすめ)の建立である。四壁の図絵は洛陽の霊地名所が描かれていた。佛檀は銀作りで、高欄は磨金であったと言われる。郷人はこ れを大阿弥陀堂と呼んだ。天正元年癸酉の二月八日に、かつての堂は焼亡したものの、本尊は残った。阿弥陀坐像で三尺余(約1m)の体長である。その後はこ れを他所に移し置いて、かなりの年数が経ったが、享保年間に、堂をもとの地に造營して佛像を安置した。基衡の妻は、仁平二年(1152)壬申四月二十に卒 去した。今でも毎年その命日には一山の衆徒が、この堂において、興を荷い堂を廻って、葬礼の儀式をもって法事をする。燭台二脚を置き、高さにして二尺ほど の樹の皮の形を造る。鍛冶屋(かじや)の舞草森房(もぐさのもりふさ)がこれを造り奉納した。

(中略)

基衡室之墓。小阿阿弥陀堂の後方左にある。近年、地元の者が石碑を建立した。碑面には、次のように彫られてい る。

   「前鎭守府将軍基衡室安倍宗任女墓 仁平二壬申年四月二十日
(さきのちんじゅふしょうぐんもとひらしつむねとうのむすめのはか にんぺいにねんじんしんしがつはつか)

   「此碑、里人村上治兵衛照信これを建つ
(このひ、さとびとむらかみじへいてるのぶこれをたつ)

碑の脇には、「享保十有五庚戌九月十三日」と刻まれている。(享保15年は西暦1731年)。 仁平(にんぺい)は、七十六代近衛院の年号である。 (現代語訳佐藤弘弥)


 


リンクフリー 著作 佐藤弘弥 2005.5.04