栗駒村誌


はじめに

幻の名著「栗駒村誌」をインターネット上に復刻するにあたって

菅原巳之吉翁本地誌は、故菅原巳之吉氏(右の写真:明治 二年−昭和三二年)の著作である。氏は明治二年沼倉万代に蘇武庄左衛門の次男に生まれた。松倉小倉の菅原勇造の長女はつと結婚をし、三男二女をもうけて、 沼倉馬場に菅原姓を名乗り分家をした。

氏は、宮城県巡査を経て、栗駒村役場に就職をした。収入役、助役をへて大正三年には村長に当選した。そこで氏は、重責を担いながら、郷 土栗駒村の発展のために、困難な諸問題にも文字通り体当たりで立ち向かった。氏は一言で「執念の村長」であった。豪毅な反面、人の良い性格で、信義に熱い 人物で長い髭を生やしていることから「ひげ村長」とも呼ばれ村民に深く敬愛された。

又、氏は、故郷の栗駒を深く愛し、栗駒の歴史を掘り起こすために、多くの地元資料を収拾整理し、ついにこの著書「栗駒村誌」を書き上げ たのであった。この本の端々からは、栗駒の正確なる歴史を後進に伝えたいとの熱意がひしひしと伝わってくる。と同時に、この本には、冷徹な学究の徒の良心 がある種の抑制となって見事な調和を見せている。

この埋もれかけていた著作をワープロで打ち、製本されたのは、著者自身のひ孫に当たられる菅原信雄氏である。大変な苦労をされて、幻の 名著となっていたこの本を復刻された。そのご努力に対して、心からの敬意を表したい。不躾ながら、信雄氏に、お電話で、この「栗駒村誌」を全文デジタル化 しサイト上に掲載することで、栗駒研究の一助としたい旨のお話をさせていただくと、快くご承知いただいた。深謝申し上げたい。

尚、最後になってしまったが、この本をデジタル化するにあたっては、「栗駒の話」の著者であられる千葉光男氏の尽力による所が大きい。 いつもながらの、暖かいお心遣いに感謝を申し上げたい。尚、デジタル化が完了するまでにはかなりの紆余曲折があると思うが、皆さまには、辛抱の心を育てつ つ、楽しみにお待ち願いたいものである。

 巳之吉氏の郷土を思う心に二首
ありがたき著作なるかな執念の人の遺せし「栗駒村誌」
後の世に村の歩みを伝へむと髭の巳之吉「村誌」著せり
 

2002年5月2日
佐藤 弘弥

筆者の横顔
 
明治二年八月二十七日、沼倉万代蘇武庄左衛門の次男に生まれる。松倉小倉菅原勇造の長女はつと縁組し三男二女をもうけ、大正二年 十月八日沼倉馬場八の一に金百円をもらい分家する。

明治三十四年に宮城県巡査となり、十二年間勤務し退職、大正三年四月栗駒村役場に収入役として入り、同七年助役に推された。そして、当時の村長 を補佐し、栗駒尋常高等小学校の竣工と整備、沼倉・松倉部落有財産の統一などに尽力した。

大正十三年七月、次の村長に選ばれ、笹ヶ森国有林の払い下げと学校林の設定、川台水路の修理、西山沼、新倉溜池の修復、日照田から岩手県への県 道編入、村内県道の改修、植林の奨励と林道の開削、産業組合の組織等々多くの実績を上げた。

昭和九年の大凶作の年には、政府米一千六百俵という栗原郡最高の交付を受けて、村民の救済に当たるなどして昭和十一年には、宮城県知事から自治 功労者として表彰された。

剛毅な気性で正義感が強い反面、温厚篤実、町村会などでは必ず発言して一言居士といわれた。漆黒の関羽髭を伸ばして威厳があったが、相好をくず して巧なユーモアで人を引きつけ、『栗駒のひげ村長』と親しまれ郡内はもちろん県でも有名であった。

昭和十一年八月三期にわたる村長の職を後進に譲って晴耕雨読の晩年。よく孫たちに、警察官時代の泥棒を捕り抑えた話など、面白く語ってきかせた ものだという。郷土史の研究にも没頭し、詳細に書き綴った「栗駒村誌」「自慢録」は貴重な文献となって遺されている。

昭和三十二年三月十三日、八十九歳の高齢で静かにこの世を去った。

法号 隆祥院釈高学泰賢大居士

辞世の歌
はづかしや八十ぢのさかをのぼれども
世のためとなるあしあともなし

上の歌は、円年寺の墓碑に、長谷川龍峰先生(龍峰書院主宰・元仙台一高教諭)の書にて明確に刻み記されている。

栗駒町史談会刊
 「郷土の先人」より



はしがき
 

一 本書は、自治制発布五十年記念として集編したるものにて、主として明治二十二年以降の事績を載せたり。

一 当村にては、明治三十六年の大洪水にて古今の書籍帳簿の備蓄せる役場学校を流失せる為め其以前の事績を調べるに頗る困難を極むると共に、或 いは誤謬錯雑ありて完全の欠くの憂いは免れざるなり。

一 維新前の記事は村内風土記、奥羽観績老聞誌其他の古書を引用せり。

一 神社に関しては鈴杵神官、寺院に関しては山上円年寺、高橋長照寺、統計に関しては鈴杵書記、古書類に付いては清水十太氏の共に多大の援助便 益を受け完結せり。各位に対し深甚の謝意を表す。

一 雑意は一笑に値せるを著者も悟れ共、今後数十年を経過せば其蔭貌伝説を失うものあるを思ひ昔語りの種を存するため尾編に追加せり。

一 本書を看る諸処に誤謬脱落相違等を発見せば遠慮なく添削訂正を賜り出来得る限り完全に導かるるを幸甚とす。

                                                     昭和十四年極月 
                                                                髭鬚老人  菅原 巳之吉識す 


総論

沿革
 

栗駒村は上古より民族棲息して開拓し一団を形成し来たりたることは、伝説又はは村内風土 記その他の伝記等により窺知することを得べし。村内風土記に曰く、人皇十二代景行天皇皇子日本武尊、東夷征伐の砌り駒形根神社を祭祀し四大宮司、内一人は 現神官鈴杵宿禰より六十七代、、三十禰宜六十社家を置き云々。降りて延暦年中坂上田村麻呂東征の為め、また康平年中源頼義父子朝敵降伏の為、あるいは藤原 氏三代が武運長久の為め各祈願をなし、什宝等を奉納せる等、又同社は延喜式神名帳に登載しある等、本村往古より相当繁盛を極め来りしも飢饉その他天変地妖 戦果等の為民族滅び盡(つ)くし耕土荒廃し更に民族の蕃殖と開拓とを行幾度も繰り返したるものの如し。中古に至り吾勝の郷沼倉邑となり、爾来政事の状況を 詳に知ることに能はざるも大崎氏又は葛西氏の所領となり後伊達氏の領地として永く伝わり明治維新となる。伊達氏の政事を挙ぐれば領内に、町奉行、郡奉行、 代官、横目、大肝入、肝入、組頭、検断、年寄、判肝入等を置く


   町奉行、仙台城下を治む

   郡奉行、領内に四人を置く

 一 南方 名取、柴田、刈田、伊具、宇多、亘理、宮城幾部、宮城国分

 二 北方 黒川、加美、志田、玉造、遠田、栗原幾部、宮城高城 桃生深谷

 三 中奥 栗原幾部、磐井流、登米、桃生本吉、牡鹿

 四 奥  西磐井、胆澤、江刺、磐井、江刺、磐井東山、気仙、本吉北方

平素郡内に諸職なく、代官横目を監督し春秋の両度受け持ち郡内を人士して耕耘の精惰農民 の患難等を視察し、孝子節婦義撲等を賞し秋は立毛を検見して貢納賦役の率を定むる等の職に従事す。


   代官  郡内の租税徴収及び戸籍の行政事務を掌(つかさど)る。

   横目  代官以下郡村明に大使、今日の司法行政警察及び郡村の土木勤業の職を掌る。

   大肝入 郡内を総理し、徴税、戸籍及び司法行政警察の職を掌り、肝入以下を指揮監督し
       及びその進退を代官に具状し又総ての事務の報告をなす。

      肝入   大肝入の指揮を受け、村内の総ての事務を掌りの今日の町村長の職を掌る。

    組頭  五戸毎に置き、共同責任として、今日の区長職を行う。

   検断  駅内の取り締まり及び脱穀の取り締まり並びに人夫伝馬○立諸荷物の逓送等の職を行う。

   年寄  町村内の取締役にして肝入検断式に従ひ町村内の利害を評決処理す。
 

判肝入 諸営業者の等級を調査し商業に関する事務及び船舶の検査並びに生糸輸出税等を○ する職を掌る。明治維新前は沼倉村松倉村共に肝入を置き、維新当時は肝入を以て戸長の職を行はせ、明治四年岩ヶ崎村外七ヶ村、沼倉・松倉・岩ヶ崎・中野・ 鳥沢・深谷・里谷・猿飛来、戸長役場を岩ヶ崎に置き、明治六年沼倉村松倉村戸長役場となり、明治十八年沼倉村外一ヶ村戸長役場となり官選を以て戸長を定 め、明治二十二年四月町村制実施と共に従来の両村を合併し霊嶽栗駒山の名に因んで栗駒村と改称し村行政を五区に劃し自治の進展を計り今日に至れり。

明治維新当時の戸数 沼倉村一四二戸 松倉村九九戸


位置及び面積
栗駒村は栗原郡の西北隅三迫川の上流に位し、西北の一隅は栗駒山を以て秋田県に界し、北東は西磐井郡厳美村萩荘村に接し、東は鳥 矢崎村鳥谷に連り、東南は岩ヶ崎町及び鳥矢崎村中野に隣し西は文字村に界して東西二里南北七里廣表十五方里七九の面積を有する栗原郡第一の大村なり

地勢
四囲は概ね山岳高巒を以て囲続し殊に西北部は栗駒山に接して頗る嶮峻を極め、唯東南の一方三迫川を隔てて鳥矢崎村中野と岩ヶ崎町 に通ずる処のみ開け居る呑。河流は渓間を流るる細流相集まりて三迫川の大流となり該流両側の平坦なる土壌は耕地にして本村成立の骨子と云うべし。

河流及び瀑布
三迫川は源を栗駒山より発し、上流に三川あり。一は栗駒山御室より発するを御澤川と云日、一は栗駒山貝掘より発するを貝掘川と云 う。貝掘川は駒の湯にて土蔵川と合し、行者瀧下流落合にて御澤川と合し村の中央を流れ更に東流して北上川に注ぐ。御澤川に窓ヶ瀧あり。貝掘川に女滝行者滝 の二あり。窓ヶ滝は高さ五丈余大岩石両岸より連接し滝姿を見ること能はず唯大音響を聞きて戦慄するのみ。女滝は高さ三丈余あり。行者滝は一名男滝とも云 う。直下十六丈余にして瀧の中間に不動尊の像あり。往古行者の彫刻に係るものと云う壮観実に云うべからず。夏日、此地に至れば炎威忽ち去り肌に粟を生じた りしに、大正十年栗駒発電所を設置し瀧の上を堰止め落水せざるため常に見ること能はず。唯洪水の際昔日の雄姿を見ることを得るなり。

附記 三迫村内の流域は上古沼倉字二ノ堰付近より分流し字津○前にて岩倉川と合し、東側山麓を流れたることあり。又、荒屋敷下より萬代を経て荷 当に至り松倉水押にて本流と再び合し、又荒屋敷下より萬代下道路の間を流れ円年寺脇を経て道場に至り本流と合したる等為に屡耕土の変遷を数ひたりしに、土 木の進運と共に堤防の設ありて流域を一定せしめ耕作物の増収を計り住民の安定を見ることを得たりしと云う。


温泉
三迫川上流貝堀川河岸に新湯・駒ノ湯の二温泉あり何れも硫黄泉にして効能著しと雖も、道路険悪なるため常に浴客多からざりしが近 時林道開鑿せられてより浴客頓に多く、近年又登山熱盛となり夏期に於いて栗駒登山者の多数なる為漸く繁盛を見ることとなれり。

駒ノ湯は今より二百五十三年前貞享二年四月鶯澤村小野寺与左衛門なる者の発見に係り主に湿疹疥癬傷疵等に特効あり。現在の営業者は文字村菅原兵 三郎なり。

新湯は沼倉清水某なるもの今より二百二十年前享保五年開拓せしものにて其効能駒ノ湯と略似たり。明治十四年迄は清水十三郎・蘇武庄左衛門・佐々 木永七の共同所有なりしが、手続きを欠きたる為現在は佐々木道一の営業者となれり。


湖沼
沼は大いなるものは沼ノ森(三角森とも云う)の麓に鞍掛沼あり。周囲一里余り、沼の上は 官山にて、保安林なり。樹木鬱蒼として沼を覆ひ水清くして魚族(鮒は明治二十年狩野弥平放殖)多く、秋日紅葉の時はその景色最美にして名状すべからず。該 沼は元沼倉村の所有にして往古沼倉村の村名を鞍掛沼の二字をとり、沼鞍と称したることあり。従来厳美村小猪岡にては、灌漑用水に欠乏せる為、無料にて使用 せしめ来りしに、両村間に紛争起こり、明治二十一年官選戸長大松沢實新時代に、宮城岩手両県より係官現場へ出張し、両村村民一同も登山し、協議の結果、沼 尻沢付近にて換地し、由緒ある沼も今は厳美村の所有となれり。この交換は沼倉村の大失敗に終われりと憤激したり。

山嶽
本村は高山峻嶺頗る多く、其の最高峻なるは栗駒山、玉山以北を栗駒山と云う、にして岩手秋田宮城の三縣に跨り、別名を駒ヶ嶽又は 大日嶽とも称し、海抜五千七百尺本縣第一の高山なり。四時白雪を戴き奥羽山脈中に聳ゆる秀容雄大なる霊山にして夏季に至れば須川口、栗駒口両方より登山詣 拝者多く毎年数万人を以て数ふ。川臺山は三迫川に莅し、高さ一千五百尺里山中の高山なり。此山は元村有山なりしが岩石重塁峻嶮にして放牧採草に不適なるた め宝暦十二年兎田山、菅立山、楠澤山、荒山、萩立山、上田山、平場山、タラメキ山、立澤山の幾部及び中平山全部計十ヶ銘の官山中採草放牧敵地と交換したる 山なり。其他の山林、村内風土記には三十九銘あり、は何れも官山にして営林署に於いて種々の植林事業をなし居るを以て詳記を略す。

水利
本村は三迫川の河流を堰止め灌漑用水と為す。川臺、上田、穴山、二ノ堰、馬場堰、八幡堰の六ヶ所と多数の溜池を用ゆる水田とあ り。

川臺堰は昭和三年一千五百円の経費を以て瀧ノ原既成田の潅漑用水と大原開墾の為とを以て新設したるが其後二回の改修を施し完全なる工事と十分な る流水を見ることを得たり。以前の瀧ノ原水田は澤水及び溜池を以て潅漑し早天の際は其被害著しく半作にも至らざること往々あり。川臺堰新施設後は斯かる憂 いなく為に畑原野の水田に変換するもの数町歩に及び又大原開墾も是により実施の計画を立てたり。目下の潅漑反別は十六町歩余にして大原開墾見込み反別六町 歩余なり。

上田堰は天仁年中藤原氏時代に古舘の城主沼倉小次郎高次の祖父小七郎高清農事を奨励して村民に開墾を為さしめ且つ水路を開設したりと云う。該堰 を用ゆる反別は沼倉西向松倉小倉向を合わせて六十四町歩余なり。

穴山堰は元桑畑と云う該堰開設以前は桑畑前水田は火の澤楠ヶ澤の澤水を用い俗に云う干泥田なりしが元文三年肝入桑畑の彌右衛門の発起並びに努力 により穴山を掘鑿して水利の便を計れり。昭和三年迫川沿岸掘敷地迄崩壊したるを以て桑畑地内に土管を埋めて掘を変更したり。其潅漑反別十五町歩余。

二ノ堰は上田堰同様の係り其潅漑反別三十町歩なり。

馬場堰は元狭小なりしが建仁年中松倉城主小野寺義冬領内農民を奨励して開設したり。後元禄中中村日向領内の早害を憂い藩に具申して更に掘巾を拡 張して岩ヶ崎深谷里谷の潅漑の便を計れり。明治二十五年栗駒村岩ヶ崎町鳥矢崎村の組合堰となしたり。其潅漑反別は栗駒村九十八町歩余 岩ヶ崎町七十一町歩 余 鳥矢崎村七十町歩余なり。

八幡堰は安永年中肝入内ノ目屋敷佐竹養之助の開設にして其以前は西山澤を以て用水となし早魃の際は被害甚大なりしと云う。其潅漑反別は六町歩 余。


溜池
根洗場溜池は元狭小なるものなりしが寛永年中肝入与右衛門なるもの代官横目大肝入に陳情し、沼倉松倉を初め流れ五ヶ村の出夫によ り工事を竣工せり。爾来修繕を加え使用し来りしに昭和九年埋桶腐朽のため堤防欠壊し為に縣技師の設計により埋桶を替え大修繕を為したり。其潅漑反別は七町 歩余なり。

下薄木溜池は昭和八年の新設にして縣技師の設計により工事をなしたり。此溜池の新設により玉山部落西側の大部分は水不足の害を免れたり。潅漑反 別七町歩余。

西山溜池は元西山沼と云う。安永七年十一月十五日より七日七夜西山鳴動し、二十一日に至り、山岳崩壊して大小四十八沼出現し、泥土は金丁迄流失 し耕地の被害甚大なり。清水沼の桶水は元木鉢前に流れたるに、崩壊の結果西山澤へ流出する等、地形大いに変更し、為に大評判となり郡内各村は勿論遠く一ノ 関、前澤、登米郡、玉造郡方面より見物人毎日織るが如く出入りせしと云う。当地の四十八沼も、或るは荒廃し或るは水田と化し、現今は大沼、銀魚沼、清水 沼、角石沼あるのみ。下沼は明治三十年より自然荒廃し明治四十年水田となれり。大沼は元冶元年肝入菅原丈太郎初めて埋桶を据ひ堤防を高め潅漑用水に便なら しめたるに、昭和九年更に「コンクリート」工事を施したりしに埋桶附近より透水したるに心附かず昭和十三年の大雨の際埋桶の上部長さ五間程堤防決壊し埋桶 と共に流失大損害となり、再び縣の設計により尺八桶に変更し、埋桶と共に土管を用い翌十四年竣工し、永久工事を施し、水下民は漸く安堵を見ると共に開墾続 出せり。此潅漑反別八町歩余。

新倉溜池は元小なるものなりしが、元禄十年中村日向成義隣村松倉百姓の為に藩に具状して、隣村に賦役して開設したりに、後江筋自然に塞がり、山 所崩壊して山田部落に流水不能となりたる為明治二十二年菅原丈太郎発起人となり松倉全部出働し沼倉一部より手伝人夫を受け数日にして大々的掘鑿工事を施し たり。昭和九年更に埋桶を修繕し堤防を高め、「コンクリート」工事を施したるため山田寺沢の部落は如何なる早魃に遭遇するも水不足の憂を免れ永遠の楽土に 安住することを得たり。此潅漑反別は七町歩余。以上は大なる溜池にして小なるもの数十ヶ所あり。永洞の如きは全部溜池を以て十三町歩の潅漑用水となす。其 他小澤の水田も溜池を以て耕耘せるも茲に省略す。以上述べたる水利関係の内、川臺堰水路及び根洗場、下薄木、西山、新倉の四ヶ所溜池には縣補助を受け、村 費及び水下民の努力により完遂せり。縣補助に対しては県会議員南條秀夫氏の斡旋努力を感謝す。


横上堀は一ノ宮下谷地堀迄は従来より使用し来たれしが明治八年戸長芳賀永治時代に松倉菅原丈太郎発起努力し小倉向迄延長し大いに 水利の便を計れり。


交通

縣道

本村地内の縣道は岩ヶ崎より桑畑間及び日照田より岩手県一ノ関に通ずる二線とす。岩ヶ崎 より来る路線は昔石巻より岩ヶ崎及び本村を経て、秋田県稲庭町に通ずる二ヶ県を連鎖する枢要道路にして、岩ヶ崎、若木、桟敷田、大峯前、日影、今坊平、前 坂、継子坂、大路、小檜、田代長根の十ヶ所に一里塚ありて、宮城県海岸及び湖沼の魚族及び箍竹其他の商品を搬送するため商人強力等の交通頗る頻繁なりし が、維新後更に閉脚せられたるを以て村長和久安通村会議員蘇武庄太郎大いに努力したる結果明治三十一年羽後岐街道として県道に編入。岩ヶ崎町より桑畑迄車 馬道に改修し大いに面目を施したり。大正八年道路法改正の結果郡道となり、大正十二年郡制廃止のため村道に帰属せるを村長丹野甲子郎は県議菅原英伍氏の応 援を得て運動を起こしたり。文字村花山村の両村も各自村より稲庭町に通ずる県道に運動を起こしたるを以て奪取せられしことを憂い或は上京し或は出県して猛 運動を試みたる結果菅原英伍氏の公平なる裁断と両村の譲歩とにより大正十三年稲庭線として県道の認定を受けたり。後ち県議南條秀夫氏の応援と努力により昭 和五年松倉鍛冶屋前同十年引矢同十一年高田同十二年貴船円年寺間十三年万代日照田間夫々屈曲と幅員を直拡し改修をなしたり。一ノ関路線は県道日照田より岐 し萩荘村を経て一ノ関町に通ずる道路にして峻坂嶮路なりしが村長菅原巳之吉県議南條秀夫氏の熱烈なる援助を受け十数回出県請願して漸く昭和五年県道に認定 同七年十月起工日照田より永洞中央迄同八年県界迄旧村道に沿って改修し数年来の宿望を達成し本村内県道の基礎を確立○固にし従来の不便を除却して村内及び 萩荘村方面の林産物資の搬出に頗る利便を与えたり。

林道
林道に二種あり。何れも車道にして、桑畑行者瀧間の林道は営林局の管理に属す。馬場線、 金丁線、仁仙線、山田線は宮城縣の管理なり。

昔は玉山に通じる川臺道路は歩道にして、馬道は上田より平場を経るものと、浦田より根洗場を経て共に下 薄木に至るものとあり。其迂回甚だしく不便なりしが寛政年中肝入十三郎が初めて川臺へ馬道を開きたり。明治四十年大林区に於いて栗駒山岳及び村有林の林産 物搬出と村内交通の重要路線として桑畑より都田通り川臺に橋を架し、落合迄人馬道を開設したりしが、都田後河岸年々大破損し経費の増用と苗圃を経由せざる 不便とにより、昭和四年瀧ノ原通りに変更し、営林局に於いて桑畑下に半永久的架橋を施し阿元より大原迄は地元及び有志に於いて路線を開修し、昭和六年大原 より折戸迄、同八年折戸より行者瀧迄橋共に営林局栗駒村民及び地元民三者合体の努力にて従来の九尺幅を二間に改修して初めて自動車の運転を見ることとな り、桑畑以北の交通を一新せり。其他嶽山内には営林署に於いて縦横に人馬道及び歩道を開き如何なる深奥の渓谷よりも容易に物資を搬出するの便となりし。

仁仙線は桑畑より分岐し岩手縣厳美村に通じる峻坂なる人馬道にして同村小猪岡の部落民は常に日需品の購 入等に岩ヶ崎町を使用する重要道路なりしが、縣村の両費を以て昭和八年桑畑より都田迄同九年都田より(官林内は営林署にて改修したり)拈木達迄同十年縣界 迄改修完通し十一年以降は毎年縣村両費を以て急破修繕をなし本村有山及び小猪岡部落の物資搬出並びに交通に頗る便利を見ることとなれり。

金丁線は縣道字三丁より岐し、西山を経て文字村に通じる元郡道なり。林道として金丁より西山文字境に至 る計画にて昭和九、十の両年に亘り角石沼下迄改修し、昭和十四年パルプ用松材運搬簡易林道として文字村境迄開修したりしが、其費用は縣村両費なり。

馬場線は縣道字馬場より岐し文字村に通じる路線なり。古くは秋田縣に通じる枢要道路にて、藩命により木 鉢千葉太郎左衛門方は御番所を勤め宿屋を営み往復の旅人に対し厳重なる視察をなし交通も頗る頻繁なりしが維新後各地に道路及び鉄道開けたるため通行衰え漸 く路形を存するのみとなれり。昭和七年馬場より大峯前に通じる計画を樹て保度ヶ崎迄同八年蟻子平迄改修し後中止となれり。改修後は文字亜炭の搬出頗る多く 荷馬車の外中野岩ヶ崎方面より毎日数十人の駄○者を見ることとなれり。亜炭業者の繁栄を喜ぶと共に沿道木材の騰貴以前の倍額を示せり。

山田線は県道字若木より岐し本村山田、鳥矢崎村田代を経て本村永洞及び岩手縣市野々に通じる重要道路な りしが若木三本崎間は村道として昭和九年改修、三本崎より山田入口迄は同十三年何れも縣補助にて開修せり。


村道
西向道路は主として農道にて、昭和十一年度鳥居前より瀧ノ原林道に接続する間を縣補助を 以て改修したり。

小倉向道路は宮ノ下前より小倉向を縦断して堰ノ上に至り県道に出つ。昭和九年宮ノ下前より小倉迄堰ノ上 より迫川東岸迄県補助を受け改修せり。

前田道路は岩ノ目坂、萬代坂、小屋敷坂、根岸坂、等相当の交通あるため地元関係者の努力と多少の村補助 を以て完全なる修繕をなし居れり。

大正八年道路法改正の結果、栗駒村備付字絵図にある農作道は全部村道として認可せられたるも記載繁雑に 付き省略す。


橋梁
落合橋は元丸木橋なりしが昭和八年営林局にて架橋し、高さ十二尺幅十尺の土橋なり。道満 橋は明治四十年林道開設と共に初めて架橋したりしが、破損のため昭和八年橋臺をコンクリート工事とし架替したり高さ二丈五尺幅十尺の土橋なり。

天狗橋は玉山東側沼ヶ森発電所及び小猪岡に通じる重要道路の橋なり。文久三年時の肝入長十郎が初めて架 橋し爾来修繕を加え来りしが昭和四年地元者の努力にて村費補助を以て架替工事を行い高さ三十尺幅九尺の板橋なり。

桑畑橋は元沼袋にありしが、昭和四年林道改修の為初めて営林局にて架橋せり。当時、迫川下流に於いて鉄 道橋を除き「コンクリート」工事ピンヤの橋臺は当初のみなりと云う。高さ十五尺幅十二尺の土橋なり。

三反田橋は昔此橋を渡り浦田より玉山に通じる、村風土記に記載さる由緒ある橋なりしが、川臺通り人馬道 開通後は主として農道橋となり昭和二年地元関係者と村補助により高さ九尺幅八尺の半板半土の橋を架したるに昭和十三年九月一日の大洪水にて流失せり。

犀川橋は従来農道なりしが昭和四年地元関係者及び村補助により高さ十五尺幅八尺の土橋を架けたりしも昭 和十三年九月一日の大洪水にて流失せり。

馬場橋は昔秋田県に通じる道路にして特に郷社の参道等本村の重要とする処なりしが、元冶元年時の肝入長 十郎堅牢なる架橋をなしたるも幾何もなくして流失し、其後は随時架橋にて通行したりしが昭和三年地元関係者及び村有志寄附村補助等により高さ十三尺幅九尺 に全部栗材にて頗る堅牢なる土橋を架し、郷社の参拝児童の通学林産物亜炭の搬出其他耕作者の便等至大なりしが昭和十三年九月一日の大洪水の際上流の墜落橋 材流出して大なる災をなし遂に流失の厄に遭遇せり。

上東橋は小倉向より堰ノ上縣道に通じる橋にて昭和七年高さ八尺幅六尺の土橋を架したるに昭和十三年九月 一日の大洪水にて流失せり。翌十四年流失材を蒐集し再び村補助と地元関係者の努力にて復旧架替えをなしたり。

上八幡橋は村社参道と農道と文字村へ通じる重要なるものにて昭和二年地元関係者及び村補助にて高さ九尺 幅七尺の土橋を架けたるに昭和十三年九月一日の大洪水にて流失。

八幡橋金丁部落に上八幡橋と金丁橋と二ヶ所あり。此れを一ヶ所に整理する為較中央をとし昭和十二年国費 四分の三の補助を以て縣の設計にて総額4千二百円を当時架橋し、本村第一の美観と堅牢を具えたる高さ八尺幅十二尺の土橋なりしが、昭和十三年九月一日の大 洪水のため橋体低きにより浮流したり。以上は迫川の橋梁のみ掲記したり。縣道村道に関する橋梁は省略す。
 
 

産業

農業
本村は古来農業を以て本業となすと雖も、維新後迄は最不振にして水田の如きは村内の飯料 を充たすに過ぎず、玉山瀧ノ原部落の如きは農業は婦人の専業にして男性は山励みと称して年中山林に登り鍬柄下駄足駄荷鞍骨等の材料の採取及び製炭に従事し 是等の副業により生活の途を開き来りしが、明治十五年頃より官山の管理厳重となり将来は農業に専属するにあらざれば生存すること能はざるを悟り適地を開墾 して耕地となし農業に専念せり。

明治二十年頃初めて金肥を試施せるに著しく増収を見たるため爾来年と共に金肥使用者多くなり自然自給肥 料の減退となり今日となれり。馬犂は縣の奨励にて本村に初めて入りしは明治十九年にして全部木製なるため馬の労苦甚大にして馬産地には雌馬に耐えざるもの として排斥し使用するものなかりき。爾来製作者は改良に改良を加えたる為明治四十年頃より使用者続出し大正の初めには全村挙げて使用することとなれり。

田植えは従来廻り植えせしが大正五年より片正條植となり昭和の初年より枠を用い正條植に改良せるため肥 料増施馬犂深耕等相俟て従前反当一石一、二斗が現今は二石乃至二石七、八斗の増収を普通とせり。

播種は昔より八十八夜二、三日前を目標としたるため苗代附近に梅樹あるものは散花のため播種の妨害とな りたる例屡あり。又、其歳によるも郷社の祭日なる旧三月二十九日の朝夕播種したること多し為に抑秧は自然後れ入梅の日に植えるものを最も早しとするため往 々冷害凶作等の不幸を見たり。農会に於いては早蒔早植を奨励したる結果大正四・五年頃より四月初旬に播種し五月二十五・六日頃より○秧することとなれり。 故に冷害凶作等を或程度迄免かるることを得たり。田草は古より手取にて土用中に二番除草を終ひたりしが明治三十年頃蟹爪を使用する者稀にありしも之れを癈 し大正初年頃除草器の発明により使用するもの続出したり。其後研究を積み改良を加え良器競現せるため昭和の初めより一般に使用し除草器1回手取2回を土用 数日前に終了することとなれり。稲刈鎌は古より草刈鎌のお下りを用いしが昭和三・四年頃より鋸歯鎌を使用することとなる。稲扱は昔より千把扱を用い来たり しに大正五年頃足踏にて回転せる軽便稲麥脱穀器の発明あり使用する者現れたりしが大正七・八年頃より一般使用することとなれり。更に水車を利用するものあ り。籾摺は昔木摺臼を用い天保年間より土摺臼に改良し来たりしが米の光沢に関係し売米は格下げとなり非常に損害を見るため、昭和初年頃より護謨付土摺臼と なり昭和八・九年頃より石油発動機を一般に用うることとなれり。土摺臼時代迄は夜摺臼挽と称し夜十二時迄夜業したるも石油発動機の便により廃止となれり。 精米は古より水車を用い来たりしが脱穀と同時に石油発動機を用い水車業は自然廃業となる。畑作は麦の播種は古より狭條蒔を用い来たりしが大正十四年村農会 の主催にて岩手県胆澤郡の精農家佐藤染三郎を聘し講習(講習生一迫以北来り学校立錐の余地なき盛況)を受け幅廣蒔に改良し以前の収穫より二倍の増収を見る こととなれり。麦の脱穀は昔より麦打と称し前庭にて振り打と称する器具を以て土用中朝未明より丸裸にて打落とし掛声最も勇ましく足並みを揃え片側三・四人 にて恰も剣士の打ち込みの如く振り回し一通り目進めば二通り目は退き最も勇敢なる仕事にして武徳殿の戦闘に髣髴せり。又一面難儀なるため夏の病と称し賃金 は除草の二倍を相当とせり。之も足踏脱穀器の便により廃止となれり(農家の前庭の広きは麦打に用いるためなり)。大小豆蔬菜も米麦と共に農会の指導奨励に より増収を見る。蔬菜の如きは栽培するもの僅少なりしが目下一般に多種類を作り自給自足を目的として進み来たりたるため莫大な成果を収め昔日を一新せり。

養蚕
維新前後に於いて本村にて養蚕をなす者は田園を耕耘せざる士族及び医師寺院等五・六戸に 過ぎざりしが、戸長芳賀永治は将来本村の如き耕地の狭隘なる村落は養蚕の副業にあらざれば生活を助くること能はざるを看破し、桑園の造設のため明治十三年 多大の桑苗木を購入し全村に植付け方を奨励したり。当時縣に於いても養蚕の普及を謀り各郡に一ヶ所づつの伝習所を設置し斯業の改良発達に腐心し大いに奨励 に努め明治十四年、三ヶ年計画にて本村に栗原郡養蚕伝習所を置き、福嶋縣より教師二名を招聘し(芳賀永治宅二年芳賀兵三郎宅一年)専ら飼育及び座繰製糸を 習得せしめたるため本村は一躍縣下に養蚕村の名を挙げると同時に飼育者百戸以上の多きに達し、爾来年々増加して今日に至れり。元来養蚕家は飼育と製糸を兼 ね来たりしが各所に製糸場続出せるため明治の終わり大正の初め頃より自家製糸を廢し繭販売に変ぜり。目下の養蚕戸数二百三十戸。
林産物及び植林
本村は山村なるため山林に富み、古来膳、木具、下駄、足駄、鍬柄、荷鞍骨及び製炭の産地 として有名なりしが維新後山林濫伐の結果、材料に欠乏を告げ膳及び木具等は全く跡を絶ちに至れり。減光足駄業者も材料欠乏とゴム靴に圧倒せられたるため明 治四十年頃より製炭に転業せり。其他木材等の産出は概ね他町村の製材業者に立ち木にて売却すめを以て製材として特記する価値なし。植林は古来遅々として進 まず、民間に於いて適地の一部に杉松の小部分を見るのみなりしに昭和七年より縣補助の奨励により民間に於いて二反歩以上を植え付ける者続出し其の面積六十 五町歩の多きに至り、尚年々補助申請者続出し益々増殖を見る傾向なり。村有山は元植林なく天然林のみなりし濫伐の結果裸山となり明治四十年頃より種々の奨 励及び方法により各所に植林を為したり、大正十四年部落有財産統一により大部分は天然林として施業案を樹て十ヶ年毎に林成計画を編成し年々四十町歩づつ払 い下げして数千円の収入を見ることとなれり。村有山人工造林地を下に揚ぐ。

植林年度/場  所/反  別/樹種/備    考
大正三年/玉山赤玉/三〇〇〇/杉/生業扶助事業地
 〃  /川  臺/二〇〇〇/〃/   〃
 〃  /火 ノ 澤/ 八〇〇/〃/   〃
 〃  /西山小治郎澤/二〇〇〇/〃/ 〃
大正四年以降/天王山/三〇〇〇/〃/学校、青年団及び高等科の事業
明治三十年以降/岩渕/一六〇〇/〃/村植林
大  正/楠  澤/    /〃/部分植
昭和八年/新  倉/ 五〇〇/〃/村植林
 〃  /学校後山/ 四〇〇/〃/同学林
昭和七年/西  山/ 二〇〇/〃/ 〃
 〃  /西  山/ 五〇〇/〃/消防組植林
昭和十二年/西 山/ 五〇〇/〃/在郷軍人分会植林
昭和十年/玉山赤玉/ 二〇〇/〃/玉山青年団植林分校修繕のため
明治三十五年以降/三丁/二〇〇/杉松/学林
 〃  /木 鉢 澤/ 二〇〇/杉/学林朴ノ木田卒業記念林村植林伴多山青

上外小部分林各所にあり略す。

畜産
本村の産馬事業は叙述するに方り先ず岩ヶ崎櫻馬場及び馬市場の事績を述ぶるを先決とす。 櫻馬場の沿革を繹するに遠く田村麻呂将軍時代に創まり降って文治年間に沼倉、松倉、文字、花山の生産せる馬市場として岩ヶ崎に開設したりと云う。寿永年間 に出でたる池月摺墨(池月は池月村産、摺墨は鶯澤産)の駿馬も岩ヶ崎市場より出て徳川三代将軍家光公隅田川洪水検分に方り阿部豊後守が濁流を騎り切りたる 駿馬も岩ヶ崎市場(沼倉の産)より出て共に櫻馬場を苦しめたる逸物なりと古書に見ゆれば、本村は往古より馬の主産地なるを知る得べし。藩政時代に於いても 徳川家の御用馬買上場所は仙臺、岩ヶ崎の二ヶ所にて之れを三歳駒市と称す。多数の役人出張し二十頭の良馬を選択したり。之れが選に当たるものは一番二十八 両、二番二十六両二分、三番二十六両と云う順序にて最低は十七両なり。更に藩用として百余頭の御買上ありて之等の選に当たりたる者は貧者も一躍裕福となる ため之を目的に熱心なる生産を見たり。維新後に至りても依然産馬の奨励ありて本村にては唯一の産業として従事し来たりたり。明治十二年初めて本村に洋馬二 頭(月毛一、栗毛一)を種牡馬として下付せられ一般之れを「アラビヤ馬」と称せり。月毛は間もなく驚死したるため縣道より三反田橋に岐る俗称佐野路傍に埋 め其の上に「英国産翁月毛ノ碑」と山下一氏の揮毫せる石碑を建てたりしが、洪水のため流失せり。栗毛の子にて沼倉道場の濁沼欽作二歳牡馬を二百十円(和馬 なれば三十円位のもの)に買上げられたり。明治十五年仙台産牛馬組合の設立ありて全く民業に属し南條文五郎組合長となり大いに県下に貢献せり。明治三十三 年畜産組合法により総会の決議を以て事業一切を県庁に委託したりしが明治四十年再び民業に移り甚だしく政党色彩を現したり。先に南條組合長時代には生産に 係る牡馬は全部定○として歩金なく生産者の所有となし牡馬のみ一割乃至一割二・三分の間の歩金を出し此の歩金にて組合を維持し種牡馬(本村にては十頭前後 交付せられ誰預かりとして飼育し年々老馬と牡馬を交換したり)を各村に交付し更に多額の基本財産をありたるに再び民業に移りてより多くは国有種牡馬を用い 生産率は国有七、組合三の割合なるに生産せる牡馬全部を売却せしめ一割二分の歩金を出し居るに拘わらず従来蓄積せる基本財産を政党の運動費に消費して猶多 額の負債あると云うに至りては本縣の畜産組合も頗る憂慮に耐えざるを以て此の際改革を断行して積弊を排除し清澄なる組合に復興せんと当業者は大いに憤慨し 居るを以て近き将来に革整の実現を見るならん。種付所は明治三十七年国有種牡馬派遣のため必要を生じ産馬取締役佐藤弥之助の努力にて民家の古厩を買い入れ し沼倉釘ノ子の後ろに建設したりしが種付区域は栗駒・鳥矢崎・萩野の三ヶ村に跨がり交通不便と建物の廉悪なるため其の筋の注意と指定により昭和九年農林省 の補助と地方有志の寄付金により産馬取締役遠藤良作の努力を以て志田河原に移して新築したり。昭和十三年古今未曾有の大洪水のため建物危険に瀕したるため 地方有志の努力により上段の桟敷田に引き上げたり。

幼駒運動場は縣の補助と最寄関係者の努力により設けたり。

年  度/場  所
昭和七年/志田河原  同八年/上田  同九年/玉山  同九年/永洞  昭和九年/小深田平  〃/水押   同十年/内ノ目○

牛は村内七十八戸の飼養にて馬産地としては振るわざるを良策とす。

羊豚は十戸内外にて畜産として挙ぐるの価値なし。

養兎は近年児童を奨励して飼育に当たらしめ特に時局に際し軍需品として其の筋の奨励と相俟って飼育者増 加し村内通じて千数百頭の多きを示せり。養鶏は昔より各戸に十羽内外を養ひ鶏鳴を以て時を知り来たりしが近来二十羽位の飼育者は数十戸あるも養鶏家として 挙ぐるものなし。養狸狐を試み居るもの二戸あるも振るわず一層の研究を見ざれば今後養うこと能はざる者の如し。

衛生
本村は古来積雪多く冬季の便宜として各戸居家入口向て左側に小便所と浴室を建て付け、入 浴及び使用を縁側よりなし為に居家不潔極まりなく是等の原因にて種々疾患多かりしが明治二十年初代駐在巡査中田豊治郎は村内各最寄に協議会を開き、小便所 の移転は衛生上最も必要なる所以を熱心に懇説し極力実行を勧誘しめるに慣習の久しきを以て初めは反対するもの多かりしも熱烈なる努力により実現せり。今日 より見るなれば、如何に当時の未開生活なること想像するに余りありと云うべし。伝染病発生するに当たりては、隔離病舎なく発生患者の自宅を隔離病舎に充て 之れに収容し来たりが其不便と危険の大なるを憂い大正十二年元松倉小学校古校舎を改修し該病舎となしたり。

種痘は明治五年初めて本村にて施行したり。当時は詐欺師の如く思惟し応ずるものなかりしが其筋にて強制 的に施行したるため明治八・九年頃に至り天然痘を防ぐことを認識漸く一般が喜びて行うこととなれり。明治初年生まれにて顔に痘痕あるものは当時父兄が種痘 を卑下して施行せざるものと知るべし。清潔法は明治三十四年に始まり衛生組合の組織等ありて毎年春秋の外臨時の邸宅の掃除をなすこととなれり。
(明治三十四年著者が宮城県巡査教習所に入りしに同所縁の下より紙屑等山の如く搬出して大掃除をなしたり、民 家にても古き建物なれば縁の下より煤塵芥三十俵程搬出したる所少なからず。)

<続く>




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